学校に行かない選択。幼稚園には行ってます。「子どもたちの中の輝きが私を其処に向かわせる。」
7月になった。今年も折り返し地点だ。
北海道も蝦夷梅雨という言葉が示すような、やや湿気が身体に纏わりつく時期である。
しかし、暑くても、寒くても、子どもたちは元気だ。
子どもたちの元気さとは、何処からくるのだろう?
子どもたちを観察していると、産まれて暫くの間は、「生まれ持ったエネルギー」で満たされている気がする。
そのエネルギーは、この世界で生き抜けるようにと、神様が持たせてくれたお土産のようなものではないうだろうか。
私は、そのエネルギーをどうでもいい大人の都合で浪費させないことが、大事だと思っている。
大人が邪魔をすれば、彼らのエネルギーは擦り減っていく。
あっという間に。
いとも簡単に。
エネルギーを擦り減らした子どもたちの目からは輝きが消失する。
そして、それを回復させることに人生の多くを費やさねばならなくなり、自分の生きるべき道を見失うことも多く、本当にやりたいと願うことへの遠回りを強いられると思う。
私は、そういう子どもの中のひとりだった。
末娘が通う幼稚園には、日々、多くの子どもたちが、やってくる。
私は、子どもたちの表情や行動を観察するのが好きだ。
子どもというのはとても興味深い。
軽く大人の囚われた考え方や行動を超えてくる。
その瞬間に立ち会うことができたなら、それは幸運だ。
先日も、我が家の桑の実姫は、桑の実を求め、桑の木の下で「あそこにあるから!ほら!」と、ばあやの手を自分の手の如く使って、桑の実を取り、たくさんの実を頬張っていた。
幼稚園には、何箇所か桑の木があるのだが、子どもたちは、登りやすい木にむらがり、自分で木に登って桑の実を取ることを楽しんでいる。
斜面になっている部分に木が生えており、登った時は良いが、慣れていない子や、年齢が低い子は、木登りして降りられなくなる仔猫のようになってしまうことがある。
その日も、数人の仔猫が木から降りられなくなっていた。
「降りられない~!お母さん~!」という、末娘と同じ年齢の女の子。お母さんは傍にいたものの、赤ちゃんを抱っこしていた。そして赤ちゃんは気持ちよさそうに眠っていた。その子のお母さんは、「今、助けられないよ~!」と困っていたので、私は、女の子に、「私でもいい?」と彼女の意志を確認するために、声を掛けた。どんなに小さな子どもにも、私は意志を確認する。私では駄目、ということもある。その場合は他の方法を考えるのだ。
女の子は、黙って頷いてくれたので、私は、ちょっと木に登り態勢を整え、彼女を抱っこしようと両手を広げた。
すると、次の瞬間、彼女は、木に掛けていた足を勢いよく蹴り、広げた腕の中に飛び込んできた。
驚いた。
こんなに勢いよく飛び込んでくるとは思っていなかったのだ。
私が驚いている顔を見て、女の子はちょっとだけ微笑んでいた。
ほんのちょっとだけ。
あぁ、私は、この瞬間を味わう為に、此処に来るのだ。
普段は、殆ど関わりのない子どもが「このひとに飛び込んでも大丈夫」と信じて飛び込んで来てくれる。
無事に地面に着地すると、女の子は、私をちらりと見て、別の場所へと走って行った。
「びっくりした!飛び込んでくると思わなかったから!落とさなくてよかったよ~」と私が女の子のお母さんにケラケラと笑いながら話すと、そのお母さんは、「ありがと~!誰でも大丈夫な子じゃないから、このひとは大丈夫!って思ったんだと思う。」と言ってくれた。
そうだとしたら、ありがたい。
受け入れてくれてありがとう、そんな気持ちでいっぱいになる。
子どもたちの、その信頼に値する大人でありたい。
いつだって、子どもたちとの関わりの中で、私は自分の在り方をみつめることができる。
子どもたちの中の輝きを失わせることがないよう、私は最大限の注意を払う。
そして、敬意を払う。
あなたたちは、光、そのもの。