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新約聖書を意識した旧約聖書の読み方

  旧約聖書の物語の展開は、聖書よ読み慣れてくると、なんとも雑な展開だなと突っ込みたくなるのだが、その中に込められたメッセージを人と究極の存在者の関わりとして読むと、なんとも面白い。創世記の中にある「イサク献供物語」(22章)。長い間子どもに恵まれず、ようやく授かったアブラハムの息子イサク。そんなアブラハムが神様から、いけにえにお前の息子イサクをささげくれよ、といわれる。「神様、そ、そんなこと、できるわけ…」と思うのだが、アブラハムは、うむむ、となりつつも実行に移そうとする。そして、それを実行しようというときに、神様は、もう、わかったから、やめなさい、かわりに、そばにいる牡羊を捧げなさいと。ふと見るといけにえのひつじがそこにいた…。ひつじはみがわりの捧げものとなってしまう。
 アブラハムはその地を「ヤーウェ(神)は見出す」(ヤーウェ・イルエー)と名付けたのだという。
 とまあ、なんか理解に苦しむ有名な旧約聖書のお話。でも救いの歴史、人間の罪という観点から、そして、創世記が書かれたころの当時のイスラエルの文化から考えてみると、それなりに納得はする。「創世記22章におけるイサクの献供物語の哲学的解釈」ということで、高名な旧約学の先生が書いておられた(関根清三「旧約聖書・律法から:イサクの献供物語の哲学的解釈」)。この謎に満ちたテクストの解釈について哲学者たちもいろいろ思索してきたのだという。
 カント『諸学部の争い』(1798)では、こんな道徳法則に反する神は本当の神ではない。テクスト自身を改変すべき。
キルケゴール『おそれとおののき』(1843)では、より高い目的のために、子の殺害を命じる神の行為に対し、この神の理不尽さとそれに従うアブラハムの非倫理性を弁護し、倫理以上に高みにある宗教の立場を語る。
デリダ『死を与える』(1999)では、人間と人間の互酬関係に、アブラハムと神との関係を当てはめ、一人の人との誠実さを守るという関係として読み替えている。
西田幾多郎『場所的論理と宗教的世界観』(1946)では「絶対矛盾の自己同一」(対立するものがその矛盾を互いに抱えながら同一化する)の理解に依拠しつつ、絶対的な神は絶対であるがゆえにイサクの殺害をいったんは命じる存在となり得るのだとする。
 そして、この著者の先生はそれらをまとめつつ、アブラハムの態度に注目する。あの神に忠実なアブラハムも、実は神様から贈られた賜物を私物化する状態に陥っていたのだと。具体的にはようやく授かった息子のイサクを思うがあまり、そのイサクを遣わしてくれた神様の存在をおざなりにしていたのではないかと。そしてその罪の状態にまで神様は降りてきてアブラハムに問うたのではないかと。だから、アブラハムはこの出来事を通じて自分を再び見出し、神様との信頼関係を回復できたのではないだろうかと。神様は人の罪を見出し、その罪の位置まで降りてくる。決して上から見下ろすのではない。だから物語の最後の記述の通り、アブラハムは、その地をイルエー(見出す)と名付ける。
 うん、、すごい読みだなあと。哲学者たちのこれまでの解釈を追いかけ、そこから見て生きた解釈の材料をヒントに、それらから導き出せる見解を哲学的に解釈していく。このアブラハム自身がほかならぬ、罪の状態にあって、そこまで神様が降りてきて関わろうとした、という形でイサクの献供物語を理解しようと試み。読んでいて面白い。
 そして思うのだけれど、その私たちのところまで降りてきて、問いかけてくれる神様、っていうのは新約でいうとまさにイエスなのかなと。「神様は善人にも悪人にも同じように太陽の光、や恵みの雨を降らせてくださる」という理解がこうして連続しているんだなと感じ取れるわけです。旧約聖書と新約聖書を連続させながら新約を読み、人間理解の根本を旧約に学ぶというのはやはり大事なことだと再確認した次第です。ただ、旧約聖書は、新約から見て旧約なのであり、古代イスラエルの人たちにしたら「旧約」ではない、ただの「聖書」しかものちに一冊に結集されたものだから、別な感覚で読むことも大事ではありますが…。


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