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ヌンクディミティスそして地の塩世の光

 主の奉献 (ルカ2:22-40)の祝日。教会暦と聖書の流れ。ご降誕から40日目の祝日。年間の主日ではなく「主の奉献」としてミサがささげられる。主の奉献の祝日は、イエスが生まれて40日後に、律法で定められた通り、両親に連れられてはじめてエルサレムに行き、神殿で神にささげられたことを記念したもの。「妊娠して男児を出産したとき、産婦は月経による汚(けが)れの日数と同じ七日間汚れている。八日目にはその子の包皮に割礼を施す。産婦は出血の汚れが清まるのに必要な三十三日の間、家にとどまる。その清めの期間が完了するまでは、聖なる物に触れたり、聖所にもうでたりしてはならない」(レビ記12章2-4節)というものがある。不浄を嫌い、清めを重んじるユダヤ教の性格が出ていて、それをマリアとヨセフは守る。

22モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親は〔イエス〕を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。23それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。24また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。

 神殿でシメオンに出会ったヨセフ一家。有名なシメオンの賛歌を宣べる

29「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり この僕を安らかに去らせてくださいます。30わたしはこの目であなたの救いを見たからです。31これは万民のために整えてくださった救いで、32異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」

有名なヌンク・ディミティス 今こそ主よしもべを去らせたまわん という賛歌。シメオンは救いそのものであるイエスをたたえるわけだが、その後の苦難も指摘する。

シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。

「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。35――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」

シメオンの賛歌は修道者たちの就寝前の祈りとして知られているが、その安らかさとは対照的に、その後の苦難をマリアは知らされることとなる。何か正しいことを行おうとすると必ず何かの逆らいのしるしが来る。こんな世の中の真理をシメオンの対照的な2つの言葉は示してくれているように感じる。誰かからさげすまれ、苦しみを受け、それを通じて神様の救いの技が完成するという理解は人生というものそのものを指しているように思う。なぜ自分がこんなに苦しまなければいけないのだということを人は人生の中で何度も感じる。そのことを憎しみや嫉みで終わらせないために、苦難の意味を知り、味わい、十字架を背負うことが大事になってくるのだろう。いやなことだが。

年間第5主日 (マタイ5:13-16)。マタイによる福音書版の山上の説教、いわゆる真福八端の後に来る地の塩、世の光の部分。

〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕13「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。14あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。15また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。16そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」

 よく説明されるパターンとして、ここの箇所で言われているのは、イエス様は、みなさんに「地の塩になりなさい」「世の光になりなさい」とは言っていないのです。「あなたがたはもうすでに地の塩であり世の光なのです」とイエス様は、おっしゃっているのですよ、というような感じか…。そして、塩というは、人間が生きていくうえで、欠くことのできないもので、その塩は味付けのための素材として非常に重要ですよね、などと続くだろう。胡椒じゃいけないのか?などと、つっこむのはやめるとして、ここは、非常に有名な、そして定番な箇所だ。一人一人が神様にとって大切な存在であり、何かの使命を受けているということを示す言葉と考えてもよいのだろう。塩はさらに腐敗を防ぐものではあるが、その役目を行いつつ、塩は塩のままで防腐的な役割をし、塩のままとどまる。私という存在は他者の味付け役として存在し、自身も輝くが、自分の存在はありのままの自分のままだ。その中で光り輝く。イエスは決して「地の塩になれ」「世の光になれ」とは言っていない、というのは時として押し付けのようにも感じてしまうのは素直ではないなと反省するのだが、やはりこれは非常に大事な言葉なのだと思う。
 自己効力感ということで考えてみるとそのことに気付く。自分に自信が持てない、自分はどうせこの程度なんだ、と自分のことを大切にできないという立場に追いやられている人は非常に多い。私自身もそういうところはあるが、それ以上の苦しさを背負っている人には多くであってきた。そういう人たちと話す中で、自分の話を聞いてもらったとか、自分は小さな存在だけれども、何か意味があってここにいるのだ、自分にも何かできる、という気持ちを持てたときに、また歩みだす力を得た姿もまた多くみてきた。だから、このイエスのストレートな、あなたがたはまさに味付け役を担っている人であり、その役割の中で輝いている人なのだよ、というイエスの言葉は、人への全人的な肯定であり共感の姿そのものなのだと思う。その言葉を聞いて、人は、自分はそのままでいい、とか、変わってみよう、とか、希望をもらった等々の気持ちを得るのだろう。だから、斜に構えてしまうと美辞麗句になってしまうが、その人の立場に立ち、共感的理解を意識した時に非常に自分も他者にも響く言葉となるのだ。そこに生まれるのが、自己効力感、自己肯定感というものなのだ。
 何かができるとかできないという、世俗の価値観をイエスは言わない。あなたはかけがえのない大切な存在であり、人にかかわり、良い方向へと変えていける力を持っているのですよ、と呼びかける。そのメッセージの中にイエスの福音があるのだろう。だから、イエスが言った真福八端の教えは、皆さんの中にもあるのですよ、ということにもなるだろう。「あなたは私たちのとって大切な存在ですよ」。もしかしたら、このことばは、あとで、矛盾や裏切り、失望を生み出す言葉にもなるかもしれない。でも、それを恐れずに、覚悟もしながら、「あなたは私たちのとって大切な存在ですよ」という思いを関わる人にぶつけていく生き方をイエスは求めている。問いかけている。自分の日常で、未熟でも、そういうかかわりをできているのか、しようと試みているのか…。私の光を関わる人の前で輝かす。その行為をしていくために勇気がいるのは当然だ。それに対し、聖書の中のイエスは背中を押してくれようとしているのかな、と考える。


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