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猫がいる キミがいる ともにいる

年間第12主日 (マタイ10:26-33節) 。イエスの言葉を伝えていく者の苦しさ。イエスの教えは当時のユダヤ教の社会にあって必ずしも受け入れられない面も持っている。特に当局側からは。

 「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。27わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。28体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。29二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。30あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。31だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」

 深夜、部屋の中から見える外の景色。鳴きもせず、猫が現れて、歩いてきて、道の真ん中に腰をおろし。黙って上を向いている。こちらに気づいているのだろう。たまにこちらを向く。しかし、基本的には上を、どこかを見ている。深夜なのに、鶯のなく声が遠くから聞こえる。
 人生の中で感じる大切なことがある。そういうことは気づいたものが、自分の中に隠しておけばよい。神の国は地上にあるが、当の地上の国の論理と神の国の論理は真逆のものだ。だから隠されている。隠されているものは別にそのままにしておき、築いたものが個人的に味わえばよいではないか。でもイエスはそれを伝えようとする。伝えなさいと弟子たちに伝える。それを伝えるのが迫害を伴うものであるとわかっていても。そして、弟子たちには大丈夫だから、不安にならなくてもいいから、と言い伝えて行くようにと勧める。
 人生はわからないことだらけだ。だから、できれば、大切なことを知っている教師が必要だ。知識としての学びは、そのやり方を少し教えてくれればあとは一人でできる。その一人でやる力を促し一人でできるように持っていく。そしてそれ以上に、生きていくうえで大切な経験や、そういうものなのだよ、という一つの規範や世界観を見せる。イエスの教えをそういう形で伝えるのが弟子たちへのメッセージの内実なのではないか。

 朗読の中では、何を恐れなくてよくて、何を恐れるべきかということが書かれている。人々に語ることを恐れる必要はない。なぜ恐れないでいいのかというと、本当に恐れるべきは、自分の内面やこころの在り方を知っている神様を恐れるということきちんとわかっているからだからという。弟子たちがイエスの言葉を聞くのは暗闇。語る場所は明るみ。静かな暗闇の中で自分自身を確認し、自分自身の言いたいこと伝えたいことに耳を傾ける。それを日々の生活の中で伝えていかなかったとしても、自分の生きるスタンスの中でどのように表していくのか。このことをおそらく、恐れてはいけないのだ。
 猫は暗闇の中でただ、上を見ている。何も考えないで本能のままにそうしているのだろうが、暗闇の中、何となく哲学的だ。街灯の明るみに映し出される猫をみながら、自分に出来ることは何だろうかと考える。

 32「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。33しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う」。

朗読の終わりの部分は「仲間」であるとはどういうことか、がイエスから語られる。イエスの仲間はイエスの教えを「恐れず」に伝える。仲間であると言い表すという動詞は「主日の福音」等で調べると「ホモロゲオー」だそうだ。同質に言う(ロゲオー、ロゴス)。イエスと同じことを言い、恐れずにそのことを伝えていく人が仲間であり、友なのだ。マタイは「今」そういう風にすることが大切なのだと言いたいのだろう。

 「語ることが出来るようなものは、あなたはあまり持っていないように思うが、独我論に陥ることに注意しながら、自分勝手で自己中心的な考え方に陥っていないかを意識しながら、人と関わっていけばよい」。猫は背中で、そう語っていたのかもしれない。可愛いと思い、スマホのカメラを向けたら、そっとその場を去っていった。さみしい深夜、わずかな時間ではあるが、ともにいてくれた。


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