見出し画像

挙げられ、背負う

へりくだるものは高くされ…

年間第22主日(ルカ14:1,7-14)。謙虚さ、へりくだる。イエスは自身も貧しくあったし、人々に貧しさや低くされる、といったことを望んだ。「誰でも高ぶる者は低くされ、へりくだるものは高められる」という表現は、後の者が先に、先の者が後に、というマタイの言葉も連想する。自己保身のために、大仰に振舞わないということではなく、自分の弱さを知り、其れゆえに謙虚に自分を低くして生きる、ということなのだろう。パウロもイエスの姿を、有名なフィリピ2章のキリスト賛歌で、「へりくだる」(タペイノオー)を用いて説明している。うわべのへりくだりではなく、神の国で必要な態度が、神の国の宴席の説明から説かれている。つまり、その宴席にはむしろ、立場の弱い人が招かれており、イエスの時代には差別の対象であった、障害を持つ人たちが優先されている。すべての人が違いを超えて一つの宴席に立つことが神の国の宴だということになるだろう。福祉の世界で用いられる「合理的配慮」の精神がイエスによって先取られていると言い換えることもできるのかもしれない。なぜ人は人を支援するのか。それはイエスの視点を考えると、人に奉仕することにより、人は互いに対等な関係で向き合うことができ、その対等な関係が地上の国ではなく神の国での宴を実施可能にするからだ。キリスト教と社会福祉のつながりを理解していくためには聖書においては「神の国」の論理を理解することが必要ということだろうか。
 立場の違う人たちが互いに理解しあうことは非常に困難なことだ。仮につながれたとしても背後に利害や取引が存在することのほうが多いのではないだろうか。それを乗り越える世界をイエスは問い続けた。それが彼の信じた父なる神の意向であるとして。自らがへりくだるのは、立場を超えた人と人とが宴を楽しむことがどんなに素晴らしいことか知っているから。だから苦しくても自分を低くしていろいろなものと向き合う。あっ、専門性を持つことってそういうことなんじゃないのかな、とふと考える…。

十字架を背負い、従う

 年間第23主日 (ルカ14章25-33節)。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない、という、いつもの、厳しいイエスの言葉が出た後に、2つのたとえ話が語られる。面白いことに、塔を建てるたとえと敵を迎え撃つ心構えのたとえの両方には、「腰をすえて」という語が使われている。「腰をすえて」はギリシア語の「カスィゾー」(καθίζω)。「座る、とどまる」という意味。そこから展開して「腰を据える」。つまり、ひとつの場でじっくりと物事に取り組むことを意味する。イエスに従うためには、十字架を背負うことを肯定する覚悟が求められる。苦しさを背負うということでもあるのだろう。しかし、この十字架を背負う、ということを何かの苦しみを背負う覚悟する、とだけ考えないでみると、新しい地平が開けてくる。
 生きていると、どんな人でも苦しいことがたくさんある。そして、出来るならば、そんな体験はしたくない、避けたい、と思うだろう。しかし、いろいろあがいてみたが、どうやらそれは無理なことらしい。苦しみはたぶんゼロになることはないのだ。ならば、まあ、そのまま、背負って歩きましょう。十字架を背負うことを、苦しみを避けずに、むしろ受け入れて、イエスとともに歩く。背負う覚悟はしないで、とりあえず一緒に苦しみと歩く。そうすると、なぜか、少しか楽なのだ。そのために、そうなるために、「腰をすえて」考える時間は必要だろう。自分の背負う十字架に悲劇的にならなければ、自分の十字架を背負ってイエスに従う、という彼の要求にも応じることができるはずだ。淡々と淡々と。でも、歩みを止めることのないように。そのために、腰をすえて考えるのだ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?