見出し画像

私は何者……


〜道〜 (9987字)



1.人生


ー跡取りー

私の両親は、ド田舎で生まれ育った同級生同士。
親の反対を押し切って、既成事実を突きつけ結婚した。
その授かった命が私だ。長女として生まれ、妹は二人。

本家の跡取り、墓守、あなたは後継者と、小さい頃から聞かされていた。
先祖代々続く格式ある家柄でもないのに、貧乏な家系を引き継いでどうする?
そんな時代でもない!と、小学生の頃から親の価値観が嫌だった。

跡取りの思いは、特に祖母と母から常に言われ、
本家、長女、跡取りという責任を感じさせられていた。

私の味方は誰もいない。
この気持ちが幾度も積み重なっていった。


私は、幼い頃からよく叱られていた。
だが、物分かりがよく、賢くしっかりとしていて、
親や周囲の人たちからもよく褒められた。

妹たちはそこを比較されていたが、逆に私は、
妹たちが自分の希望が通ることが羨ましかった。

妹たちには甘く、私だけに厳しい。
家族中の期待や価値観を押し付けられている感覚があった。


小学校高学年頃だっただろうか。
私は、威圧的な態度や言葉に、体が固まるようになった。

自分の意見や気持ちを言うことが怖くて、とても勇気がいった。
意を決して言っても、否定されたり、馬鹿にされたり、
気持ちを理解してもらえたと感じる経験が少ない。


あなたはしっかりしている。
放っておいても大丈夫。一人で何でもできる。
母の口から語られる言葉だった。

嬉しくもあり、悲しくもあった。

親を当てにしなくなったのは、ちょうどその頃から。
本気で縁を切りたいと思ったのは高校生の時だった。


ーモラトリアムー

高校の頃、親の価値観を振り切り、
親の世話になるもんか!と、
自分一人の力で生きていこうと考えた。

が、現実はそんなに甘くない!
自分にそんな力が育っていなかったことを早々に気が付いた。

そのショックな衝撃に愕然となった。
自分は、自分が思っている以上に子どもだったのだ……

ならば、今度は現実逃避へ。
それを逆手に取り、今まで甘えられなかった分を
自分に責任を持たずに、多いに甘えてやれ!
私は、モラトリアムへ入っていった。


自分の道を歩めず、親のレールを歩くことが、
正しく良いことという価値観を押し付けられ続け、
いざ自分を生きようとした時には、
自分自身に生きていく力が育っていなかったことを認識した。

自分が母と同じ依存体質になっていることを体感し、
強い不安を覚えた……


かろうじて、高校から大学までは、自分で自分を生きようとした。
初めて自分勝手に好きなように、親を困らせることをした。
強行突破に。

自分の理想と自分が挑戦しようと思う力の差に、現実の厳しさを知った。
葛藤した。強がったり、見ないようにしたり、いつまでも逃げていた……

自由でいるようで、現実逃避をしているだけの自分。
半分嬉しく、半分情けなく、心は悲しかった。

自分の人生を取り戻したいのに、自分が自分でいる自信がない。
親のようになりたくないのに、親のような側面を感じる不安。
体を休める安心できる居場所はなく、

自分を雑に扱った……


ー父の蒸発ー

その頃は、父の不在が1年近いものになっていた。
出張へ出ると、いつ帰ってくるかわからない。
連絡もとれない……不安……

私が唯一、頼りにしているのは父だけなのに……
父がいないのは怖い。

「行かないで!」と、泣いてすがる私を振り払い、
父は家を出ていった。

それが父との最後の別れ。


それからの私は、母や祖母、荒れる妹たち、家族をまとめてケアした。
休むこともなく、自分の感情に目を向けることもできずに、
家族のためだけに必死に動いた。

その反動もあって、自分をさらに自暴自棄にさせた。
自分を痛めつけることが、自分を感じられることのような……
そのもっと感じたくない痛みを感じないでいられるような……
そんな状態の感覚。

かといって、自分の人生を棒に振るような馬鹿なことはしない!
先を読み、物事を見極める力もあると自負もあった。
賢くてよかったな。フッと自分に苦笑いした。


こんな境遇だ。結婚をすることなど夢を持つことも諦めた。

だが、私は幼い頃から、
自分の人生を歩むことを強く願ってきた。

こんなことで、自分の人生を終わらせていいのか?!

