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法華三部経を読んで 『法華経』その5

11.三車火宅、徒然なるままに…

譬喩品第三には、続いて有名な「三車火宅」の譬えが説き示されている。その初めの響いた部分を少し引用してみる。

長者、この大火の四面より起こるを見て、すなはち大いに驚怖してこの念をなさく、「我よくこの所焼の門より安隠に出づることを得たりといへども、しかも諸子等は、火宅の内において、嬉戯に楽著して、覚えず知らず驚かず怖ぢず。火来りて身をせめ、苦痛己をせむれども、心厭患せず。出でんと求むる意なし」舎利弗、この長者この思惟をなさく、「我身手に力あり。まさに衣裓をもってや、もしは机案をもってや、舎(いえ)よりこれを出だすべき」またさらに思惟すらく、「この舎ただ一門のみあり、しかもまた狭小なり。諸子幼稚にして、いまだしる所あらず、戯処に恋著せり。あるひはまさに堕落して、火に焼かるべし。我まさに為に怖畏の事を説くべし。この舎すでに焼く、宜しく時に疾く出でて、火に焼害せられしむることなかるべし」この念をなしおはりて、思惟するところの如くつぶさに諸子に告ぐらく、「汝等速やかに出でよ」と。父、憐愍して善言もて誘喩すといへども、しかも諸子等は嬉戯に楽著し、あへて信受せず。驚かず畏れず。ついに出づる心なし。またまた何者かこれ火、何者かこれ舎、いかなるを失ふとなづくるやを知らず。ただ東西を走り戯れて、父を視てやみぬ。
(國譯経一78頁)

私はこの中、特に長者の「汝等速やかに出でよ」の善言、そして諸子等は嬉戯に楽著し、あへて信受せず、驚かず畏れず、ついに出づる心なし、との説示が心に残った…
そして譬えの後に重ねて、釈尊はその御心を説き述べておられる。そこも一部、引用してみよう。

諸の衆生を見るに、生老病死、憂悲苦悩に焼煮せられ、また五欲財利をもってのゆえに、種種の苦を受く。また貪著し追求するをもってのゆえに、現には地獄、畜生、餓鬼の苦を受く。もし、天上に生れ、および人間に在りては、貧窮困苦、愛別離苦、怨憎会苦、かくの如き等の種種の諸苦あり。衆生その中に没在して、歓喜し遊戯して、覚えず知らず。驚かず怖ぢず。また厭ふことを生さず。解脱を求めず。この三界の火宅において、東西に馳走して、大苦に遭ふといへども、もって患ひとなさず。舎利弗、仏、これを見おはりて、すなはちこの念をなさく、「我はこれ衆生の父なり、まさにその苦難を抜き、無量無辺の仏の智慧の楽を与へて、それをして遊戯せしむべし」。舎利弗、如来またこの念をなさく、「もし我ただ神力および智慧力をもって、方便を捨てて、諸の衆生の為に、如来の知見、力、無所畏を讃めば、衆生これをもって得度することあたはず。ゆえはいかん。この諸の衆生、いまだ生老病死、憂悲苦悩を免れず。しかも三界の火宅に焼かる。何によってかよく仏の智慧を解らん」。舎利弗、かの長者のまた身手に力ありといへども、しかもこれを用ひず、ただ慇懃の方便をもって諸子の火宅の難を勉済して、しかる後おのおの珍宝の大車をあたふるが如く、如来もまたまたかくの如し。力、無所畏ありといへども、しかもこれをもちひず。ただ智慧方便をもって三界の火宅より衆生を抜済せんとして、為に三乗の声聞、辟支仏、仏乗を説く。……
(國譯経一80-81頁)

仏陀釈尊は「衆生の父」と名乗りをあげておられる。「苦悩の有情を捨てずして、大悲心をば成就せり」の御和讃がこだましてくるようだ。捨てることができない、むしろ動かずにはいられない。それが如来さまという存在なのだろう…。
そしてその動きも、私たち衆生によくよく合わせてくださる。いきなり如来の知見、力、無所畏をもって済度しようとしても、衆生これをもって得度することあたはず…、誰もついてはこない。まさに「煩悩に眼遮へられて、摂取の光明見ざれども…」の悲しみを思う。だからこそ、ただ慇懃の方便をもって、御教化くださるのだ。

おそれながら、ここを私なりに頂いてみるに、一人一人に応じた仏道、これを見出していくことの大切さを感じている。これまでいくつかのお経さまを読ませて頂く中で、私の仏道の視野の狭さを知らせて頂く事が多々あった。如来さまの仏道は広いのだ。その広大な仏道を、私の狭い視野ではからうのは、なんとも愚かなことだと、おぼろげながら感じることができるようになってきていると思う。
南無阿弥陀仏に出遇った所詮も、そこに約まってくるように感じる。私の一切が許されている。私の一切が信じられている。南無阿弥陀仏とは、そんな途方もない広大な光との知遇だと思う。
そして如来さま方は、もうすでにお一人お一人に十分にはたらき詰めてくださっているのだ。私はただ、一人の木偶の坊として、そんな如来さま方の自由自在、自然なはたらきに、頭を垂れて、耳を傾けていきたい…

もし衆生あり、仏世尊に従ひて、法を聞きて信受し、勤修精進して一切智、仏智、自然智、無師智、如来の知見、力、無所畏を求め、無量の衆生を愍念安楽し、天人を利益し、一切を度脱す。これを大乗と名づく。菩薩この乗を求むるがゆえに名づけて摩訶薩と為す。かの諸子の牛車を求むるが為に火宅を出づるが如し。
(國譯経一82頁)

南無阿弥陀仏


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