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法華三部経を読んで 『法華経』その9

17.南無阿弥陀仏は法華経だった…

これまで提婆達多品第十二までをホクホクと味わい、次はどうしようかと如来寿量品第十六あたりを読み直していて、その大胆な説示にいろいろと驚くことがあり、あらためて『法華経』って何なんだろう?と思い直す、というより正直なところ思い悩んだ…。
たまたま『仏教説話大系』の中に『法華経』の現代語意訳「法華物語」を見つけていた。それを拝読しながら、あらためて『法華経』全体の流れを少し時間をかけて味わううちに、私なりの領解が沸き起こってきた。
(※中村元、増谷文雄 監修『仏教説話大系』第28巻大乗仏典抄(一)、すずき出版、1985年。以降、仏説大系28と表記する)

結論だけ先に書いておくと、「南無阿弥陀仏は法華経だった」。
…なんともとんでもない言葉にまとまったものだと我ながら思うが、今は素直にそう感じている。

方便品第二の以下の説示をみてみよう。

仏、舎利弗に告げたまはく、「かくの如きの妙法は、諸仏如来、時にいましこれを説きたまふ。優曇華の時に一たび現ずるが如きのみ。舎利弗、汝等まさに信ずべし、仏の説きたまふ所の言は、虚妄ならず。舎利弗、諸仏随宜の説法は、意趣解り難し。ゆえんはいかん。我無数の方便、種種の因縁、譬喩、言辞をもって、諸法を演説す。この法は思量分別のよく解する所にあらず。ただ諸仏のみましまして、いましよくこれを知ろしめせり。ゆえんはいかん。諸仏世尊は、ただ一大事の因縁をもってのゆえに世に出現したまふ。舎利弗、いかなるをか諸仏世尊はただ一大事の因縁をもってのゆえに世に出現したまふと名づくる。諸仏世尊は、衆生をして仏知見を開かしめ、清浄なることを得しめんと欲するがゆえに、世に出現したまふ。衆生に仏知見を示さんと欲するがゆえに、世に出現したまふ。衆生をして仏知見を悟らしめんと欲するがゆえに、世に出現したまふ。衆生をして仏知見の道に入らしめんと欲するがゆえに世に出現したまふ。舎利弗、これを諸仏はただ一大事の因縁をもってのゆえに世に出現したまふとなす。」仏、舎利弗に告げたまはく、「諸仏如来は、ただ菩薩を教化したまふ。諸の所作は、常に一事の為なり。ただ仏の知見をもって、衆生に示悟したまはん。……
(國譯経一51-52頁)

あわせて、ここの現代語意訳をみてみよう。

「舎利弗よ、仏の話すことばは深い意味をもち、その真意は理解されにくいのです。なぜならば、仏は話す相手によってさまざまなたとえ話や巧妙な方便を用いて真理の一端を示し、その相手を救おうとしますが、その一端の真理を含む全体の真理、すなわち仏の真意というものは仏のみが知るものだからなのです。では、仏の真意とはいったいなんでしょうか。舎利弗よ、それは仏のたったひとつの目的でもあるのです。どんな譬喩を用いようとも、どんな方便を用いようとも、実は仏はその目的のためのみすべてのことを行っているのです。それがなにか、わかりますか」
「いいえ、わたしはまだそれをうかがったことがございません」
「舎利弗よ、それは、このうえない仏の知恵をすべての人々に得させることなのです。そして、生きとし生けるものを仏の道に入らせることなのです。諸仏はそのために世に出現するのです」
「世尊よ、すべての人々が、生きとし生けるものが仏の知恵を得て、仏の道に入るなどということができるのでしょうか」
「舎利弗よ、実は、仏はその実現のためにのみあらゆることを行っているのです」
……
(仏説大系28、33-34頁)

今まで私は、法華経とはこの『妙法蓮華経』という御経典全体を指す言葉としてしか理解していなかったのだが、法華経を読む中に、様々な仏菩薩さま方が法華経による御教化をしておられることが数多く述べられているのだ。いわば、入れ子構造というか…
法華経とは何か?畏れながらそのことに愚案を馳せるに、それは「仏の一大事因縁」を知らせる教え。すべてのものを、悉く奮い立たせ、仏陀への歩みを促す教え。それこそが、法華経の法華経たる由縁といえると思う。

また上にも書いた法華経の入れ子構造の中で、私が特に驚いた化城喩品第七の一節を引用しよう。

仏、諸の比丘に告げたまはく、「この十六の菩薩は、常に楽ひてこの妙法蓮華経を説く。一一の菩薩の所化の六百万億那由他恒河沙等の衆生、世世に生るる所は菩薩とともにして、それに従ひて法を聞きて、悉くみな信解せり。この因縁をもって、四万億の諸仏世尊に値ひたてまつることを得たり、今に尽きず。諸の比丘、我今汝に語る、かの仏の弟子の、十六沙弥は、今みな阿耨多羅三藐三菩提を得て、十方国土において、現にましまして法を説きたまふ。無量百千万億の菩薩声聞ありて、もって眷属となせり。その二人の沙弥は、東方にして作仏す。一を阿閦と名づく、歓喜国にまします。二をば須弥頂と名づく。……西方に二仏あり、一をば阿弥陀と名づけ、二をば度一切世間苦悩と名づく。……第十六は我釈迦牟尼仏なり。娑婆国土において、阿耨多羅三藐三菩提を成ぜり。……
(國譯経一152頁)

あわせて、ここも現代語意訳をみておこう。

「僧たちよ、この十六人の菩薩たちはすばらしい知恵を備えています。おまえたちは彼らの教えを信じ、心にしっかりととどめなさい。直弟子の声聞であれ、みずから悟りを得た縁覚であれ、人のために尽くす菩薩であれ、十六人の菩薩たちの教えを守る者は必ず完全な悟りに到達できるのです」
こうして十六人の菩薩たちは法華経を説き続けた。その後、十六人の菩薩たちはひとり残らず仏となり、それぞれの仏国土で今も教えを説いている。たとえば東方の歓喜世界では阿閦仏が、西方では阿弥陀仏が、この娑婆世界では釈迦牟尼仏が今も教えを説き続けているのである。
(仏説大系28、98頁)

『法華経』に阿弥陀仏が登場することにまず驚いたが、それ以上に阿弥陀仏も法華経を今も説き続けておられる、その説示に私は本当に驚いた。
恥ずかしながら、私は今まで、『法華経』と『無量寿経』は相容れない関係にあるように思っていた。ところが、その『法華経』の中に阿弥陀仏さえも法華経を説いておられるとの説示をみたとき、私のそれまでの既成概念がガラガラと崩れていく感じがした…。

しかしながら、崩れたうえでもう一度、よくよく味わってみると、南無阿弥陀仏は「仏の一大事因縁」そのものであることを思った。南無阿弥陀仏の呼びかけは、欲生我国、すべてのものに「どうか我が国に生れてきておくれ」との願い、それはそのまま願作仏心「どうか仏となっておくれ」との御心。そこをふまえて大胆に言葉にするならば、「南無阿弥陀仏は法華経だった」という上記の結論に私は達した。

さて、甚だ勝手なことをしているかもしれないという畏れも感じつつ、それでも等身大の今の私が原文や意訳を拝読する中に沸き起こった素直な言葉として、今は「南無阿弥陀仏は法華経だった」という大きな御心の基、今一度、法華三部経と向き合い、自由に味わっていきたいと思います。

南無阿弥陀仏

つづく

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