自分の境遇を恨み、親を恨み、
この家から離れたい……
自分の血から逃れたい……

体に流れている自分の血さえも嫌悪するような気持ちがあった。

自分の人生を歩みたい……


結婚ができて本当に良かったと思う。
半分は純粋に、半分は不誠実に。

打算があったても、自分の人生を歩むためだった。

しがらみから解放された様に感じた。
自分の道を歩めると思った。

母のことはいつまでも心配があった。
でも、憧れていた平穏な暮らしを私は選んだ。


ー父の死ー

蒸発した父が亡くなったという連絡が舞い込んだ!

父と連絡など入る術もなかったのに。
死の連絡だけは不思議と繋がったのだ。

驚きとショックと衝撃!
父への強い想い……
伝えきれない不完全な感情に溢れた。

母の支えは宗教だった。神にすがりきり、おかしくなっていった。
時系列はもう思い出せない……いや、思い出したくないのか……


父の死の前には、
私自身の身の上に困難が降りかかっていた。

子宮頚がんを発症、2回円錐切除術。
長男を出産したが、出産時のトラブル。
命は助かったが、ずっと集中治療室で呼吸器をつけたまま。
意識もなく、口も聞かず、体も動かず、10ヶ月の命で他界した。

その後すぐに妊娠したが、流産。
そして、子宮頸がん再発、子宮摘出。

心がボロボロになった……

救いとなったのは、天使のような娘たちの笑顔。
嘆いて悲しんではいられない。
前をむいて進んだ。

そんな頃の出来事だった。


ー母の喪失ー

父の喪失に耐えられなかったのだろう。
母は統合失調症を発症した。

急性期は凄まじく、もちろん医療保護入院。
「こんなところに母を捨てるのか!」
「お前は母を見放すのか!どうなってもいいのか!」
「○○(私の名)、〇〇(私の名)!」
何度も私の名を叫び、医師に連れて行かれた……

私の知る母の姿は、そこにはもうなかった……
私は、母を喪失した。

その後も母は悪化の度に、3度入退院を繰り返した。
私は、トラウマとなって、恐怖で不安発作が起こった。
限界だった。私は精神衰弱した……

ソーシャルワーカーさんが何度も言った。

「あなたは悪くない」

その言葉に涙が溢れた。


ー受容ー

私の人生は、人よりも壮絶な人生だったと思う。
または、自分の人生は、他の人とさほど変わらないかもしれない。
いや、もっと苦しい状況の人たちはいる。
私は、まだまだいいと思えるものかもしれない。

ただ、自分が自分でいようとする時、
また、自分を感じようとする時に、
当たり前にできるようなことが、当たり前にできなかった。
他の人がやるように、自然に楽にはできなかった……
そのことがわかった。

それがどうしてなのかわかる今は、
そこがわからなくて苦しむことはない。

機能不全家族・AC(アダルトチルドレン)・愛着障害・HSP
私には、さまざまな側面がある。

そして、これを丸ごと受け止められるのも、自分自身だ!




2.アダルトチルドレン


親のような人間にはならない!

中学校に入ってからこれを強く思った。
今でもその時の感情が心に染み付いている。
絶対に真似したくない大人の見本。

私は、自分が親になったら
「あのような親には絶対になるものか!」と心に誓った。
親を反面教師にして、自分の親像の理想を持ち続けた。

ところが、ある時に、自分が親と同じようになっている部分に愕然とした。
あんなになりたくない親の姿と同じになっている自分にとても嫌悪を抱いた。

クラウディア ブラック原著、斎藤学翻訳『私は親のようにはならない』
というタイトルを目にした時、衝撃を受けた。

「私だ!」

アルコール依存症のような嗜癖障害や児童虐待というようなことがあったわけではないけれど、私は親との関係において、心の傷を負っている。

特に嫌悪していたのは、母に対してだ。


ー母の言葉ー

母は、6人兄弟の末っ子。
田舎では裕福な家庭で、世間知らずのお嬢様育ちだ。
過保護に育てられ、自立ができておらず、全てを人の責任にし、自分の幸せは身近な人が自分を幸せにするものと思っている様だった。

