むらさきうさぎ
夏休みが終わって一週間が経とうとしていた。もはや夏休みは終わったのだ。それなのに、がなる太陽がうるさかった。そんな日だった。
帰りの会も終わり、さてそろそろと、ランドセルをつかんだぼくを、先生が呼んだ。
「ちょっとお願いしたいことあるのよ。堀北君へね、届けてほしいものがあるの」
先生は横目で堀北の席を見ながら言った。ぼくも何となく堀北の席を見た。堀北は二学期が始まってから、まだ一度も学校へ来ていなかった。
「堀北って……病気ですか?」
「うーん……あんまり眠れないみたいなのね。昨日、先生会いに行ったんだけど目の下のクマがひどいのよ。体も少しだるそうだったけど、話すとね、いつもの堀北君で。少しホッとしたけれど」
眠れない病気か。
それから先生は「仲良しの浅井君にぜひ会いに行ってほしいのよ」と言って、算数のプリントと給食のプリンをぼくに渡した。
堀北とぼくはまあまあ一緒にいるから、先生は仲良しと思ったのかな。仲いいけどさ。なんだか少し、くすぐったい感じがした。
がなる太陽がまだうるさかった。もう夏休みは終わったというのに。
堀北の家の前まで来たら、声が上から降ってきた。
「あれー浅井?上がって来いよー」
堀北が二階の窓から両手をゆっくり振っていた。
なんだ、元気そうじゃないか。
「お母さん買い物行ってるけど、たぶん玄関開いてるー」
玄関は半開きだった。ぼくは階段をみしみし、廊下をみしみし、堀北の部屋へ入った。
「お。プリンじゃーん」
堀北は目の下のむらさき色したクマ以外、堀北だった。
「もう夏休みは終わったぜー」
ぼくはベッドの下ら辺に座りながら言った。
「あー」
堀北は好物のはずのプリンをただじぃっと見つめながら「あー」と、もう一度言った。
ぼくは堀北が大人に見えて、少し心配になった。
「飯、ちゃんと食ってるの?」
「あー、ごはんにみそ汁ぶっかけたやつ。そればっかり食ってる。美味いし」
大きな風が吹いて、堀北の部屋にも入り込み、ぼくの耳元でぶわっと言った。がなる太陽が遠のく。
「おれ、あんまり眠れないんだ」
堀北がプリンを見つめながら言った。
「夏休みにさー、墓参り行ったんだ。じいちゃんとばあちゃんの。毎年行ってるんだけど。……その夜さー、眠ろうとしたとき、急に思ったんだ。……死んだら、どうなるのかなって」
堀北が渋い顔でプリンを見つめている。
「じいちゃんとばあちゃんは焼かれて骨になって墓の下に埋まっている。それはわかってるんだけど……。それで終わりなのかなって。じいちゃんもばあちゃんも、もう何も思わないのかなって。……わかる?」
ぼくは、よくわからなかったけれど「うん」
って言った。
堀北は、プリンからぼくを見て「そっか」と言うと、少し笑った。ぼくは、堀北のむらさき色したクマが早く消えるといいな、と思った。
あんなに派手なパラソルなのに、なぜ気づかなかったのだろう。
堀北家からの帰り道、いつもと同じように空き地の前を通った。空き地の隅に派手なパラソルが咲いている。行きも通ったのに全く気づかなかった。
派手なパラソルの下に、真っ白くて大きな看板があり、金色のペンキで『いろいろあるよ』と太く書いてあった。よくよく見ると、浴衣姿で背の高い男の人がいた。直立不動だ。見るからに怪しい。夏の夕暮れに似合いすぎるだろう。
大きな風が吹いて、ぼくの耳元でまたぶわっと言った。ぼくを派手なパラソルへと連れていく。派手なパラソルへ近づいても近づいても、背が高すぎるのか、男の人の顔は派手なパラソルに隠れてあまり見えなかった。
とうとう派手なパラソルの下まで来た。テーブルの上には五角形の大きな箱があった。つま先立ちして覗く。
「あっ」
うさぎがいた。八匹くらい。男の人が低い静かな声で言う。
「いろいろあるよ」
確かに。確かに、色色いた。白色、黒色、青色、黄色、桃色、水色、金色、むらさき色……初めて見た。こんな色んな色うさぎ。みんな小っこい。みんなぷるぷるぷる震えていた。
