ひつじまこと

考えていることを書き留めておく場所が欲しくなり、何の益にもならない、長いだけの文章を書…

ひつじまこと

考えていることを書き留めておく場所が欲しくなり、何の益にもならない、長いだけの文章を書きためていきます。中身がないので読んでも何も身にならないのでお許しを…。

最近の記事

ヌンクディミティスそして地の塩世の光

 主の奉献 (ルカ2:22-40)の祝日。教会暦と聖書の流れ。ご降誕から40日目の祝日。年間の主日ではなく「主の奉献」としてミサがささげられる。主の奉献の祝日は、イエスが生まれて40日後に、律法で定められた通り、両親に連れられてはじめてエルサレムに行き、神殿で神にささげられたことを記念したもの。「妊娠して男児を出産したとき、産婦は月経による汚(けが)れの日数と同じ七日間汚れている。八日目にはその子の包皮に割礼を施す。産婦は出血の汚れが清まるのに必要な三十三日の間、家にとどまる

    • 猫がいる キミがいる ともにいる

      年間第12主日 (マタイ10:26-33節) 。イエスの言葉を伝えていく者の苦しさ。イエスの教えは当時のユダヤ教の社会にあって必ずしも受け入れられない面も持っている。特に当局側からは。  「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。27わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。28体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むし

      • 覚悟を抱いて伝える

        年間第13主日 (マタイ1:37-42節)。弟子たちへの、イエスの教えを伝えることの難しさとそれゆえに理解されないことに多く直面するであろうという予告的な場面。 新共同訳 37わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。38また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。39自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」 40あな

        • 挙げられ、背負う

          へりくだるものは高くされ… 年間第22主日(ルカ14:1,7-14)。謙虚さ、へりくだる。イエスは自身も貧しくあったし、人々に貧しさや低くされる、といったことを望んだ。「誰でも高ぶる者は低くされ、へりくだるものは高められる」という表現は、後の者が先に、先の者が後に、というマタイの言葉も連想する。自己保身のために、大仰に振舞わないということではなく、自分の弱さを知り、其れゆえに謙虚に自分を低くして生きる、ということなのだろう。パウロもイエスの姿を、有名なフィリピ2章のキリスト

        ヌンクディミティスそして地の塩世の光

          図像学はおもしろい

           フランチェスコ・デル・コッサ(Francesco del Cossa, 1430年頃 - 1477年頃)、イタリア初期ルネサンスの画家、による『受胎告知』(1467-68年頃 テンペラ、板 ドレスデン絵画館蔵)。絵の下の方にかたつむりちゃんがいて、絵の中にいるのか、それとも絵に張り付いているのかわからないような、だまし絵(トロンプ・ルイユ)的になっているのが面白い。 参照 https://www.kogei-seika.jp/blog/kanazawa/005.html カ

          図像学はおもしろい

          ラビリンスを進む

           生きていく中で、躓いたり、悩んだりすることを回避し、悩みがなくなることはまずないけれど、できるだけ乗り越えていけるための仕掛けを特設教科における学習の中で体得していただきたい、という根拠のもと、いろいろと授業を考える。もちろん、勤務先の理念に従って。 いろいろな根田や資料を得るために、市内のキリスト教書店に時々顔を出す。お店の方が人生経験豊かで、しっかりしている方なので、書籍の動向についても伺うこともある。そんな、上智大学出版の『聖なる道を行く‐黙想と祈りのラビリンスウォー

          ラビリンスを進む

          聖書科の教科書

          住んでいた街は、東京並みとはさすがにいかないが、なかなか品ぞろえがよく、そして新刊にも敏感なキリスト教書籍店がある。プチ教文館的な。二ヵ月に1回は、新刊の動向を探るためにのぞくようになった。 名古屋のプロテスタント系の宗教科、じゃなくて、聖書科というのかな、の先生の著作。聖書に登場する19人の女性をテーマにして、それらを24にキーワードにまとめ、キリスト教的な人生観、人間観を考えることができるようになっている。年齢も私と近い先生のようだ(*^-^*) 一つのテーマが終わるとイ

          聖書科の教科書

          人の善意と神様の愛

           人が他者に対して、善意や慈悲、憐みの気持ちから支援する、かかわりを持つという行為に至ることは多い。しかし、そうした関係がいつしか破綻し、支援者のエゴとなる恐れもそうした行為は孕んでいる。失敗というか、本来の意図を壊してしまう。しかし、神様の愛はそうではないとよく言われる。カトリック学校で、この「神様の愛」なるものを授業で教えるときに、この違いや人間の愛との違いを説明する場を持つ(ことが多いと思う)。しかし、わかっているようでピンとこないということも多い。  今年もとあるカ

