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考えるプロセス~見失ったものを見つけるために

C年 年間第24主日 (ルカ15:1-32節) 。ルカによる福音書の、一連の、なくしたものが見つかるという、たとえ話群。ルカ15章の「見出す」というメッセージの爆発、破壊力をそれらから感じる。99匹の羊を残して1匹を探しに行く話、灯の下の銀貨を探して見つける話、そして放蕩息子の話、と、王道の攻めだ。「この3つを切り離して考えると、たとえ話の本当の意味が、見えてきません」という説明はどの神父様も、説教の時のキメの一言になっているのではないか。なくしたものが見つかる、失っていたものが見出されること、これこそ、地上の国に対し神の国が喜ぶことの一つなのだろう。
 こうして、これまで書いたものを少しづつ加筆してアップしているが、それ以上に書いている内容は、必死に自分の「欠け」を埋めようとしているということに気付く。自分がぶつかった壁に対して問い、呪うような気持ちもあるけれど、その気持ちになんとか落とし前を付けようとしているような感じだ。それは今も同じだけれども、気持ち的には楽な気持ちが「今」であるような気がする。
 自分の専門性からは決して遠くではないが、あまり関係のないことを任されたり頼まれたりして、その準備で奔走する毎日が続いている。忙しさを処理しきれずに、ミスを犯してしまうこともある。でも、それが、ここ数年で違うのは、あまり気にしないで受け止めることができるようになっている、ということだ。
 一つの何か気になることが起こると、以前は、すぐに胃に来ていた。心配になり、胃が痛み胃潰瘍などへの恐怖心も沸く。最近はそうはなるが、痛みを感じても、それほどではない。呼吸や気持ちの切り替えで、重症に至ることは少ないのだ。あわただしい中で、今、再び、気持ち的に動きやすくなっているのは確かだ。しかし、ぽんこつだなあ、忘れやすいし、ミスも多いしなあとも思う。なんたってもうすぐ50歳だ。授業の準備のために心理学の本を仮に大学の図書館に行った。外部の会員は一人5冊までの貸し出しと定められている。時々、借りた冊数を忘れるのでいつも5冊ということに決めている。さて、借りて、家に帰りリュックを開けると4冊しか入っていない。はて、一冊ないぞ、どこかに落としたか!? いや、リュックは開けていないし、自転車のカゴに置いたままだった。だから、たぶん、そとではない。なくしたら弁償、あやまる、図書館の方に迷惑をかけてしまう、などの気持ちが浮かび、久しぶりに痛くなって来た。同時に、なんど、こんなことにならなきゃいけないのだ、といういら立ちも浮かんでくる。閉館直前での早く出ねばという焦りもあった。
 しかし、明らかに、リュックのファスナーはしまっていたし、家に帰るまでは一回も中を開けてはいない。自動貸し出し機に本を置き、5冊貸し出し処理をした。今ない本に、5冊借りたと印字されたシートを挟んだ。その本がここにないということが意味深。可能性としては、シートを挟んだ。それを貸し出し機の前に置いた。それを入れずに残りの4冊を入れた。その一冊を入れることは忘れている…。こんな感じかな、と。でも、土曜日は図書整理のために休館。確かめるのは日曜日以降。ただまてよ、金曜夕方の閉館前のことで、翌日は休館。日曜日の一番で行けば、まだ、そこに本があるかもしれないし、たぶん職員さん以外はそれを持ち出すことはないだろうし、むしろ、今は、安全な状態にある。これは救いだ。
 だいたい、こういう風に考えるに至った。本当に、トイレにスマホを忘れたり(忘れないようにと誓い、それでも忘れること多数)、物をなくしやすいここ数年。でも、プロセスをたどればほぼそれらは見つかっている。基本的にはなくしものには気を付けているから。だから、今回もあわてなかった。そして、もしなくしたら、誤って、弁償すればよい。最近の本だから、手に入るし、3000円くらいだから買えないこともない。それに本当に紛失したら困る蔵書なら、外部持ち出し可にはせず、館内のみの閲覧にするはずだ、とも考えた。結局、自分への要請をよりしようとする自分の処理速度が、その要求に対応しきれていないだけなのだ。ゆっくり、少ない量ならば、間違う率もきっと少ないのだ。
 胃はそれでも少し痛いのだが、日曜日、さっそく図書館に行ってみた。最初に4冊を返却し(資料つくりは終わったので返却しても問題ない)、不明の1冊が果たして返却、あるいは周囲に置き去りにされていないかを確認。司書の人にも事情を話し、貸出記録を調べてもらった。そうすると、なかった1冊はすでに返却されていた。だいたい、仮設の通りだった返却が完了しているということのようだ。念のため今回も5冊借りてみたがエラーはなし。きちんと前の5冊は返却が完了しているということも確認できた。

 『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』『お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか』。それぞれのたとえ話は、なくしたものが見つかったことについてよろこびの声を上げる。その喜びの声の背景には、「人間とは間違うもの」「人間とは失敗するもの」という考えが横たわっているような気がする。地上の国で不完全な存在だからこそ、神の国での完成を神様は、イエスは期待している。でもそれが実現するのは日々の日常のなかでだ。その日常はなかなか苦しい。そんな中で、自分に欠けているものに気付き、それを埋めることができた。愛すること、人をゆるすこと…。ただしそれは、日常の地位とか名誉とか、金銭的価値とかとは違うものにおいて。それが神様にとっては最高の喜びとなる。それを見つけたのだから、なくしていたそれを見つけたのだから、それはそれはうれしくなるのだろう。そして、その神様の考えにあこがれる本人たちも「なくしたものを見つけたんです。一緒に喜んでください」。ということになるだろう。

 私たちは、神様の目で見て、なくしたもの、なくしたまま気付かないでいるものをたくさん持っている。しかし、そのこと自体に気付くことができないでいる。だから、形がありいつかはなくなる本の紛失はもちろん避けなければならないが、それ以上になくしたらいけないものを知らないでいるといるのかもしれない。それが愛することであったりゆることであったり、十字架の意味を知ることであったり。
 そうしたものを自分自身も、隣人も、見つけれた、というときに、ともに喜んだり、喜んでもらえることができる人でありたいな、なりたいな、と思う。

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