「六十円だよ」
男の人が低い静かな声で言う。
「いかが?」
ぼくはランドセルの内ポッケを探った。全部で八十二円。みんな買ってあげたいけど、ぼくのランドセルの内ポッケには八十二円ぽっちしかなかった。みんな買ってあげたかったけれど。
ぼくは、またつま先立ちして箱を覗いた。みんなぷるぷるぷる震えている。隅っこにむらさき色のがいた。ぼくに尻を向けて、みんなと同じようにぷるぷるぷる震えている。ぼくの頭の中に堀北のむらさき色したクマが浮かんだ。
「むらさき色のにする」
ぼくは宣言すると、男の人に六十円渡した。そして、そっとそっと、むらさきうさぎを両手に乗っけた。
むらさきうさぎは、ぼくの両手の上でぷるぷるぷる震えた。ぼくに尻を見せながらぷるぷるぷる震えた。
庭先にむらさきうさぎをそっと座らせて、ぼくはその後ろに立ち、夏の夕暮れの空気を腹いっぱい吸い込んだ。やはり、まだまだ夏の匂いがするなと思った。ぼくが夏休みにすいかの種をあちらこちらに埋めたものだから、あっちにもこっちにもすいかのツルが気ままに伸びていた。
ぼくは少し考えて、すいかのツルやタンポポの葉っぱで一番青青として一番柔らかそうな辺りを選び、畳一畳分をママの育ててるアサガオの鉢で囲った。そして真ん中にむらさきうさぎをそっと座らせた。むらさきうさぎの家が完成した。
むらさきうさぎはぷるぷるぷる震えて、ぼくに尻を見せると、ぺんっと不器用に跳ねた。
何か食べさせなくっちゃ。
うさぎと言えばニンジンか。セロリも食べるかな。冷蔵庫を物色していると
「悠君……あのむらさき色した、まん丸は何なの?」
買い物カゴを下げたまま、ちょっぴりひきつった顔してママが言った。
「えっと……うさぎだよ。むらさきうさぎ」
「……そうね。それは見ればわかるわよ。ママが言いたいのはつまり、なぜママのアサガオに囲まれてうさぎがどてんっとしてるのかってことよ。いや、それよりも、むらさき色って……ママ初めて見たわよ」
「六十円で買ったんだ。色色いたんだけど、ぼく八十二円しか持ってなくて、むらさきのにしたんだ」
「色色ね……」
「ぼく、大切にするよ。むらさきうさぎ大切にする」
ママは少しの間ぐっとぼくを見て、それからふわっと笑った。
「ま、いいわ。でもちゃんと大切にするのよ。もう六年生なんだから自分で始めたことには責任持ちなさいよ」
「うん」
大切にするんだ。ぼく、むらさきうさぎを大切に育てるんだ。ドキドキしてワクワクした。
ママがくれたおやつのポッキーと細く切ったニンジンとセロリを持って庭に出た。夕暮れ色も濃くなり、もうしぼんでしまったアサガオを小っこいむらさきうさぎが見上げていた。びっくりさせないように静かに静かに近づいて、静かにしゃがんだ。むらさきうさぎはぼくに尻を見せたまま、ちろっとぼくを見た。
「ごはんだよ」
ニンジンをあげてみた。むらさきうさぎは鼻をぴとっとくっつけると、突如ポキポキ食べ始めた。前歯を上手に使っている。セロリもあげてみた。また鼻をぴとっとくっつけてからポキポキ食べ始めたけれど、三口目でぺんっと跳ねてぼくを見た。セロリをやめて、またニンジンをあげた。
ぼくは左手でニンジンをあげながら右手でポッキーを食べていた。すると小気味よくニンジンをポキポキ食べていたむらさきうさぎが、ぼくのポッキーをじっと見つめている。気のせいだろう……と、そのまま食べていたけれど、むらさきうさぎはしつこくしつこくぼくのポッキーを見つめている。
ぼくは食べる手を休めて、右左上下とポッキーを振ってみた。ぼくが指揮してるかのように、むらさきうさぎの顔が右左上下と動いた。
「食べたいの?」
ムシ歯になっちゃうんじゃないかな。ぼくは迷った。むらさきうさぎは一心にポッキーを見つめている。ちょっとコワイ。
「……三本だけだよ」