父は出張が多く、長期間不在になることがほとんどだ。
義父母と同居に母は残され、嫁姑の喧嘩はよくあった。

寂しい思いからか、文句を吐く。
「身を一つでくればいいと言ったのに、嘘をつかれた!」
「寂しいから船を降りてって言ったのに!(父は海洋系だった)」
「これじゃ船を降りても変わらない!」
「あんな人と結婚するんじゃなかった!」
「親のいう通りにして見合いをしていれば良かった!」

なだめると、父と性格が似ている私の姿に。
「あんたのそういうところ、父親の嫌なところに似てそっくり!」
「腹が立つ!」
などと、こちらにまで攻撃が向いた。

責任転嫁をしまくりで、父のことも私のことも否定して、父が大好きな上に依存が強すぎて、子どもながらに母に呆れていた。


そんな母なので、自分のことで精一杯。
子どもの気持ちというか、他者の気持ちに共感する力は弱い。
父の不在と義父母の同居と子ども3人の生活に余裕などもなかっただろう。

私は、妹ができて寂しい気持ちを持っていても、
いろいろなことを我慢しても、どんなに頑張っても、
気持ちを伝える努力したとしても、

「お姉さんだから子どもみたいなこと言わないの」
「お姉さんだから我慢しなさい」
「お姉さんだから手伝いなさい」
「お姉さんだからわがまま言わないの」
「お姉さんだから泣いたらおかしい」
「親のいうこと聞かないのは親不孝」
「子どもは親のいうことを聞いていればいい」
「親に口答えしちゃいけない」

そんな言葉ばかり言われていた。
気持ちを受け止めてもらった経験などは少ない。

ましてや、抱きしめてくれた記憶はなく、母に触れることや近づいて、自分が傷つくことを恐れて、触れることも近づくことにも躊躇していた。

私は、意見も考えを持っていても受け止めてもらえずに、親の手となり足となり、親の人形の時は良い子で、自分を主張するのは悪い子というような言い方をされ続け、自分を尊重することは悪いことのように形成されていった。

私の小さな頃からのHSP的な身体反応については、
私が感じる不快さや具合の悪さなど、我慢のできないことが、
目に見えてわかるので、合わせてくれることもあった。
しかし、合わせはしても、

「こだわりが強い」
「頑固」
「言ったら聞かない」
「大袈裟だ」
「このくらいで文句を言わないの」
「いい加減にして」など……

気持ちという内面については全く鈍感で、分かろうとしていたのか疑問だ。
私は幼い頃から自我を持った子だったので、
私の考えや気持ちに寄り添い理解してくれているようには見えなかった。
自分のことだけな母の言動に、いつも傷つき腹が立った。


ー父の言葉ー

私が成長するにつれ、小学校4年を過ぎると社会も少しわかってきた。
父からは、
「母は何もできない人だから、あなたが家を守りなさい」
と、立派な役割を与えられた。

私は、父から信頼されている!
とても嬉しくて、その責任を果たし、父に認めてもらいたくて、
それ以降、父のように振る舞っていった。

父は大好きだったのだけど、田舎育ちの貧乏な家の古い考えの人だった。
とても厳しく、父の意見は絶対で、父に口答えすることはできない。
父の話を聞くときは正座。寡黙な感じが怖さが増した。
筋道立て、論理的に話をすることを教わった。

口答えしようものなら、空手仕込みの手が上がる。
その時ばかりは、母が体を張って必死に止めに入った。
「死んじゃうから止めて!」
「手はあげないで!」
父は加減はするものの、空手をしていた父の強さを母は心配していた。

