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 あなた「聖書」でしょ そんなこと書いていいの?

C年年間第25主日 (ルカ16:1-13) 。新約聖書の中には、イエス≒善玉、いいことをいう、ありがたいお言葉、たとえ話もそう、という図式に合わせると、どうも困ってしまう箇所というのがいくつかある。自分の好きなものを肯定的に相手に話して、楽しくなるのだが、その黒歴史なんかがあるのも事実で、そこになるとどうも歯切れが悪くなってしまうような。そういう聖書の箇所は、神様だからこうなはずだ、という展開にはならない。あれ?、聖書でこんなこと言っちゃっていいの? という違和感に襲われるという。その代表的なものの一つがこの不正な管理人のたとえだろう。
 ルカが編集の段階で取り入れた伝承の数々が混ざり合い、複雑な内容になってしまっている、誤解を招くような内容になっている、と説明することもできだろうし、その妥当性もある。実際よく読んでみると、何のことを具体的に言っているのか、わからなくなる部分もある。ずるをしたことがばれそうになり、クビになる、と焦った管理人が、対策として、主人が人に貸したものを勝手に減額してしまう。その減額の感謝の気持ちを餌に、自分がクビになっても彼らから感謝され、食べていけるように準備をしたのだ。そういうことが勝手にできること自体がよくわからないが、主人はそうなったのに、「この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた」。そして「この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる」となる。不正にまみれた富で友達を作りなさい、というのは、たとえ話の主人を神様やイエスに置き換えると、なんとも違和感のあるセリフとなる。あの神様やイエス様だから、前の箇所の厳しい言葉のように「出ていきなさい!」みたいに厳しい言葉で解雇の言葉を通知してほしいとなるのではないか。
 そして急に、文脈を考えずにそれだけ聞いたら、人生訓のように聞こえる「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である」が出てくる。それは人生訓というよりは、続く言葉ではイエス様っぽくない言い方で説明がなされる。「だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか」と。
違和感はあるけれども、管理人が使える主人(キュリオス)を「主なる神様」「雇用主としての主人」そして「神の国の論理」「地上の国の論理」さらに「今も続くこの世」「終わりの日(終末)」。これをイエスの弟子たちがどう向き合うのか、という視点で読むと決して凸凹な話にも感じられない。つまり、弟子たちに対する、人の世界やよのなかなのか神の国なのか、に当てはめると、これほど納得のいくたとえはないのではないかと近年は考えている。そして、神の国と地上の国の成功は全く違うものだというイエスの理解を推測すると、さらに納得がいくのだ。
 ところで、13節にわたるこの箇所を1―9、10―12、13という3つに分けると、解説書なんかは、この3か所すべてに「富」という言葉があり、ストーリーの均衡がぎりぎり保たれていると説明している。そして10―12節には集中的に「忠実」が出てくることが指摘され、この箇所をひとくくりと考えると、このような3つの箇所に分けることが可能なのではないか、ということだ。
 イエスは管理人の何をほめているかというと、その抜け目のなさ、素早く自分を守るために動いて準備をするという動きのようだ。考え方としては、終末に対する信仰者の素早い対応や動きを意味するという解釈もあり、なるほど、と思う。イエスの言う「神の国」は切迫した終末意識のもとに展開されているものでもあるから、これは解釈の参考になる。大きな終末という出来事について、迅速に一つ一つ小さなことを積み重ねていく。
そうした地上での成功は管理人のような在り方が成功する。主人に対し勝手に金を借りている人を集め、そこで、違和感はあるが、借金の額を半分にする。借りた人々は管理人にも、主人にも礼を言う。主人は礼を言われてまんざらでもない。損失だが、管理人のことを怒れない。管理人は、仮にクビになっても、半額の感謝から行く場所をどこかで見つけることはできるだろう。この迅速さとずるがしこさは地上の国で生き抜くには大切なことなのだろう。
 でもやはり、地上の国の論理と神の国の論理は異なるのだ。だから、13節は「どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」ということになる。「不正の富」を使う、というと、なんか、違和感があるが、私たちは地上に生きているわけで、いいところも悪いところも含めたその現実の中で生きていくしかない。その現実を使う中でしか、神の国には到達できない。だから、その素材を使って神の国を目指す生き方を結果的にはしてしまうことになる。その実現のための迅速な手段は「不正にまみれた富について忠実」であるという事実であるかもしれない。しかし、イエスの弟子たちはこれをうまく使い、向かい入れる場所を素早く用意する。地上の論理ではなくイエスが語る考えが反映されている「神の国」に。両者とも、地上の不正な富とイエスが言うものを使用する。しかし、不正な管理人は居場所を、地上の別の場所に求め、イエスの弟子たちはそれを神の国に求める、という点で違いがある。地上の富を使うのは天に富を積むため。
まだ、論理の矛盾や整合性のなさ、解けない難解さはこの箇所にあるが、時間をかけて考えと読みを深めていけばよい。読んでいく中で、やはり、神の国というイエスが目指した理想が浮き出てくる。世の中をただ批判するのではなく、私たちはその中でしか生きていけないわけだから、不正に立ち向かう気持ちを忘れないようにしつつも、その中で最善を尽くすことが大切なのではないか。NHK,こころの時代の中で、山川宗玄老師が、つらい日常や納得のいかないことが多い人生の中で、その矛盾やくやしさ、不正等に対して批判をするだけでなく、その中に身を置いて、その中でいかに自分が最善を尽くせるのかを考えて行動を起こすことの大切さを話していた。それは山川老師が40年以上の修行の経験から得た実感なのだという。寒い時には温かさを求めるのではなく自分が寒さと同化することにより不思議と体から暖かさがわいてくる。その周りと自分を同一化することで苦難を乗り越える。

「そうですね。それを素直に受け取って、それを一切批判をしなければ、反発もしない。だけども、その中でどのように生きていくかというギリギリの行いがないといけませんね。両方がないといけないと思うんです。ですから素直に受け取ることを禅宗の方では「現成(げんじよう)受容(じゆよう)」というんですけどね。現成を受容するんじゃなくて、つまりこれは自分たちのはからいを超えたところからしくまれているきちっとした、要するに宿命なんだ、運命なんだ。だから素直に受け取るということですね」(NHK心の時代 平成二十七年七月十二日放送 生かされて生きる)

 現実の中でむしろ、矛盾していることを受け入れ、しかし、それに屈せずその中で最善を尽くすための生き方を信仰する。そうした読み方で「不正な管理人のたとえ」を読むときに新しい地平は開かれるのかもしれない。今の最善を生きる。そうした、バランスと、善い意味での賢さを持ちたいと思う。


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