むらさきうさぎはものすごい勢いでポッキー三本食べ終わると、上機嫌でぺんっと跳ねた。
どうかムシ歯になりませんように。
いつだって、ぼくの味方でいてくれるパパが
「ま、悠ならちゃんと育てられるだろう」
と言って、むらさきうさぎは家族になった。
「むらさき色したうさぎなんて初めて見たな」
「他にも色んな色のがいたって、悠君言ってたわよ」
「新種か……もしくは、カラースプレーか」
「色塗ってたとしたら、残酷だわね」
ママの「残酷だわね」が耳に残り、みんなでぷるぷるぷる震えていた色色うさぎたちを思い出した。夜になったらみんなでぷるぷる眠るのだろうか。
暗くなった庭に出ると、月明かりに包まれて、閉じたアサガオに囲まれて、ぼくには尻を見せて、むらさきうさぎは眠っているようだった。もうぷるぷるしていなかった。
堀北は今夜も眠れないのだろうか。
朝、登校前に細切りニンジンを持って庭に出た。朝顔時間、アサガオはキラリキラリめいっぱい花を咲かせている。輝きまくるアサガオをむらさきうさぎは、ぽーっとうっとり見つめていた。
あげたニンジンを小気味よく完食。大きくなれよ。
堀北は今日も学校を休んだ。その空席を見てたら、花火したいなーって、ふつふつと思った。
届け物は何もなかったけど、帰り道、堀北の家へ行った。
目の下のクマはパワーアップしていた。堀北は少しだるそうにして、派手な花火はないと言った。
「せんこう花火ならあると思う」
「……ま、いっか。今日ぼくの家に泊まりに来なよ。せんこう花火持って」
「んー、あー」
堀北は頭が重いって言った。「きっと考えすぎてるんだ」って、また大人顔した。
堀北のお母さんは、ぼくのママと電話で話し合ってから、おにぎりをたくさん作ってくれた。そして、おにぎりとせんこう花火とレジャーシートを堀北に持たせると、ぼくに「よろしくね」と言った。
ぼくの家へ向かう途中、あの空き地の前を通った。堀北の家へ行くときも通ったから、派手なパラソルがないってこと知ってたけど横目でもう一度確かめた。影も形もない。もちろん色色うさぎたちも。なんか、どっかに消えちゃったって感じがした。
夜は夏休みの続きをしてるみたいで、楽しかった。二人でむらさきうさぎと遊んで、二人でおにぎりを食べて、ごはん粒をちょびっとむらさきうさぎにもあげた。
せんこう花火は湿ってなくて、キラキラパチパチはじけた。むらさきうさぎは、ぽーっとうっとり見つめていた。
堀北もいつもみたいにくだらなくて最高のこと言って、二人でうひゃうひゃ笑った。
レジャーシートの上に寝転がって、星星星な夜の空をずっと見ていた。夜の空は広くて深くて、とてつもなく大きかった。ぼくらはちっぽけで、その真実が心地よかった。夜の空は星がキラキラして暗い闇ではなかった。夏の匂いも美味しい。ぼくも堀北もいっぱい深呼吸した。
「死んだらさ星になるとか言うけど……もしそうならさ、もっともっと星だらけだと思う」
と堀北が言った。二人でああだ、こうだ、と話し合った末
「生まれ変わるとき、流れ星になって消えるのだろう」
ってことにした。謎は謎のままだったけど、ぼくらはもう眠かった。腹冷えしないように部屋にあったタオルケットを持って庭に戻ると、堀北は眠っていた。右手をむらさきうさぎに踏まれたまま堀北は眠っていた。半笑い顔で眠っていた。
むらさきうさぎは、ぼくの日常になっていった。ごはんあげたり、寝床のタオル替えたり、アサガオに水やったり。むらさきうさぎもすくすく育って、アサガオにうっとりしたり、しゃぼん玉にうっとりしたり、ママのおしゃべり相手になったりした。
ただちょっと、ちょっとだけ気になることがあった。いや、気にしないではいられない。むらさきうさぎが大きくなるにつれて、体のむらさき色がまだらになってきたのだ。むらさき色の毛と、白っぽい毛が半分半分混ざり合っている感じだった。
「キモッ……カワイイけど」