そんな威圧的で封建的な家だった。

父はとても怖い存在だったけど、子どもたちは大好きだった。
それが不思議だ!
芯の強い父の価値観は、ダメなものがハッキリしていた。

中学からは、父の価値観の押し付けと私は戦かった。
手が飛んでくる覚悟を持って、勇気を振り絞って立ち向かった。

自分を尊重し守る戦いだった。


ー私の困り感ー

子どもを育てることとして、
父も母もどこかおかしく、
私は自分を失われまいと必死だった。

私にとって、家族は安心で安全な場所とは言い難かった。

中学生の時には、大人全般も嫌いだった。
大人になりたくないと思う反面、早く対等になりたいとも思った。

そこから、自分はどんな大人を目指そうか?
「人とは?」「生きるとは?」などを考えていた。

ほんの私の一部の話であるが、ここで受けた体験と記憶が、
私の癖となって、体と心や脳に記憶されている。

HSPの気質もあるが、
私は、この機能不全の家族で育った影響が、
染み付いて離れないことに困っていた……


ー母との関係ー

まだ、母との気持ちが整理できていない時
妹と、2ヶ月ぶりに施設にいる母に会いに行った。

母は穏やかになっていたが、相変わらず幻聴がしていた。
相変わらず、亡き父と私が引っかかっている。

母のことが好きなのか嫌いなのかわからない。
ただ、母のことはいつも心配ではあった。


たくさん傷ついてきたけど、私も母を罵倒し傷つけてきた。
物心ついた時から、母を世話してきた。

父が消えてからは、経済的にも精神的にも母の面倒を見てきた。
何十年も……

私が結婚する時には、生活能力の不安と娘の喜びと両極の思いを持つ母。
「結婚おめでとう」「幸せになってね」
「でもこれから、どうしたらいいの……」
「お母さんを見捨てないでね……」
「一人にしないでね……一人でやっていけない……」
涙を浮かべ放つ言葉に、
母を近くで面倒見ないことへの罪悪感が湧き上がった。

父が消えてからは、母は藁をもすがる気持ちで宗教にすがった。
母にとって神が支えだった。
母は頑固なところがあり、言っても聞かない。
私たちにそれを勧めてきたりもする。
心配でたまらなかったが、私は母を振り切って、
家を出て自分の人生を歩んだ。

母は、さらに宗教にのめり込み、精神崩壊していった。


ー生きづらさー

私は、自分の人生を生きようとする時、どうしても罪悪感がちらつく。
振り払い、健全な心を自分に宿す。

40年以上、これで生きてきてしまっている。
変えることなど到底難しい。
でも、自分をわかっていれば、調整はきく。


アダルトチルドレンの生きづらさとは、

自分がありのままで受け入れられた経験が少なく
他人の顔色を見てしまう
我慢、頑張りをしてしまう
自分のことでなくても自責感を持ってしまう
自分の感情を感じにくい

私はこんな感じのアダルトチルドレン……




3.HSPを知るまで


HSPを知るまでは、
どうして他の人たちができることが自分にはできないんだろう?
自分は弱い、自分はダメだ、もっと強くならなきゃ!と、
こんな気持ちを持ち続けていた。


自己肯定感が低くなって、
頭でなんとか切り替えようとするから、
自分の気持ちも否定して押さえ込んで余計に苦しくなる。

負荷をかけ続けて疲弊して、体の不調が出る。
あるいは爆発して、
周りに迷惑をかけて自己嫌悪に落ちるところまで落ちる。

自分でなんとか上手くやろうと思っても、
思うようにいかなくて、もがいて苦しんでいた。

人からは、「神経質」「完璧主義」「真面目」
というような性格で片付けられてしまう。

自分では「そういうことではない……」と、
いつも心でつぶやいていた。

誰もわかってはくれない。


いろいろ感じたことや考えていることを、
わかってもらうために話もするけど、
描写や情報が多くなり、考えがまとまらなくて、伝えきれない。

丁寧に細かくわかってもらいたい気持ちもあり、
全部を伝えようとすると説明が多くなる。
何をどう説明したらいいかわからなくなり、言葉が出なくなる。

感じることが多くて、先回りして動いて、
人の顔色や空気を感じてしまう。


「大したことないよ」「気にしなきゃいいじゃん」

この言葉が意外としんどい。
わかっててもできないから困っているのに……

気にしている自分がいけないんだ、
自分がダメなんだ、
と、自分を否定してしまうことになる。


「やればできるよ」「頑張って」

励ましてくれる言葉も、これもしんどい時がある。

日常的に、人の表情とか空気とかを感じてしまうので、
考えすぎていたり、適応しようと常に頑張っている感じがある。
感じたものを無視もできないので、苦しくなる。
もういっぱい頑張ってるんだよ……
そう、心の中で吐露している。

