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アイドルのみぞ知る③

青春を眺める

 昨日の夜の彼の言葉が頭の中でこだましてる。
「ぼくのアイドルは君だけだ。これから先も君だけだ。だから結婚してほしい」
 彼はそう言った。

 昨日の夜もいつもと変わらない夜だった。テストの採点やらなんやらで、学校を出たらレモン色の月明かりが夜を照らしていた。私は当たり前の日常のように、彼の『パン屋大福』へ向かった。
 彼は奥のキッチンで、カフェオレを飲みながら本を片手に私を待っていた。毎晩、そうして待っていてくれる。
 私がキッチンへ入っていくと、甘いホットココアと大福の形をしたパンを五つ、オーブンの中から出してくれる。
 見た目はみんな同じ大福のパン。どんな味かしら。私は楽しみながらホットココアとほおばる。五つ全部は食べきれなくて、二つか三つは朝食用に持ち帰る。
 彼の焼いたパンが私の夕食や朝食になったのは、いつの頃からだろう。

 『パン屋大福』の奥のキッチンで、彼が毎日パン生地をこねる台を食卓にして、色んなことをおしゃべりしたり、二人して黙っていたりする時間が私はたまらなく好きだ。
 『パン屋大福』の清潔なキッチン。彼と私。彼のカフェオレと私のホットココア。丸っこい大福のパン。しあわせの材料がそろっているような気がする。

 昨日の夜もいつもと同じだった。全部がそろっていて、私は生徒のことを話していた。
「アイドルのコンサートに行きたいから三日間休みますって、欠席届を渡されたのよ。あまりに正直すぎる理由で笑ってしまって。そうしたら、先生笑いごとじゃないんです!って。取れたのが奇跡のチケットなんです!って。あの子のあんなに真剣な顔、初めて見たわ。きっと大好きな大好きなアイドルなのね」
「ハハハ。大好きなアイドルかぁ」
 彼は笑って、カフェオレを飲み干すと、私の目を真っすぐに見つめて、言った。
「ぼくのアイドルは君だけだ。これから先も君だけだ。だから結婚してほしい」

 彼の言葉が頭の中でこだましてる。
 正確に、私は何て答えただろう。彼に真っすぐ見つめられて。
 私は戸惑った。突然すぎて。私は戸惑って、ホットココアをがぶ飲みして、のどを火傷した。それで何も答えられず、そのまま急ぐように帰ってしまった。
 私は戸惑った。ただ戸惑っただけなのよ。
 今も火傷したのどがヒリリヒリリと、痛い。

 夜が明けて、無造作に束ねた髪の中に銀色の白髪を一本見つけた。慎重に抜いた銀色の白髪をつまみながら、戸惑った自分を恥じた。待っていた言葉のはずだった。なぜ、何も言わず帰ったのか。
 彼は、どう思っただろう。

 眩しいほどの朝日を浴びて、出席簿を抱きしめたまま、とぼとぼ廊下を歩いていた。教室を入る前にシャンっとしなくてはいけない。『前田先生』の顔にならなくては。
 窓枠に近いガラスがキラキラ光っている。目を凝らすと、雪の結晶のようなものがはりついていた。それは冬の空気の寒さと太陽の熱が作り出した小さな小さな宝石だった。

 教室に入ると、にぎやかなざわめきが少し低くなる。
「おはようございます。席、着いてー」
 朝のあいさつを放ちながら、のどのヒリヒリを意識した。
 教室の後ろにあるストーブの前に、生徒二人の丸めた背中が見えた。
 後藤君と黒木さんか。めずらしい組み合わせだこと……。
 後藤君も黒木さんも、全く同じ姿勢でいた。背中を丸めて。両手をストーブにかざしている。なんだか、何て言うか、そう、長年連れ添った夫婦みたいに。『夫婦』って単語が、昨日までとは違う語感で、私のおなかの辺りにトクンっと落ちた。

 その日の授業は、どうにも身が入らなかった。
 情けない。
 窓の外はシンシンと冬の寒さでも、太陽のやわらかな光は教室の端っこまで届き、それにストーブの熱も加わり、教室は眠るのにほど好い温度で満たされていた。できるなら、授業をほったらかして眠ってしまいたい。
 静けさが漂う教室で、何かがキランっと光った。視線が追う。
 あっ。後藤君たら、また黒木さんに見とれて。
 後藤君が黒木さんをいつもそっと見つめていることは、とうに気づいていた。教壇からは丸見えだし、後藤君のめがねが太陽の光にキランっと反射するので、何となく目が行ってしまい、その度に黒木さんを見つめる後藤君がいた。
 たいして気にはならなかった。頭の隅で、後藤君好みの女の子なのだろう、と思う程度で。
 でも、今日は妙に気になった。後藤君の黒木さんを一心に見つめる目が気になって仕方なかった。黒木さんがふり返らないのが不思議なほど、その視線は熱烈だった。
 めがねのレンズをキランっとさせて、後藤君は黒木さんをそっと見つめる。ノートを取るふりをして、後藤君は黒木さんをそっと見つめる。黒板を見るふりをして、後藤君は黒木さんをそっと見つめる。まるで、うっとりアイドルを見つめるような真っすぐさで。
「ぼくのアイドルは君だけだ。これから先も君だけだ。だから結婚してほしい」
 彼の言葉が頭の中でスローにこだました。

 何を不安がるの?
 何を恐がるの?
 しあわせの作り方、教えてくれたのは、彼なのに。
 生徒たちの顔がじわりと滲んで、とっさに黒板へ顔を向けた。
 チョークを持って、そしてチョークを置いた。
 今夜、彼を真っすぐ見つめて告白しよう。「私のアイドルもあなただけよ」と告白しよう。なんだか、待ち遠しい。授業が終わったら電話しようか。

 ほぅー。っと決心して、生徒たちへ顔を向けた。
 後藤君が黒木さんを見つめている。私は、キラキラ淡い青春を眺めた。
 ほろほろと、幼くて切なかった私の青春がまぶたの裏をほろ苦くよぎった。


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