って、ママは不気味がったけど、そのうちむらさき色に変わるだろうとぼくは思うことにした。あー、きっと。
秋風そよそよの季節になった。花火の夜以来、少しずつ眠れるようになって、今では絶好調の堀北は、むらさきうさぎを見る度に
「こいつ、デブってきてないか?」
と言った。
「……大きくなったんだよ」
とぼく。
むらさきうさぎは、もはや、むらさきうさぎではなかった。白っぽい毛が半分以上になり、むらさき色の毛は尻の方と耳の裏にちょびちょびあるだけだった。
ぼくの手の上でぷるぷる震えていたむらさきうさぎは、両手で抱き上げるとぼくの腕がぷるぷるするほど重くなっていた。もしや、もしや、時たまあげてしまったポッキーのせいだろうか。
そんなむらさきうさぎは、ぼくら家族と堀北に、不気味がられながらも可愛がられて、その日その日を過ごしていた。
むらさきうさぎが雲をぼんやり見上げている。
何を想う、むらさきうさぎよ。
自分が小っこかったこと憶えているのかな。
色色うさぎたちと離れて淋しいのかな。
むらさき色の毛が今はちょびちょびだって、わかっているのかな。
むらさきうさぎは何も言わない。
ぼくがしゃぼん玉を作ると、むらさきうさぎはぽーっとうっとり見つめる。それを見るとぼくは、うれしくなるんだ。
明日から冬休みで、それはそれは素敵な夜。外は底冷え。雪が舞っていた。
玄関に置いたダンボールにタオルを敷き詰めて寝床を作り、むらさきうさぎを避難させた。ぼくは腹冷えしないように、腹巻きをして眠った。
ハラリハラリと雪は舞い、シンシンシンと静かに積もっていく。
冬休み初日の朝、庭は真っ白一色になっていた。空からの光を反射してキラキラキラキラ眩しい。ホットケーキを三枚たいらげて、長靴をはきながら、むらさきうさぎの様子を見た。まだタオルに抱かれて眠っている。尻に顔が埋もれている。
外はギンギンに白銀の世界だった。いつもと同じ景色のはずなのに、まるで違うみたい。庭は分厚くないけれどふわふわな雪が積もっていた。真っすぐ足を突っ込むと、ぼふっと音がする。雪男のでかい足跡を作っていると、堀北が遊びに来た。二人で足跡を完成させてから、雪うさぎをいっぱいいっぱい作った。むらさきうさぎを真ん中に座らせると、雪うさぎたちに囲まれてぺんっと跳ねた。それから、かまくらも作った。ほんとは二人が入れるくらい大きいのを作りたかったけれど、屋根の雪を集めても足りず、腰より低めのぶかっこうで小ぢんまりしたかまくらが完成した。
指がキーンキーンとしてきた。見ると指先が赤くなって感覚も変だった。腹も減ったし、ポッキー食べながらオセロ大会しようぜってことになった。家に入る時、何気なく庭を見ると、できたてのかまくらの穴に、どでんっとむらさきうさぎの尻があった。圧倒的な真っ白にちょびちょびのむらさき色。大きくなったな。
「ほら!ほら!ポッキーばかり食べてないで。オムライス作ったわよ」
ぼくらはオセロを休戦して、台所へ行った。ママのオムライスを食べながら、時計を見ると午後の一時を指していた。
「……三時間もオセロしてたね」
「時間忘れるよな、オセロしてると」
オムライスにケチャップでオセロって書いてたら
「あっ、むらさきうさぎにごはんあげてない」
って気づいた。いつもは朝にごはんあげるのに、今朝は眠りこけるむらさきうさぎをそのままにしちゃって、すっかり忘れていた。オムライス食べる前にごはんをあげに行こう。
「好物のポッキーあげよう」
「俺も行く」
ポッキー片手に庭へ出ると、太陽にてらりてらり照らされて、ふわふわ雪はしゃりしゃり雪に変身していた。いっぱいいっぱい作った雪うさぎたちを踏まないようにして、むらさきうさぎを呼ぶ。
「むらさきうさぎー」
「ポッキーだぞー」
なんで、なんで、いつもみたいにぺんっぺんっと跳ねて出て来ないんだろう。
「むらさきうさぎー」
