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法華三部経を読んで 『無量義経』その1

1. はじめに

『悲華経』を拝読し、次に『法華経』を手に取ったのは、「授記」に興味が湧いていたからでした。たまたま開いたあるウェブサイトを通じて、『法華経』に仏弟子方への授記が説き述べてあることを知り、それにググっと惹かれました。
(舎利弗尊者は華光如来になる、という事を知り、縁あって浄土真宗 華光会でも御育てを頂く私は、勝手ながら妙な親近感も得たのでした)

そんな中、自坊の本棚に『國譯大蔵経』を発見し、そこにちょうど『法華経』も収められていました。開いて見ると『無量義経』から載っており、どこかで聞き覚えがあるなぁとwikiで調べてみたところ、法華三部経なるお経さまの存在を、恥ずかしながら今頃知ることとなりました。

さて、紆余曲折ありながらも、法華三部経に御縁を頂き、私なりにのんびりと通読することができました。その中で響くままに線を引いた箇所を基に、今一度、法華三部経を自由に思うまま、味わってみようと思います。
ちなみに、頁数の記載は私が拝読した『昭和新纂 國譯大蔵経』経典部 第一巻、東方書院、昭和4年のものとし、以降は「國譯経一」と略称して書かせてもらおうと思います。

南無阿弥陀仏

2. 大荘厳菩薩の讃歌(釈尊の布施行)

さて、『無量義経』徳行品第一では、大荘厳菩薩が釈尊をほめ讃えられる偈文があり、その中に以下の御文がありました。

よく一切の諸の捨て難き、財宝妻子および国城を捨てて
法の内外において悕むところなく、頭目髄脳悉く人に施したまへり
(國譯経一6頁)

これまで『悲華経』を拝読してきたこともあり、釈尊のこのような布施行を讃える御文が目に入ってきたのだと思います。『無量義経』でも同じように味わわせて頂くことの不思議を思います。これも、お経さまの美しさの一つなのでしょう。一切経すべてが、矛盾なく綺麗に、一つの真実を説き述べておられる、そのことの現れかと思いました。

また、法蔵菩薩の同様の布施行を「南無阿弥陀仏」と丸々いただいていることを思います。
同時に、それ(南無阿弥陀仏)を私どもへと指し示された釈尊の布施行の御陰様もまた、こうして私へと届けられている不思議が、味わえてきました。

南無阿弥陀仏

3.無量億劫にも自ら出ることあたはずと観察すべし

説法品第二に、次のような記述がありました。

しかも諸の衆生は、虚妄もて横にこれは此、これは彼、これは得、これは失なりと計して、不善の念を起し、衆の悪業を造り、六趣に輪廻して諸の苦毒をうけ、無量億劫にも自ら出ることあたはずと観察すべし。
(國譯経一8頁)

ここを拝読し、驚きました。私はそれまで、聖道門は此土得聖の法門であるから、このような真宗の機の深信に通じる御文はないものと、勝手に思い込んでいました。
百聞は一見に如かず。
きちんと自分の目で確かめてみることの大切さを、痛感しました。有り難く、また嬉しいことです。お陰様で、また一つ、視野が開けた感じがしました。

せっかくなので、真宗の機の深信、善導大師の御文を引用して、今日のところは終わっておこうと思います。

一つには、決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。
(註釈版218頁)

南無阿弥陀仏

つづく

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