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図像学はおもしろい

 フランチェスコ・デル・コッサ(Francesco del Cossa, 1430年頃 - 1477年頃)、イタリア初期ルネサンスの画家、による『受胎告知』(1467-68年頃 テンペラ、板 ドレスデン絵画館蔵)。絵の下の方にかたつむりちゃんがいて、絵の中にいるのか、それとも絵に張り付いているのかわからないような、だまし絵(トロンプ・ルイユ)的になっているのが面白い。
参照 https://www.kogei-seika.jp/blog/kanazawa/005.html
カタツムリが露によって受精すると信じられていたそうで、聖霊によって。男女(オスメス)の関係に関わらずイエスを身ごもったというマリアに重ね合わせているということでもあるらしい。ただ、それだけではなく、カタツムリはたくさんの象徴的な意味があるみたい。罪とか怠惰というニュアンスがあると説明している文章も多い。カタツムリの殻のつむじは迷路を連想させ、その迷路からの脱出が罪と死の世界からの脱却である、との見解も。いずれ、諸説あり、興味深い。ダニエル・アラス著(宮下志朗訳) 『なにも見ていない 名画をめぐる六つの冒険』白水社、2002.10. ISBN4-560-03887-2、2600円原題 Daniel Arasse, On n'y voit rien: Descriptions, Denoël, 2000.「カタツムリのまなざし ― フランチェスコ・デル・コッサ《受胎告知》」にくわしく書かれているようだ。
 図像の講義を聴いていたのだが、その中で、このデル・コッサの受胎告知の話が出ていた。絵の中央には円柱が存在している。そして、この円柱に着目すると、柱は、天使とマリアがお互いを見る、視線を遮るものになっている。つまり、マリアと天使はお互いの表情を見ることなく、柱にさえぎられる形で、声だけで会話しているということになる。天使が実在しているなんて、多くの人には受け入れがたいだろうし、そういう現実を説明するために、柱は機能しているのか?という想像もできるが、図像学的には、柱は、イエスがむち打ちのために縛り付けられた「柱」であり、イエスの受難を示すシンボルなのだ。つまり、お互いに顔と顔を本当の意味で見ていないマリアと天使。そして、そのマリアおよび、胎内のイエスにいずれ及ぶであろう、苦難が、象徴的に示されている、というわけだ。それにさらにカタツムリがからんでくると、さらに絵画鑑賞の面白みと、思考的な重みが増してくるように思う。

「これから、あなたが、いかに苦しまなければならないか、私はあなたに示しておこう」。こういう、将来の苦難の予見、というのはキリスト教の信仰や展開の中で非常に重要な役割を果たしているようにいつも思う。基本的に、世の中はきついものだよ。何か起こるから、と。だから「目を覚ましていなさい」、ということにもなるのだと思う。しかし、その苦しみは、苦しみのまま終わらないよ。その苦しみ≒十字架の向こうに、喜び、幸せへの直観があるよ、と聖書は、キリスト教信仰は言うわけだ。だまされているような気もするし、でも、真実でもあるようにあるような気もする。柱によって遮られる視線が、たがいに目と目が合う状態になり語り合えるようになるには、いくつの苦難を乗り越えねばならないのか…。でも、苦しみの中に身を投じ、それでも前に進んでいる人はたくさんいる。柱はイエスの将来の苦しみを示し、イエスをくくりつけ、苦しめることになる「アルマ・クリスティ」(ARMA CHRISTI ラテン語で「キリストの道具類」の意、受難具と呼ばれる)にもなっており、それは、人の幸せなんて続かないよ、とでも言われているかのようだ。でも、苦しいことの方が多いよ、ということの方が私は納得するな。世の中は皆が仲良くして幸せです。そうでなかったら平和を目指しましょう。なんか、ちょっと違うと思う。意見がぶつかり合い、分裂し、それでも食い止めようと調停があり、調和が目指される。その方が、真実っぽい。マリアと天使を遮る柱にいったい、あなたは何を見るのか。そういうことを提案し、一緒に考え、自分も成長していける。「そういう知識を深め、考えること、知ることって楽しいじゃん。それを教えてくれるところや、そういう人に会いに行こう。そして、自分もそういうことを伝えられたり、一緒に考えることができればいいな」。ということを伝えられる人でありたい。柱の向こうを見ることができるようにがんばってみよう。


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