見出し画像

人の善意と神様の愛

 人が他者に対して、善意や慈悲、憐みの気持ちから支援する、かかわりを持つという行為に至ることは多い。しかし、そうした関係がいつしか破綻し、支援者のエゴとなる恐れもそうした行為は孕んでいる。失敗というか、本来の意図を壊してしまう。しかし、神様の愛はそうではないとよく言われる。カトリック学校で、この「神様の愛」なるものを授業で教えるときに、この違いや人間の愛との違いを説明する場を持つ(ことが多いと思う)。しかし、わかっているようでピンとこないということも多い。

 今年もとあるカトリック学校から中学生の修養会の、講師のお話を頂いた。かつての宗教科教員で、メインストリームな研究会等からは意図的に離れ、身を隠しているのに、存じ上げた先生が推薦してくださり、司祭でもないので連続して招いていただいているのは感謝しかない。今や、この分野の授業や講話をするのはこの場しかない。勤務校では社会福祉を教えているので宗教的なことはほとんど口にしない。なので非常に貴重な臨床の場であり、カトリック学校への恩返しの場になっている

 昨年はyoasobiの「ハルカ」という曲の、捨てられたマグカップ「月王子」を買ったハルカとの関係を、「あなたのそばにずっといる」たとえ、別れがあってもそれは「いつまでもともにいる」関係なのだ、神様とともにいる、あなたのことを神様は愛している、とはそういう意味なのではないかという話をした。加えてCBT,ACTのマインドフルネスとセルフコンパッションの方法を使いながら祈りや瞑想、自分と向き合うことの演習なども行った。自分の中でyoasobi3部作の構想があって、yoasobiの曲の2つ目(作品のミュージックビデオが応用しやすい)のチャレンジだ。今回、検討している「ラブレター」は、郵政を通じて募集された、yoasobiがあなたの手紙を歌にします、という企画で採用された手紙をもとにした曲。ラブレターは人間への手紙ではなく、採用された小学生(当時)の「音楽」に対する思いを「ラブレター」として手紙にしたもの。つらい時も、楽しい時もいつも自分のそばにいてくれた「音楽」に対するラブレターが手紙の内容になっている。それを曲にしたということ。

 どんなことがあっても、そばにいてくれるのが「音楽」。どんな時もそばにいてくれるのはキリスト教的には「神様」「イエス様」。「音楽」は別に何かしてくれたかといって、人間ではないから、気持ちが変わったり、何かしてくれるとか、離れていってしまうということはない。そして、音楽自体は与え続けているのに、特に自分から何かしましょうか、これをやったからこうしてくださいという要求もしない。一方的に「音楽」というものをもたらしているだけだ。そしてその「音楽」を受ける人間は、何かのきっかけでその「音楽」を知り、その善さを知り、それを求め続ける。求めれば求めるほどに、「善さ」を感じ、さらに求めていく。音楽を「求めていくほどに何かを与えられる」。恵みは関わるほどに与えられ、それは一方的に人間に与えられる。仮にその音楽が嫌いになり拒否してもよい。それもまた自由なのだ。なるほど、存在のないもの、人間ではない事象がなぜ信仰の対象となるのかという一つの考えを、このことから考えることが出来る。プラトンの哲学で「真善美」は目に見えないイデアの世界にあり、それらの写しが仮の世界である人間の世界で映し出されている、というのがあるけれど(理解が外れている部分があれば申し訳ない)、善なるものの映しは一方的に私たちにもたらされる。それを私たちは自由意志を持って選択している。音楽≒美、と考えると、人間に何かのきっかけで一方的にもたらされ、それを受け入れた人間は、善いものと出会っていると想像できる。神様の愛は見えないし、わからないかもしれないのに、なぜ神様の愛を説明できるのか、そういうヒントになるかもしれない。利害でもなく、自分が出会ったときに、是としたときに、一方的に自分に向かう善さがある。それが「神様」か…。それを人間の業として、そして出来るだけ神様の愛に近づけて話しているのが、イエス様の言葉。自分を助けてくれるのが、音楽、踊り、読書、スポーツ、なんでもいい。それらは自分から志向すれば、何も答えないが善いものを返してくれる。その存在を信じ、その信仰から力を得る。「信仰」が人間の業ではないというのは、こうしたサイクルがあるからだろうか…。そう考え抜く力を、教義を前提として、しかし、教義ありきではなく。それが授業の可能性を育てる。私には音楽も、踊りも何も善いと思えるものはない、と感じている子どもたちもいるだろう。いやいや、そういう善いものは、一方的に、利益に関係なく、そして絶対に変わることのない存在があり、信仰に値するものとして目の前にある。人の善いは時として真逆に変質する可能性がある。善意で行っていたことが憎しみになる可能性もある。神様の愛は一方的で拒否しない限り、無条件にもたらされる。善とはそういうものだ。その善の中の善である最高善。それを信じ祈る。私たちはそう知っていながら、人間の善の論理で善行を行うことがおそらく多い。それに気づく洞察力と、過ちを犯してしまうかもしれなという謙虚さが必要だ。

 「愛」というと人間の中での、相互行為という意識は強いように感じるが、キリスト教はそれだけではない「神様の愛」を知っている。気が付かない新しい信じるという力を、本当はずっと2000年以上もあり続けているのだが、あまりあらわにはされていない。それをあらわにする実践や生き方を多くの人が行っていくことが必要だ。ある一側面からではあるが、宗教的な講話やカトリック学校の授業は担っている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?