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法華三部経を読んで 『法華経』その6

12.諸苦の所因

譬喩品第三の偈文に、以下の説示がある。

……
仏の説きたまふ苦諦は、真実にして異なし
もし衆生ありて、苦の本を知らず
深く苦の因に著して、しばらくも捨つることあたはず
これ等の為のゆえに、方便して道を説きたまふ
諸苦の所因は、貪欲を本と為す
もし貪欲を滅すれば、依止するところなし
諸苦を滅尽するを、第三の諦と名づく
……
(國譯経一94頁)

時折、法話で苦しみの原因は「欲望(貪欲)」だと聞くことがあり、無明ではないのかなぁと首をかしげていたが、『法華経』のこの偈文を拝読してハッとした。経典によっては、このように説いておられるお経さまもあるようだ。また、あながちに言葉にとらわれて簡単に否定しようとしていた自分にも気づかせてもらった感じがした。

南無阿弥陀仏


13.唯信の法と覚悟

譬喩品第三の偈文には、以下の説示もみられた。

……
汝舎利弗、我がこの法印は
世間を利益せんと、欲するが為のゆえに説く
所遊の方に在りて、妄りに宣伝することなかれ
もし聞くことあらん者、随喜し頂受せば
まさに知るべしこの人は、阿毘跋致なり
もしこの経法を、信受することあらん者は
この人はすでにかつて、過去の仏を見たてまつりて
恭敬し供養し、またこの法を聞けるなり
もし人よく、汝が所説を信ずることあらば
すなはちこれ我を見、また汝
および比丘僧、並びに諸の菩薩を見るなり
……
(國譯経一95頁)

私はこの偈文を拝読しながら、『無量寿経』「東方偈(往覲偈)」の以下の一節を思った。

曾更世尊を見たてまつりしものは、すなはちよくこの事を信じ、
謙敬にして聞きて奉行し、踊躍して大きに歓喜す。
驕慢と弊と懈怠とは、もつてこの法を信ずること難し。
宿世に諸仏を見たてまつりしものは、楽んでかくのごときの教を聴かん。
(註釈版46頁)

『法華経』であろうと『無量寿経』であろうと、その教えを信じ受け入れる者は、過去世からの諸仏の御育てにあってきた証拠でもあるのだ。前々回に拝読した舎利弗尊者の授記、そこでも釈尊と舎利弗尊者の過去世からの御因縁を少し語って下さっていたが、仏法を聞いていると、三世の不思議な御因縁に驚くというか、なんとも言えない温もりを感じる。親鸞聖人が「遠く宿縁を慶べ」と仰られたことが思い起こされる。

また、上に引用した偈文に「もし聞くことあらん者、随喜し頂受せば まさに知るべしこの人は、阿毘跋致なり」とあるのも面白い。阿毘跋致とはすなわち不退転。あたかも聞即信にて現生正定聚を説き明かす真宗の極要を示しているようだ。こうした不思議な類似点、共通点が窺えるのが、なんとも不思議で面白い。

さて、先の偈文の続きに以下のようにある。

……
この法華経は、深智の為に説く
浅識はこれを聞きて、迷惑して解らず
一切の声聞、および辟支仏は
この経の中において、力およばざる所なり
汝舎利弗すら、なおこの経においては
信をもって入ることを得たり、いはんや余の声聞をや
その余の声聞も、仏語を信ずるがゆえに
この経に随順す、己が智分にあらず
また舎利弗、驕慢懈怠
我見を計する者には、この経を説くことなかれ
凡夫の浅識にして、深く五欲に著せるは
聞くとも解ることあたはじ、また為に説くことなかれ
もし人信ぜずして、この経を毀謗せば
すなはち一切、世間の仏種を断ぜん
あるひはまた顰蹙して、しかも疑惑を懐かん
汝まさに、この人の罪報を説かんを聴くべし
……
(國譯経一95-96頁)

「信をもって入ることを得たり」とあるところ、まさに真宗に通じるところであろう。「正信偈」の以下の御文が響いてきた。

還来生死輪転家 決以疑情為所止
速入寂静無為楽 必以信心為能入
生死輪転の家に還来ることは、決するに疑情をもつて所止とす。
すみやかに寂静無為の楽に入ることは、かならず信心をもつて能入とすといへり。
(註釈版207頁)

そして「その余の声聞も、仏語を信ずるがゆえに この経に随順す、己が智分にあらず」とあり、智慧第一の舎利弗尊者でさえ、ただ信じることにおいてのみ入れたのであるから、その他の声聞(仏弟子)においてはなおさらであると説いておられる。

ここで「仏語を信ずるがゆえに」とあることに着目してみるならば、私は『無量義経』でみた「四十余年にはいまだかつて実を顕はさず」の御心を思った。釈尊は成道後、コツコツと人々の心を耕す中に、「仏陀の教えをそのまま信じても大丈夫」という安心感、信頼感を育てていかれたのではないだろうか。その機縁が調い、説き述べたことを丸ごと信じ受け入れてくれるお弟子方が育ち集まってくれてたからこそ、大胆に、このような教法を説き述べることができたのではないかと思う。

また「己が智分にあらず」と聞くと、私は御本典の以下の御文を思い起こす。

しかれば、それ楞厳の和尚(源信)の解義を案ずるに、念仏証拠門(往生要集・下)のなかに、第十八の願は別願のなかの別願なりと顕開したまへり。『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。
(註釈版381頁)

この中、私は「おのれが能を思量せよ」とのご示現が、妙にリンクして味わわれたのだ。

最後に、「もし人信ぜずして、この経を毀謗せば すなはち一切、世間の仏種を断ぜん あるひはまた顰蹙して、しかも疑惑を懐かん 汝まさに、この人の罪報を説かんを聴くべし」とあるところ、私は本願文、そして本願成就文にある唯除の文を思い浮かべた。

唯除五逆誹謗正法
ただ五逆と誹謗正法とをば除く
(註釈版18頁、41頁)

十方一切を救うと輝く阿弥陀さまが、唯一述べられた除外する御文。これは、そうまでして何としてでも防ぎたいことでもあったのだ。『法華経』の偈文では、謗法による罪報の詳細が懇々と謳われている。『無量寿経』では下巻の三毒・五悪段に詳しい。こうした「ただ信じてくれ」という仰せを説き述べる上でのリスク、それを重々承知の上で、それをも引き受ける覚悟をもって、如来さま方は説き述べてくださっているのであろう。
如来さまの深いやさしさと信頼、そんなことを静かに感じます。

南無阿弥陀仏

つづく


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