夏休みが終わって一週間が経とうとしていた。もはや夏休みは終わったのだ。それなのに、がなる太陽がうるさかった。そんな日だった。 帰りの会も終わり、さてそろそろと、ランドセルをつかんだぼくを、先生が呼んだ。 「ちょっとお願いしたいことあるのよ。堀北君へね、届けてほしいものがあるの」 先生は横目で堀北の席を見ながら言った。ぼくも何となく堀北の席を見た。堀北は二学期が始まってから、まだ一度も学校へ来ていなかった。 「堀北って……病気ですか?」 「うーん……あんまり眠れないみたいな
私たちの声と言葉は辿り着く場所を知らず、風に乗って消えていく。 「昨日のラジオ聴いた?」 「聴いた。聴いた」 私は彼女を見ていた。 彼女は気に入った新聞の写真を切り取って自由帳に貼っていた。 その日は白い袋状の何かにすっぽり包まれた仔猫の写真だった。 「ハリケーンが去ったあとに路地で保護されたんだって。迷い猫」 「どうして白い袋に入ってるの?」 「袋じゃないよ。靴下」 「え」 「誰かの靴下の片方を前足が外に出るように、その部分だけ1センチずつ穴を開けたって」 「ほ
私たちの声と言葉は辿り着く場所を知らず、風に乗って消えていく。 「昨日のラジオ聴いた?」 「聴いた。聴いた」 私は彼女を見ていた。 私たちが下校途中に寄り道する公園がある。 公園には子どもの遊具にも椅子にもなる動物の形をした造形物がある。パンダと白鳥とペガサ ス。水色の、なぜか水色のペガサス。 ペガサスはいつも空いている。 パンダと白鳥は誰かが座っていたり、小さな帽子が置かれていたりする。きっと使用頻度が多いのだろう。パンダの耳の辺りや白鳥の羽の辺りのペンキが少し剥げてい
私たちの声と言葉は辿り着く場所を知らず、風に乗って消えていく。 「昨日のラジオ聴いた?」 「聴いた。聴いた」 私は彼女を見ていた。 「治癒していく傷をさ、観察するの好き」 「ちゆ?」 「そう。これ見て」 彼女が制服のシャツを引っ張って私に見せた。おっぱいの上部に紅い島の形をした痕が広がっ ていた。親指の爪ほどの大きさにえぐれてる部分もある。 「はひ」 私は彼女を見た。 「ひひひ。火傷をね。してね。けど、だいぶ治癒してきた」 彼女は満足そうにシャツを整えると toi
彼女と初めてした会話をとてもよく憶えている。 私は美術室でパレットを洗っていた。水しぶきが飛ばないように静かに水をパレットへ落とす。 パレットの上で赤色と紫色が混ざった。 何かに似ている。そう思ったとき 「生理の血みたい」 彼女の声がそばで聞こえた。 「それだ」 私が答えると、ハハハと彼女が笑った。 彼女は低めの乾いた声色でハハハと笑う。 昼休みにC組のベランダを覗くと彼女が一人でチョココロネを食べていた。 私はさらりと彼女に近づく。 私たちの声と言葉は辿り着く場所を知
私は長いトンネルを通って家へ帰る。 今、あなたの頭に浮かんだトンネルの長さよりも長めのトンネルを通って家へ帰る。トンネルの中はいつもひんやりだ。外の音も遮断されてぞわりと静かだ。トンネルの先の先の先に丸い外が見える。丸い外は葉っぱや草の緑色。だから丸い外からトンネルを抜ける風は濃い緑色の匂いがする。葉っぱの匂い。草の匂い。それは過去を連れてくる。淡い過去を含んだ風が私のほっぺたに、おでこに、首にぶつかる。 幼かった私は自分のことを「まあちゃん」と呼んでいた。迷うこと
ゾンビちゃんには、名札に印字された立派な名前があったけれど、墓場でばかり遊ぶものだから、みんなからは「ゾンビちゃん」と呼ばれていた。 ゾンビちゃんは、そう呼ばれるのを気に入っていた。私にぴったりだし、クールだ。と思った。 ゾンビちゃんのパパはお花屋さんだった。お花は生きてるから、大切に大切に育てていても、なよなよなよと、しおれてしまう日がくる。ゾンビちゃんは、そうしたお花たちをそーっと、そーっと、束にして、淡い桃色のリボンで花束を作った。そして、それを両手で抱えると、
百菓日記 ママの日記帳を見つけた。 チョコレートの箱を開けたら『真希日記』と表紙に書いてあるノートが十三冊入っていた。カラフルな秘密の匂いがした。 『真希』の名がママのことだと気づくのに数秒かかった。 今日は大晦日で朝っぱらから大そうじをしていた。ママは「常連客のみなさんはいつも通りに来るはず」と言って、『喫茶店おはぎ』を開いていた。 おばあちゃんが始めた『喫茶店おはぎ』の二代目の主人がママで、ママは『喫茶店おはぎ』をこよなく愛していた。パパは私が生まれたときか