イヤな……イヤな予感がした。ぼくの頭に三時間前の光景が浮かんだ。かまくらの穴に、どでんっとむらさきうさぎの尻。ちょびちょびのむらさき色の毛。
「あー、かまくらが山になってる」
堀北の声が少し遠くから聞こえた。ぼくらのかまくらは穴が塞がれて山になっていた。
ぼくは、かまくら山に近づいた。水の中を歩いてるみたいにもどかしく、やっと辿り着くと、かまくら山を手で崩していった。
「あっ」
すぐにちょびちょびのむらさき色が見えた。急いで雪をかき出して、むらさきうさぎを抱きあげた。ごわごわのむらさきうさぎの毛。かちんこちんのむらさきうさぎの耳。
「あっ!あー!タオル、タオル。家入れようぜ」
堀北がぼくを引っぱるようにして台所まで連れて行ってくれた。ぼくはむらさきうさぎを抱きしめていた。温かくなって。温かくなって。
ママが何か叫んで、ブランケットを持ってきてくれた。動物病院へ電話している声もする。ぼくの目は、まだ食べずにいたオムライスをぼんやり見ていた。
オムライスにケチャップで書いたオセロって文字がたらぁっとしている。血みたいだ……涙みたいだ……。
むらさきうさぎは死んだ。
もうポッキーを食べることもない。もうぺんって跳ねることもない。もうぼくに尻を見せることも、ないんだ。
ぼくと堀北でお墓を作った。アサガオの近くに埋めた。夏になったら、またうっとりできるよ。
ぼくは泣くかなって思ったけど、涙は出なかった。
小学校に入学したばかりの頃、ロシア人の男の子がぼくのクラスに転入してきた。名前が長くて、むつかしい発音で、ぼくたちは「ロアン」と愛称で呼んでいた。名前の中に「ロアン」が含まれていたのか、単にロシアから来たから「ロアン」にしたのかは忘れたけど、ロアンはぼくの前の席になって、ぼくらは少しずつ友だちになった。
ロアンの描く絵は、ちょっこし風変わりだった。太陽がピロシキの形をしていたり、雨粒が葉っぱの形でむらさき色や赤色やオレンジ色のカラフルな雨粒だったりした。
夏休みが終わる前にロアンは転校して行った。半年よりも短いぼくの友だち。ぼくは、さようならも言えなかった。夏休みにぼくの家へ遊びにきたロアンは、ピエロの人形を忘れて帰った。ロアンはピエロをおいてけぼりにして行ってしまった。
スイッチを押すと首を振って歌うピエロだった。三角帽子がだらりとして情けない顔をしていた。ぼくは眠る前にスイッチを押して、首を振り振り歌うピエロが好きだった。
そんなある夜、スイッチを押してもピエロは首を振らなくなった。歌わなくなった。もう、動かなかった。
むらさきうさぎが死んで、ぼくはそのピエロみたいになった。
学校へ行くし、ごはんも食べるし、堀北と遊んで笑ったりするけれど、なんだか、どこか、空っぽだった。
冬が去って、春が始まり、流れ、またアサガオの季節がやってきた。漂うようにぼくはその日その日を過ごした。長い時間、眠っても変てこな夢を見て、浅い眠りの日が続いた。
夢うつつで起きたある朝。窓から顔だけにょきっと出すと、新しい朝が始まったばかりで、太陽がプラム色の光を放っていた。パジャマのまま庭に出て、なるたけ見ないようにしていたアサガオの鉢の近くへ行ってみた。
彫刻刀で『むらさきうさぎのはか』と彫った板が、アサガオの鉢に半ば寄りかかって、こんもりした土に刺さっていた。
ママのじょうろでアサガオたちに水をあげていく。うっすらと消えそうな小さい虹がやわらかく現れた。
ひとつのアサガオが目に止まった。潔いむらさき色の花弁の真ん中に白色の線がスーっと走っている。まだらになり始めたむらさきうさぎのどでんとした尻が、ぼくの目の前をぺんっと跳ねた。
むらさきうさぎは、ぼくのまぶたの裏にいる。ここにいる。
ぼくは、おかしくて、淋しくて、うれしくて、笑った。ほんの少し泣いて、また笑った。
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