周りの人たちは楽に過ごしているのに、
自分はどうしてこんなにもしんどいのだろう……

あの頃はそう思って、自分が嫌になっていた。


誰も私をわかってくれない……

この気持ちをいつも感じていた。
孤独感や疎外感を感じることもあった。


私の場合は、一番理解してほしい母親は共感力が弱く、
私の気持ちをわかるどころか悪気なく貶すこともあった。
母は過干渉で依存体質、父は厳格で厳しく、海外出張で長期不在。

身近に頼れる人はいなくて、休まることができなくて、いつも不安だった。
自分を尊重してもらえていた環境には思えなかった。

一人で自分と戦っていた。


人生いろいろあったが、失敗しながら、
試行錯誤を繰り返し、ここまでやってきた。

それでも、やはり、守ってもらいたいと思う人に、
辛さや気持ちをわかってもらえないということは、
心に埋まらない穴が開く。


頑張りすぎた私の体は動けなくなった。
そんな時でさえも、プラス面を導き出せた。

今まで生きづらく感じていたことが何なのか?
真剣に考えていく時間とした。
何度もそこを問うてきた。
自己理解をできてよかったと心から思う。


HSPを知ったときは、自分はダメでもおかしくもなかったと思えた。

HSPは勝手な思いこみをしがちだけれど、感じ取ることは得意だ。
だから、他人も自分と同じように感じ察することができると思っている節があると思う。それは、言ってみれば、自分と他人の区別ができていないということだ。自分の感覚だけで見てしまうところがある。
そこは注意していきたいものだ。

HSPを知ってからは、今まで感じていたことや抱えてきた思いが救われ、気持ちがとても楽になれた。
自分のことがわかると自分を好きになれる。
愛おしく思えた。不思議だ!

たくさん苦労もあったけど、今は自分をよくわかっている。

私は自分の感受性が好きだ!




〜私は何者〜


私は不安感が強い。
気質的なところもある。
環境からも不安が強くなる要因があった。

想像力も高い。
だからありもしないことに不安になりやすい。
想像したものをリアルに感じやすい。
感情に影響を感じやすい。

感度が高いため、物事を察知もしやすい。
刺激に対し、反応が大きい。
HSP的な要素がある。

皮膚感覚、嗅覚、非言語の察知、
感情の質と大きさ、想像に対するリアル感、
漂う空気、細かな部分の差異、勘の良さ……

小さな頃からの感覚がある。

不快が体感覚に反応し刺激される。
体に記憶されやすい。

感受性ゆえ、傷つきやすく、
不快に感じる頻度も多く、記憶に残りやすいか?

気質は、広義の発達特性の傾向もあるかもしれない。

理性と感情がせめぎ合い、感情を押さえ込む対処や、
頭と心と行動が違うことをしてしまったりしていた。

社会的な規範に合わせること、
ジェンダーに合わせること、
周りの友達に合わせること、
置かれている状況に合わせること、

納得できない要求に合わせるのは抵抗感が強い。
適切な行動は取りたいけど、感情を押し殺し、
息苦しくなる……

感情のコントロールは苦手で、とても労力を使う。
頭で理解して対処しているから、感情が全く対処できていなかった。

今は、感情に向けた対処をできるようになった。
今までは、頭で知性化と正しさで調整していた。
勘が鋭いことや、状況における推測の早さからかもしれない。
早合点してしまうのも、
状況だけの情報で判断してしまうからだったと思う。

受け止めはいつも意味づけ。
意味を見出せないと、地に足がつかない。
そんな感じで今までを過ごしてきた。

感情のコントロールは、自分の感情を意識して、
それを自分のものとして受け止める。
(体の内側、みぞおち辺り、感情は空気の球のようなものを感じ、それを手のひらで掬う様に優しく抱え持つ。心の様子を映し出し体感させる)
思考が停止し、感情を保持したままでいられる。
冷静に自分の感情を眺めることができる。

自分の感情を体感することに慣れていなかった。

それができると、自分を揺さぶられずに、自分を保持できる。
自分の軸を感じられた。

不安感の強さは、不安から、常に緊張して、自分を律していたためか……
気を張って過ごしていたのだろう。

自由に発散できるところは学校や家の外にあった。

でも、小学校の高学年では、
女の子の共感というより同調の世界に、違和感を感じた。

合わせようとすると、
自分を偽っているようになって苦しくなる。
この頃には、対人不安やチックが出た。

中学に入ると、親との折り合いの合わなさに、
金縛りが強く、布団に沈み込む感覚や、鏡に映る自分が自分ではない感覚、
いつも誰かに見られているような怖い感覚、鳥籠の中に入っているような感覚、
自分がピエロになったような顔で笑って心で泣いて、

