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ラビリンスを進む

 生きていく中で、躓いたり、悩んだりすることを回避し、悩みがなくなることはまずないけれど、できるだけ乗り越えていけるための仕掛けを特設教科における学習の中で体得していただきたい、という根拠のもと、いろいろと授業を考える。もちろん、勤務先の理念に従って。
いろいろな根田や資料を得るために、市内のキリスト教書店に時々顔を出す。お店の方が人生経験豊かで、しっかりしている方なので、書籍の動向についても伺うこともある。そんな、上智大学出版の『聖なる道を行く‐黙想と祈りのラビリンスウォーク‐』という本が目に入った。1100円でぎょうせい、2014年。なんと我らがシャルトル大聖堂の入り口のラビリンスについて言及している。
 迷路というよりもラビリンスと呼ばれるこの一本道の迷路ではない迷路のような中心に向かう道、実際に見てきたこともあるので、おっ、と思った。ななめ読みすると、どうやら、このラビリンスをそのまま再現し、黙想の場とし、自分を見つめなおす時間を持つという試みが行われているらしい。
シャルトル大聖堂のことについて知れるし、教会の文化を学ぶ教材になりうるなあ、と思い、購入。安いし。で、そういうことになると、これをどういう形で使える可能性があるかなあ、ということに自分の場合はなってしまうのだ。
 なんか、意外なものを使い、そこから入りキリスト教的な思考の深淵に入る入り口みたいなものとしたい。せっかく入学したのだから、とそう思う。
そんな大きなラビリンスのシートは買えないし作れないし。とにかく、ボツは大前提でいろいろ思考してみる。さて、大きなシートは無理でも、プリントにシャルトルラビリンスを張り付けたら、何ができる??? スタートから一本道をなぞって、中央へ。中央から再び戻ってくる。鉛筆で軌跡を追わせるか、指でなぞらせるだけか? など。なぞっている間に、こういうことを考えながら中央に向かってみてください。もちろん、事前に、これが何で、どういうことに使われているかを説明。今では大学の神学部でも授業で使われているよみたいなことも含めて。
でも、実際に歩くのとなぞるのでは体感も違うだろうな、と。祈りや黙想の雰囲気は教室でラビリンスをなぞるだけでは得られないかな?! ただの迷路遊びになるなぁ。あ、では、迷路と対比させてみては。そこで、教会のラビリンスと迷路遊びは基本的に何が違うの、とかの話をすることになるな…。61pにはきちんとそういうことについての話題も取り上げられているではないか!。
「ラビリンスは一本道だ。ひとを中心に導き再び外に戻らせる、輪郭のはっきりとした一本の道だ。ひっかけも行き止まりも分かれ道もない。一方、迷路には複数の道がある。道を選ばなくてはならず、入り口や出口が複数あることもある。袋小路や分岐点は解かねばならない謎である。迷路は人に選択を迫る」。
 ラビリンスが人生の一本道にたとえられ、それが人生を考えることにつながっている、という見立てがこれでできる。だとすれば、迷路とラビリンスの両方をなぞり、その違いを考えていくことを第一段階にしてみると良いのかも。ラビリンスウォークの動画も忘れないで見てもらう。シャルトルの大聖堂も。そしてその作業が終わり、2つの違いについて、意見も聞きつつ、解説した後、今度は、授業の主題となる問題を考えながら発問し、その内容を思いながら(瞑目・祈りを意識)、再度、ラビリンスをなぞってみる。その中で浮かんだこと、気づいたことを最後に記述する時間を持てればよいと思う。その発問の内容だけれども、あなたが今問題にしていることについて自由に考えながら、ラビリンスを実際に歩いているつもりで、なぞり、中心に到達し、再び、入り口に戻って来てください、でもいいのかもしれない。
いずれ、そうやると、祈りとか黙想についての授業に偏ってしまうような気もする。聖書の説明としてのワークとして実施するならどの個所かな、ということも模索してみる。ヨハネの「私は道であり真理」なんかや放蕩息子の人生の歩み、あるいは回心なんかにもいいかなあと。
 こうして、また、実施するかもわからない、実施できない可能性のほうが高い授業の案が出来上がるわけだ(^▽^;) ただ、これは自分でも面白いかなあと思っている。基本、自分が受けてみて面白い、興味を持てる授業でないと実践しても意味がない。そして、興味が持てるという自分に自信と確信を持てるために、常に、授業の動向を研究し、偏らない内容かどうかを吟味し、冷静に判断できるような、この教科の教員としてのスタンスを持たねばならない。

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