サタースウェイト氏 七月十九日、こわいくらいの入道雲。 明日から夏休み。 怠け者の私だけど、夏休み中は毎日読書部だ。だって、私は部長で副部長で鍵長だから。 図書室にひとりは広すぎるなー。 夏休みの始まる朝。読書部に行く前にママの喫茶店の開店準備を手伝おうと、真希は裏戸を開けた。そのすぐそばに、緑色の眼をした猫がいた。 メタリックな灰色の毛をまとい、猫は真希を見据える。 真希も負けじと見据え返しながら、頭の中で連想した。はしごを登るような感覚で、昨日読み終わっ
自動販売機の妖精 旧校舎は、ひんやりと不気味で、真希はそれが気に入った。 中学生になって早一か月。ぶかぶかな制服は、まだ身体に馴染んでいなかった。 真希は不純な動機で、読書部に入部した。 五月八日、空が蒼い。 今日も読書部。アガサ・クリスティーの『スリーピング・マーダー』読む。 それにしても、他の部員を見ないから、読書部って三人だけなのか。堀北先輩が部長で、木村先輩が副部長で、私は鍵長。戸じまりが鍵長の仕事だって。堀北先輩は、だいたいいつも眠ってる。ぶ厚い『
お正月と赤飯 十二月三十日、空気冷え冷え。 年賀状を書き終えた。十二月に入ったら書こうって思ってた。冬休みが始まったら書こうって思ってた。クリスマスまでには書こうって思ってた。思い通りにいかないことって、いっぱい。 もうひとつ、ふたつ、眠ると、お正月だった。 真希は顔が出せる分だけ窓を開けると、冬の空気が満ちている外へ思い切りよく頭を突っ込んだ。ほっぺたを冬が触っていく。真希は目を閉じた。耳にしんしんしんと冬が聞こえる。おでこがカチンコチンになるまで待って、頭を部
おいていかないで 六月九日、曇り。 家庭科でエプロンを作った。水色生地に白色の水玉。ママにあげた。そうしたら、ママの目がうるうるうるってしてきて、焦っちゃった。 エプロン作った生地の余りで、猫を作った。手の大きさの猫。綿詰めて、ふわふわの猫にしようと思ったけど、給食の時間になって、平べったいままの猫ができた。キラキラの金色の目玉にした。何が映っても、キラキラに映ると思ったから。 オレは水色と白色の水玉猫。クールな猫だ。体は平べったくて、八センチ。キラキラ金色の目玉
ぱすんっ。カセットテープが終わりを告げた。 汐里は布団から片手だけ伸ばし、カセットテープをひっくり返すと『聞く』のボタンを押した。夜の深海をカヒミ カリィの声がきらきら泳ぐ。今夜、同じ動作を七度くり返していた。汐里の冴えた頭が計算する。片面三十分のカセットテープだから……あー、三時間半寝返りばかりしてるのか。 充血色した月の下。いっそ起きてしまった方がいいような気もする。いや、昨夜そうしたんだ。そしてそのまま朝が来るのを待っていたのだ。汐里は眼に突き刺さるような眩しい朝
始まりの夜明け 十二月、年暮れて。年明けて、一月、二月。冬がうるさくない目覚まし時計のように、春を起こそうとしている。でも、まだまだ春は眠いみたい。 夕暮れの空と夜明けの空は、色が似ている一瞬がある。空が淡い淡いピンク色に染まる時。淡いピンク色は長くとどまることがないから、淡いピンク色の空は私をうれしくさせる。 手袋した手をコートのポケットに突っ込んで学校へ向かう。冬の道はどこか少し早足になる。 教室へ入ると、後ろにあるストーブへと近づく。そこに後藤の丸めた
青春を眺める 昨日の夜の彼の言葉が頭の中でこだましてる。 「ぼくのアイドルは君だけだ。これから先も君だけだ。だから結婚してほしい」 彼はそう言った。 昨日の夜もいつもと変わらない夜だった。テストの採点やらなんやらで、学校を出たらレモン色の月明かりが夜を照らしていた。私は当たり前の日常のように、彼の『パン屋大福』へ向かった。 彼は奥のキッチンで、カフェオレを飲みながら本を片手に私を待っていた。毎晩、そうして待っていてくれる。 私がキッチンへ入っていくと、甘いホット
知らないでいて 美術室の窓からレモン色の月を見ていた。 もう、夜なのか。 美術室には私ひとりだった。そういえば「黒木さん、鍵よろしくー」って、先輩に言われたような。 絵を描いてると時間が速く速く過ぎていく。画用紙に好きなように広げた妄想の世界へ絵の具で色を落としていく。心が静まる気がする。潜水艦で海の底、深く深く沈んでいく感覚に包まれる。潜水艦も、海の底も、知らないけど。 美術室の窓の外は夜色。冷たくて美味しそうなレモン色の月が私を見下ろしていた。 日曜の朝は