          人の善意と神様の愛

          それでも愛するか(2016年)

           きのうミサの聖書朗読箇所、ヨハネ21:1-19.イエスの復活のその後だけれど、説教は、漁の箇所と初代教会の宣教状況が当時の時代背景を説明するものとして語られているということ、だから、私たちもうイエス不在の中でどう生きていくのか、何と出会っていかねばならないのか…云々。という、いわば教科書的な内容。神父様も新年度だから緊張して話を準備したなあ、という感じ。  よく見ている、東京教区の「福音のヒント」。これは毎週の主日のミサの解説をしてくれていて面白いのだが、この箇所について、

          それでも愛するか(2016年)

           あなた「聖書」でしょ そんなこと書いていいの?

          C年年間第25主日 (ルカ16:1-13) 。新約聖書の中には、イエス≒善玉、いいことをいう、ありがたいお言葉、たとえ話もそう、という図式に合わせると、どうも困ってしまう箇所というのがいくつかある。自分の好きなものを肯定的に相手に話して、楽しくなるのだが、その黒歴史なんかがあるのも事実で、そこになるとどうも歯切れが悪くなってしまうような。そういう聖書の箇所は、神様だからこうなはずだ、という展開にはならない。あれ?、聖書でこんなこと言っちゃっていいの? という違和感に襲われると

           あなた「聖書」でしょ そんなこと書いていいの?

          考えるプロセス~見失ったものを見つけるために

          C年 年間第24主日 (ルカ15:1-32節) 。ルカによる福音書の、一連の、なくしたものが見つかるという、たとえ話群。ルカ15章の「見出す」というメッセージの爆発、破壊力をそれらから感じる。99匹の羊を残して1匹を探しに行く話、灯の下の銀貨を探して見つける話、そして放蕩息子の話、と、王道の攻めだ。「この3つを切り離して考えると、たとえ話の本当の意味が、見えてきません」という説明はどの神父様も、説教の時のキメの一言になっているのではないか。なくしたものが見つかる、失っていたも

          考えるプロセス~見失ったものを見つけるために

          宗教の多様性と宗教文化士の役割-純米酒「六根」、コーシャ認定の記事から

           宗教文化士の更新時のレポートの記事より 宗教を理解する上で、あるいは教える立場において、「宗教一般知識教育」「宗教的情操教育」「宗派信仰教育」「対宗教安全教育」「宗教的寛容教育」の視点を有することは重要である(参照、小山2012:(76)=115)。文化として、そして宗教全般を知る上での一つの基盤として宗教文化士としての資格を保持することは、こうした立場のメルクマールとなると考える。そして、宗教文化士は、まずは特定の宗教の立場ではなく、宗教を中立の立場で理解し、文化の橋渡

          宗教の多様性と宗教文化士の役割-純米酒「六根」、コーシャ認定の記事から

          私たちはどこへ行くのか(2010+α)

           最初の記事もこの記事も、今までブログやFacebookに書いていた記事の焼き直し。しかし、聖書や思考の記事というのは、時代を問わないから、時間が経ってもそれほど時代錯誤は感じないのがよいところ。2024年の文を早いうちに打ち込んでみたいが、なかなか…だ。  いろいろな方々と話をしていると、自分もまあ、いろいろあって大変なんですけれど、本当に、みんな何かと抱えながら生きてるなあ、と思うのです。1897年、ポール・ゴーギャンが書いた作品、「私たちはいったいどこから来たのか

          私たちはどこへ行くのか(2010+α)

          新約聖書を意識した旧約聖書の読み方

           旧約聖書の物語の展開は、聖書よ読み慣れてくると、なんとも雑な展開だなと突っ込みたくなるのだが、その中に込められたメッセージを人と究極の存在者の関わりとして読むと、なんとも面白い。創世記の中にある「イサク献供物語」(22章)。長い間子どもに恵まれず、ようやく授かったアブラハムの息子イサク。そんなアブラハムが神様から、いけにえにお前の息子イサクをささげくれよ、といわれる。「神様、そ、そんなこと、できるわけ…」と思うのだが、アブラハムは、うむむ、となりつつも実行に移そうとする。

          新約聖書を意識した旧約聖書の読み方