見出し画像

覚悟を抱いて伝える

年間第13主日 (マタイ1:37-42節)。弟子たちへの、イエスの教えを伝えることの難しさとそれゆえに理解されないことに多く直面するであろうという予告的な場面。

新共同訳
37わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。38また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。39自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」 40あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。41預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。42はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」

 イエスの教えを地上の国において伝えるには、一定の覚悟がいる。なぜなら、地上の国とイエスが伝える神の国の論理は正反対のものだからだ。右の頬を打たれたら左の頬を出すなど、ほぼありえない。打たれたら打ち返すのがむしろ当たり前だ。だから、時としてイエスの教えは信徒にさえも混乱を与える。イエス様の教えを守ったらかえってひどい目にあった。わたしは人のためと思ったのに…。こういうことはよくあることだ。マタイは、誰かのための善行はイエス様に善行を行っているに等しい、という説明で話を進めることが好きなようだ。これは、25章の「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(40節)を思いだす。トルストイはこの聖句を意識して、靴屋のマルチンの中で、妻や子を亡くしてさみしい思いをしている自分のところに、神様が来てくれるとの声を聴き待ちわびるマルチンの姿を描く。しかし、神様はその日現れなかった。にもかかわらず、神様は最後にマルチンに声をかけて、私はあなたのところに何度も今日生きていた、と言うのだ。それはこの1日にマルチンが助けた人たちのことであった。マルチンが助けた人はすべて、神様が姿を変えてマルチンと出会っていた姿なのだと。
 イエスの教えることを伝えていくことは確かの迫害を受ける危険を高める。しかしそこには神様との出会いがあるのであり真の生き方を知る瞬間を得ることが出来る。誰かに、のどが渇いているでしょう、どうぞ飲んでください、と差し出す1杯の水の中に「報い」があるのだと。
とはいうものの、地上の国には軋轢がある。余計なことはするな、午前だろ偽善だろ、等々。うまくはいかない。怖くなって退いてしまう。それも悪い事ではないと思う。ただ、そうなるとイエスは結構厳しい。その厳しさは同じく25章のタラントのたとえでの、主人のしもべたちに対する厳しさを連想させる。自分が主人から預けられたお金(タラントン=タレント=能力)を減らすのが怖くなって増やさなかった人はイエスに散々なことを言われる。お金が減らないように、ただ、隠しておいただけではないか。むしろ安全ではないか。なのにしもべは「なまけもののわるいしもべだ」と怒られる。文脈としてはマタイ25章で展開される終末意識に対する人々のあるべき姿を示すたとえ話となっているのだろうが、イエスの呼びかけを神の国の論理で受け止めるか受け止めないかと言う1章からの文脈で読んでいくとこのことはさらに明確に理解できるかもしれない。「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣(つるぎ)をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、/娘を母に、/嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる」(10章34-36節)という言葉の厳しさも何となく腑に落ちる。イエスの言葉はこの世の常識で言えば恐ろしい剣となるが、神の国の論理で言えば新しい気付きと本当の救いをもたらすものとなる可能性を有していると言うことになるのだ。だから、本当の意味で父と母を愛するということがあるはずなのであり、イエスが「父と母を愛する者は…」と厳しい言葉を投げかけているのは、地上の論理での父と母に対する理解のこと言うこともできるのかもしれない。だから、「『わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。』そして、弟子たちの方を指して言われた。『見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である』」(マタイ12章48-50節)という厳しさも単なる地上の国、現状への批判と言うだけではないということが出来るかもしれない。
 現実の社会に身を置いて、生きづらさにつぶれそうになる時、そんなことは実際にやれることではない、偽善だとして排除するのではなく、その教えを行ってみることでかえって新しい発見をするかもしれない。イエスの厳しさに身を置く生き方は、遠回りになるかもしれないけれど、本物を知る近道となり、本当の意味で私たちの身の回りを愛する、大切にすることが出来るようになる道を見出してくれるものとなるのではないか、などと考える。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?