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法華三部経を読んで 『法華経』その2

8.甚深微妙の法

方便品第二の偈に、次のような御文があった。

甚深微妙の法は、見ること難く了すべきこと難し
無量億劫において、この諸の道を行じおはりて
道場にして果を成ずることを得て、我すでに悉く知見せり
(國譯経一45頁)

この御文を拝読すると、私は浄土真宗本願寺派の礼讃文を思い起こした。

無上甚深微妙の法は、百千万劫にもあい遇こと難し。
われ今見聞し受持することを得たり。
願わくは如来の真実義を解したてまつらん。

とても似た表現が使われており、面白い。
まず『法華経』の方は、釈尊ご自身が説かれた偈文である。そのため、「果を成ずることを得て」、はたまた「我すでに悉く知見せり」とあり、如来の立場で語っておられる言葉であることをうかがい知ることができる。

次の真宗の礼讃文は、凡夫、念仏の衆生、御同朋が一同に唱和する御文である。「われ今見聞し受持することを得たり」とあり、先ほどの「知見」とは異なり「見聞」と出てくる。本願成就文の「聞其名号」を要とする、なんとも真宗らしい表現のように感じる。さらに言うならば、それを「受持することを得たり」、ここは凡夫が信の一念で受け、それが生涯にわたって持たれる、すなわち信後相続をさしているのであろう。
そしてその上で、「如来の真実義を解したてまつらん」とは、蓮如上人のいう「信心のみぞさらへ」ともいえようし、私なりの言葉でいうなら「あくなき求法・聞法の歩み」という生き生きとした仏道(凡夫道即菩薩道)となる。
しかしながら、何といっても不思議なのは、『法華経』で「無量億劫において、この諸の道を行じおはりて」とある釈尊の仏道を、今生の信の一念、南無阿弥陀仏の一声に全て頂くという、なんとも大胆不敵としか言いようのない法門を、縁あって私は歩ませて頂いているのだった…

南無阿弥陀仏

ただし、『法華経』の先の偈文の続きには、以下のようにある。

甚深微妙の法を、我今すでに具ふることを得たり
ただ我のみこの相を知れり、十方の仏もまたしかなり
舎利弗まさに知るべし、諸仏は語異なることなし
仏の説きたまふ所の法において、まさに大信力を生ずべし
(國譯経一47頁)

「甚深微妙の法」の相は、如来さまにしか知り得ることができないもの。だからこそ、舎利弗尊者に「大信力」を生ずべしとある。この仰せ、私は凡夫に対して「そのまま聞けよ」と仰せられる真宗の極要と、勝手ながらシンパシーを感じている。『法華経』に説き示される甚深微妙の法も、もはや一つ一つ理解して歩ませるというより、「お願いだから、どうか丸ごと信じておくれ」という如来さまの切なる願い(御方便)が、そこにあるのではないだろうか…

南無阿弥陀仏

つづく

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