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食べる、食べられる、食べる〜映画「オクジャ」|Netflix

一昨日かな。金曜ロードショーで「パラサイト〜半地下の家族〜」が上映されていた。この映画に関しては、ちょうど数週間前にサブスクで観ていて、ちょうどいい機会なので前から気になっていた同じポン・ジュノ監督の「オクジャ」をnetflixで見ることにした。


「グエムル 漢江の怪物」のポン・ジュノ監督が、ブラッド・ピットの映画製作会社プランBとタッグを組んで手がけたNetflixオリジナル映画。韓国の山間の家で暮らす少女ミジャは、大きな動物オクジャの面倒を見ながら平穏な毎日を送っている。優しい心を持つオクジャは、ミジャにとって親友ともいえる大切な存在だった。ところがある日、多国籍企業ミランド社がオクジャをニューヨークに連れ去ってしまう。自己顕示欲の強いミランド社CEOルーシー・ミランドが、ある壮大な計画のためにオクジャを利用しようとしているのだ。オクジャを救うため、具体的な方策もないままニューヨークへと旅立つミジャだったが……。▼出典:映画.com


✳︎以下ネタバレを含むので、これから見る予定の方は注意を。

オクジャを見た次の日、なんとなく鬱鬱としていた。


確かに面白かった。ただ、「うわ、ハマったわこれ!」というようなマイブーム的な面白さというよりは、ぼんやりと頭から離れてくれない引き摺り方のほうが表現として正しい。【オクジャ 考察】で引っかかったGoogle検索に一通り目を通し、ぼんやりと最後の精肉場に集まった豚たちの様子を思い浮かべていた。


パラサイトに共通するような格差社会の表れ」とか「社会に適応するための記号を得て少女が成長する物語」など、様々な考察を読み通したけれど、自分なりにこの映画に対してうまく結論が出ない。


わたしは、この映画を観て、観ている時は人並みにミジャとオクジャのことを可哀想だと思った。でも、わたしは精製され綺麗にパッケージされた肉を食べて、今日も生きている。食べないと生きられないから、食べる。ただそれだけ。ニュアンスが少し異なるかもしれないけれど、それでも物事の関係性だけに注力するならば、いじめの主犯格がいじめを題材とした漫画を読んで涙を流しているのと変わらない。



オクジャを見終わって、私の中にある記憶が蘇ってきた。忘れていた。小中学校時代の、社会科の授業のこと。


私の通っていた小学校、及び中学校の社会の授業はどこか道徳の授業と重なる部分があった。古くから残る皮工場の多い地域で、江戸時代の身分制度が蔓延っていた時代、身分制度の外で動物を殺生して仕事をする人たちは穢多・非人(えたひにん)と呼ばれ、理不尽な差別を受けていた。先生は、今では絶対に使ってはいけない言葉だと、何度も繰り返したし、このことについてどう思うか、宿題で一人一人が感想文を書かされた記憶もある。精肉場のセンターとか、皮なめし工場に社会科見学で行った。当時は、なぜこんなにうちの学校は精肉やら皮やらに敏感なのだろうと思ったが、今ならわかる。



クラスに、家の生業を精肉や皮なめしとする子が少なからず数人いたからだ。



何かを生み出す際には、廃棄物が生まれる。社会科見学で行った、クラスメイトのお父さんが運営する皮製品の工場は、特有の「匂い」を発していた。それは美しい革製品を作るためには当然の課程である。ところが、精神的に未熟で少しでも周りと違うことが気になる小学生にはいじめの格好のネタだった。理解をさせるために大人が作り上げた機会は、むしろ翌日からその生徒に刃が向くきっかけとなってしまった。


真の理解と、エゴは違う。ミジャはただ平穏に、オクジャと暮らしたかっただけだ。ミジャの意思に反した大人たちが、エゴを含んだ正義を振りかざし、悲劇を呼んだ。この映画の内容に沿って考えると、わたしは今も過去も革製品なしでは生きられないと思う。ランドセルを6年間背負って登校した。お気に入りのキーケースも革ブランドだ。肉だって食べる。それでも、物語としてオクジャを殺さないでほしいと願った。何かを否定しているのに、自分はその輪の中からは外れられないこと。作文はちゃんと書けていたのに、あのいじめを見て見ぬ振りしたこと。オクジャの優しい目に、今までの全てを問い詰められているような気がした。


オクジャとミジャが耳打ちをし合うことで意思の疎通ができるのではないかと考えさせられる場面が幾度か登場するが、あの時のセリフはなんだったのか。



--Trust me.


わたしにはそう語りかけているように見えた。エゴも弱さもない、信頼と強い絆が、ミジャとオクジャの間には、ある。






2021.01.10

すなくじら




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