自分を持たない操り人形のような無力感……

生きている感じがしなくて、
生きている感じを確認するために自分を浅く傷つけてみた。
流れる赤い血を見て「あー生きてる」と感じ、涙がこぼれた。
複雑な心だった。

現状は変えられない……

このままでは終わりたくない!
大人の言いなりになんてなりたくない!
私はこんなところで終わりたくない!

それが自分を奮い立たせた。
そういう思考ができるところは、我ながら凄いと自負があった。
その武器があるからこそ、今までやってこれたのだと実感する。

思春期で、なんとか自立を目指してきた。
自分の存在意義を自分で見出してきたけど、
安心できる場所がなかった。

自分に好意を持たれて、初めて受け入れられた感覚に、
体も心も渇望した……
今まで隠し持っていた欲求が対象に溢れ出す。

依存的になってしまうのは、
環境的に心の傷を負ってきているから。

自分を律しなくても、
受け入れてもらえる対象に、体が勝手に反応する。
受け入れられていないと感じてきた心の傷、
なんだかわからない劣等感、敏感さからくる自己否定感。

全てが重なり絡んでいるけど、
一番は親子関係とその環境のもの。

追い打ちをかけるような、
父の蒸発と死
母の依存と病気
旦那の共感能力の無さ
同居による居場所の無さ
更年期

怒涛の人生に、さすがの私も体力と気力の限界になった。
無理もない、私はもう若くない。

父の蒸発の過酷な時には、過度のストレスで、
理解のできない体がおかしさをたくさん味わったけど、
それでも体は動かせていた。

でも歳を取ったら、体がいうことをきかない。
体も動かせなくなった。
動けなくなってから、尋常ではなかったことに気づいた。

そこまで頑張ってしまうのは、乗り越えてこれてしまったから。
いい様で悪くもある。

私が弱音を見せてなかったのか?

確かに負けず嫌いだけれど、弱音を吐く事もしてきた。
友達にはたくさん助けられてきた。

でも、不公平で、理不尽で、誰も理解してくれないと
孤立感、疎外感も感じてきた思いが拭えきれなかった。

理解してくれていると思っても、
理解されないと感じた時は、裏切られた気持ちになる。

人を信用するのをやめよう、そう思ったこともある。

人間不信や、常に疑い深く、隙を見せつつも慎重に、
気づけば傷だらけの体に、何重にも鎧を着ているように、
身を守っていた20代だった。


結婚しても、
自分の尊重は理解されず、支配されているような、
自分を卑下し結婚してもらっているというような、
自己肯定感の低さが見えた。
お金が一銭もなく、むしろ借金で、
父が蒸発したという家系の乱れさから、
自分を肯定することができずにいた。


旦那はお金について細かく、俺の稼いだ金と言い、
悪気なくだが追い討ちをかけるように、
私の心の傷を深くした。

だが、経済的に食べる物に困らず、
屋根のあるところに安心して過ごせる、
明日の心配をせずにいられることは、
基本的な当たり前の安心だけど、
私にとっては、安心と安全が守られていることは、
とても幸せなことと思えた。

自分を尊重されない時や辛い時に、
実家に帰ることもできず、逃げることもできなくて、
安心できる場所はあるが、逃げ場所はない。

理想としていた結婚生活だけど、
自分を癒せる場所の機能はしていなかった。

唯一の癒しは、子供の笑顔!
それがあったから頑張れた。



母が病気したことで、
さらに癒されない感覚に不安も高まった。

そのうち、母の対応に親子関係の問題が現れ、
母とのしがらみのような心の傷が蘇った。

母の状態が悪くなることへ恐怖にPTSDになった。

恐怖と疎外感、抑うつ、不安症状、PTSD、
更年期も少しあったかもしれない。

とても辛かった……



私が辿ってきた道。

これは私の宝だ!






気に入っていただけましたら、よかったらサポートをよろしくお願いいたします!✨あなたと気持ちを共有できたら嬉しいです💕