『悲華経』を読んで その10

11.無上道の伴 ―大悲菩薩の檀波羅蜜―

前回に続く説法にも、興味深い記述があった。

善男子よ、その時、会の中に一梵志あり、名相具足しかくのごとき言をなす。善き丈夫よ、もし来世無量無辺阿僧祇劫において菩薩となるの時、在在生処に我、まさに汝のために常に侍使となるべし。つねに慈心をもってもちゆるところを奉給せむ。一生の時に至り、また、父となるべし。汝、成仏し已らば大檀越とならむ。また、まさに我に無上道の記を授け給ふべし、と。(国訳経五162頁)

おそらく、ここで「父となるべし」と仰られていることから推察するに、この一梵志とは過去世の浄飯王(スッドーダナ王)のことであろう。
ここの続きには、同じように母、伯母、智慧の声聞の弟子、神足の声聞の弟子、子、妻等と続く。おそらく過去世の摩耶夫人、摩訶波闍波提、舎利弗、木蓮、羅睺羅、耶輸陀羅のことだろうと思われる。釈尊だけではなく、その周囲の方々にも、過去世からの御因縁がある。そしてその方々をして、様々な教説(経典)が生まれているのだ。宗祖が王舎城の悲劇に連なる方々を、「権化の仁」と仰いでおられる御心を思う。

さてその続きに、以下のような方が名乗りをあげる。

そのとき、一裸形梵志あり、乱想可畏と名づく。また、この言をなす。善大丈夫(大悲菩薩)よ、汝、無量無辺阿僧祇劫において菩薩道を行ずるの時、我、まさに汝よりもちゆるところを求索むべし。常に汝の所に至り、衣服・床榻・臥具・房舎・屋宅・象馬・車乗・国城・妻子・頭目・髄脳・皮肉・手脚・耳鼻・舌、身を乞求めむ。我、まさに汝のために佐助因となるべし。汝をして檀波羅蜜乃至般若波羅蜜を満足せしめむ。大悲梵志よ、かくのごとき等の菩薩道を行ずるの時、我、まさに汝を勧めて六波羅蜜を具足することを得せしむべし。汝、成仏し已わらば願くば弟子となり、まさに汝より八万の法聚を聞くべし。聞き已りすなわちよく法相を弁説せむ。法相を説き已らば汝、まさに我に無上道の記を授け給ふべししと。(国訳経五163頁)

経文を打ち込んでいて、私は背筋に少し悪寒が走った。乱想可畏、私には恐ろしい存在に感ぜられたのだ。
しかし大悲菩薩は、以下のよう述べていかれる。

善男子よ、その時、(大悲)梵志、このことを聞き已ってすなはち、仏(宝蔵如来)の足を礼す。すなはち、裸形梵志に告げて言はく、善き哉、汝は真にこれ我が無上道の伴なり。汝、無量無辺百千万億阿僧祇劫において常に我の所に至り、もちゆるところを乞索む。いはゆる、衣服乃至、舌身なり。我、その時において清浄の心をもって諸の所有を捨てて汝に布施せむ。汝、この時においてもまた罪分なし、と。(国訳経五163頁)

「我が無上道の伴(とも)」。大悲菩薩は乱想可畏を、そのように仰せられるのだ。菩薩の歩みに、今更ながら身震いする思いがする。
そしてそれだけではなく、大悲菩薩は以下のように御誓いになっていかれる。

善男子よ、その時、大悲菩薩摩訶薩、また、この言をなす。世尊よ、我、無量無辺百千万億阿僧祇劫において在在生処に菩薩となるの時、諸の乞士あり、我が前に在りて住す。もしくは飲食を求む。あるいは軟語をもってし、あるいは悪言をもってし、あるいは軽毀呰、あるいは真実言なり。世尊よ、我、その時において乃至、一念の悪心を生ぜざらむ。もしくは瞋恚を生ずるも弾指の頃のごとし。施の因縁をもって将来の報を求むるは我、すなはち十方世界無量無辺阿僧祇の現在諸仏を欺誑するなり。……もし諸仏を誑さば、すなはち必ず阿鼻地獄に堕つべし。歓喜して衣服・飲食を施与するあたはず、もしかの乞者、あるいは軟語をもってし、あるいは麁悪言、あるいは軽毀呰、あるいは真実語(をもって)かくのごとき頭・目・髄・脳を求索めんに、世尊よ、もし我、この時心に歓喜を生ぜず乃至一年の瞋恚を生ぜむか、この施の縁をもって果報を求むるはすなはち十方世界無量無辺の現在諸仏を欺誑するとなす。この因縁をもって必ず定むで阿鼻地獄に堕ちむ。檀波羅蜜を説くがごとく乃至、般若波羅蜜もまたかくのごとし、と。(国訳経五163-164頁)

大悲菩薩の檀波羅蜜(布施)には、もはや驚嘆するしかない…。
裸形梵志を「無上道の伴」とするだけでなく、もし布施の過程で一念でも怒りの心を起こしたならば、それは諸仏方を欺いたことになり、必ず阿鼻地獄(無間地獄)に堕すという…。
…なんという、とんでもない誓願だろうか。もはやその内容に、私は驚愕するしかなかった。

ちなみに、大悲菩薩(宝海梵志)の布施行(檀波羅蜜)を、法然聖人は『無量寿経釈』において法蔵菩薩の兆載永劫の御修行の具体的な内容として引用しておられる。私が『悲華経』に惹かれた理由も、そのことを御法話で聞かせてもらったことが大きい。

さて、最後にこの大悲菩薩の御誓いを受けた宝蔵如来たちの賛辞を引用して、この回を終えよう。

善男子よ、その時、宝蔵如来、すなはち、宝海梵志(大悲菩薩)を讃嘆し給ふよう、善き哉、善き哉。善く大悲心を安止するの故にこの誓願をなすと。善男子よ、その時、一切の大衆、諸天・龍・鬼神・人及び非人合掌し讃じて言く、善き哉、善き哉。善く大悲心を安止するの故にこの誓願をなし大名称を得。堅固に六和の法を行じ一切の衆生を充足し利益す、と。善男子よ、裸形梵志、誓願をなす時のごとくまた、八万四千人あり。また梵志の発す所の誓願と同じ。(国訳経五164頁)

南無阿弥陀仏

つづく

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