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父と「意識」の話。

どうも、すずです。
突然ですが、今日はビジネスの話はしません。

完全なる私の自由な日記です。私のnoteだし、私の記録、そしてアウトプット、マインドセットとして書かせてください。

読むか読まないかは好きにしてください。


たとえみなさんに関係のないことであっても、私の父にはたしかに意識があったのだ、という証拠をのこしておきたいのでこれから好き勝手書きます。


父にはもう「意識」がありません。

幸い、命はまだありますが、2023年の11月頭に新型コロナウイルス感染症に罹り、ひどい肺炎と多臓器不全を起こし、それが原因で、脳に十分な酸素が送られず、「遷延性(せんえんせい)意識障害」になりました。

いわゆる「植物状態」というやつです。

突然のことすぎて心の整理にかなり時間を要していますが、現実を観て分析するのが得意だったのがよかったのか、なぜかものすごく冷静に「これから」を考えている自分がいます。


現実に、もう父とは言葉は交わせません。
一緒に焼き肉にも寿司にもファミレスにも行けません。
息子と遊んでもらうことも叶いません。


けれどまだ彼の心臓は動いています。

毎日病院へ会いに行っては、父の前で母と会話をしていると、ときどき目の焦点をあわせてみようとするそぶりをしてくれているような気がするし、

あくびをして寝てみたり、口もとをモゴモゴと動かしたりします。

生理的に起こる反応はしてくれるのです。

脳幹が生きてくれているから。


私たち「人間」には、みな当たり前に「意識」があります。

ものごとを考える、いろんな感情を認識する、人と会話する、五感を認識する…

日常のなかで至極当たり前にやっていることも、すべて「意識」があるからです。


そしてその「意識」をつかさどるのが、脳の中の「大脳」と呼ばれる部分。

いっぽう「脳幹」は、あくび、せき、まばたき、そして排泄などなど、「生理的な反応」を起こしてくれる部分です。

「大脳」が元気でいてくれないと、私たちは考えることも、感情を得ることも、何もできないのです。


父は今、「大脳」が機能していません。

呼びかけてもその瞳は天井に向いたまま。
指先すら動くことはありません。

脳の細胞は一度ダメージを受けてしまったら、回復の見込みはないそうです。


意識のあるうちに最後に「ありがとう」と直接言えたのはいつだろう。

10月半ばに、父が「どうしても」と、母と私と息子と一緒に焼き肉に行って、ごちそうしてくれた後だろうか。


杖をついたりしながらも普通に歩いて会話もできて、笑えていた人間が、たった数日でこうも様変わりしてしまうとは、人の脳とはなんて神秘的で、残酷なものなんだろうと思う。

「考える」とか「感情を出す」とかって、当たり前にできるものではないのだ。

人間としてこの世に命をいただいて、こうして意識的に文字を綴ったり、考えたり、感情をむきだしにしたりということが当たり前にできている今、できるうちに、やれることはやらなきゃいけない。

やれることは「今すぐ」やれ。

というのを、頑固で天邪鬼で素直じゃない父なりに、その身で教えてくれたんじゃないかと思います。


こうして目の前で、しかも自分の肉親が、「大脳だけ」命を落としてしまうような経験をすると、自分の視野がまたいちだんと変わっていくのがわかる。

今まで以上に、己のことばかり考え、保身に走っていたり、己と関わってくれている人の人生のことを考えないような言動をしている人を目にすると、正直とても憤りを感じます。


己のことを考えるなという話ではありません。

己のことを考えるのはぜんぜんいい。
むしろやったほうがいい。

しかし、その前に、みんな「人間」なんだ。
「大脳」があるから、それが元気だから考えられる。感情を持てる。「あなたが誰か」が認識できる。「ああしたい、こうしたい」と意思を持てる。


みんな同じ大脳を持つ人間なんだから、いくら自分が大事、いちばんだとはいえ、みーんな「おかげさま」だし、「親しき仲にも礼儀あり」だろうと思うのです。

これをわかっていれば、誰だって一歩引いて考えられるようになれるはず。「人」を大切にできないやつにいい未来はない。


「結局人だよね」ってよく耳にするのは、こういうのも理由のひとつなのかもしれないなあ、なんて思ったり。


もう父と会話をすることはできないけど、まだなんとか頑張って「生きてくれている」ので、そのあいだに(耳は聞こえているらしいから)たくさん生の言葉を浴びせようと思います。


父は私が10歳のときに心筋梗塞で倒れているので、その頃からなんとなーーーーく「いつ別れが来ても…」という覚悟はできていたものの、いざとなるとやっぱり人間だめですね。「意識」があると。

ここまでのたった1800文字を書くだけでもどれだけ涙が流れたかわかりません。鼻はガン詰まりだし、ティッシュはもうとっくに何枚もビシャビシャです。

冷静に前を向いて、現実のいろんなことを分析したり計画したりしている自分と、過去を振り返って父を尊ぶ自分とが葛藤しまくってもう感情はグチャグチャです。虚無です。


だからnoteに書き出そうと思いました。

ペンで書くよりスマホで打ったほうが早いし、ネット上だったらどうなっても、このnoteのサーバーがなくならないぎり、この記録は消えないから。

父に命があり、コロナ肺炎になる前はたしかに意識は元気だったのだという記録です。


こういう人生で一回あるかないかの経験も、大きな学びであり、本質を見つめ直し、己を成長させるきっかけになるのだと思って、父に感謝するしかできることはありません。

ずっとしおらしくしてたって誰も喜ばないし救えないし世界は変わっていかないから、私は私なりに価値観を磨いて好きに生きていこうと改めて決心できました。


よく見ている占いで「2023年の11月〜12月は人生のなかでも大きなギフトがあるよ」みたいな話を聞いていたけど、もしかしてこれなのか?どうなんだ?(笑)

でも父のおかげでまたひとつ人間として成長できた気がします。心を研ぎ澄ませてナンボじゃ。


ありがとう父。たくさんくだらないケンカとかしてきたけど、何だかんだ、あなたの娘でよかった。

「意識を戻せ!」なんて無茶ぶりは言わないから、あとちょっとだけでいい、頑張って生きててくれ。

寝ていたとしても、生きてる顔が見れればそれでいい。写真よりずっといい。


また母と会いに行きます。


(追記:このnote記事が記念すべき100本目の記事だったらしい(笑)ありがとうだぜ父。)

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