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チャンチャンコと土手と

 私は長いトンネルを通って家へ帰る。

 今、あなたの頭に浮かんだトンネルの長さよりも長めのトンネルを通って家へ帰る。トンネルの中はいつもひんやりだ。外の音も遮断されてぞわりと静かだ。トンネルの先の先の先に丸い外が見える。丸い外は葉っぱや草の緑色。だから丸い外からトンネルを抜ける風は濃い緑色の匂いがする。葉っぱの匂い。草の匂い。それは過去を連れてくる。淡い過去を含んだ風が私のほっぺたに、おでこに、首にぶつかる。

 幼かった私は自分のことを「まあちゃん」と呼んでいた。迷うことを知らなかった。そしてとても『魔女の子キーラ』に夢中だった。



 『魔女の子キーラ』は色んなことを教えてくれる。しゃっくりの止め方やマッチ棒の赤色の謎、ひこうき雲の落とし物も。


 みっちゃんとまあちゃんは『魔女の子キーラ』が大のお気に入り。保育園から帰ると、おやつを真ん中に置いて、テレビの真ん前にぺたんと座った。

「もっとテレビから離れて見ないと目がちりちりしちゃうよ」

 おばあちゃんに言われて、みっちゃんとまあちゃんはおしり半分だけスンと離れた。

 おやつのたい焼きを食べながら、『魔女の子キーラ』を見つめる時間、みっちゃんとまあちゃんのほっぺたと胸はドキドキドキドキ忙しい。なるべく、まばたきもしないようにまぶたをヒタっとさせなくちゃ。

 『魔女の子キーラ』が終わるとみっちゃんはうっとりと二つ下の妹、まあちゃんに言った。

「四つ葉のクローバーはシアワセのしるしだって」

 まあちゃんはたい焼きをむぎゅっとした。

「シアワセって、なあに?」

 みっちゃんはハタっとなって、まあちゃんのたい焼きをハラリと見つめた。まつげをタジタジとさせると、生まれて早五年の人生に、みっちゃんのシアワセを浮かべ、答えを探した。

「んーと、そう…まあちゃんはおはぎ大好きでしょ。まあちゃんのおやつがおはぎ百個だったら、どぉ?」

「うれしいのー」

「でしょ。それがシアワセよ」

 みっちゃんは大人っぽく言うと、あんこがぼそぼそついたまあちゃんの小さな手を台ふきんできれいに拭ってあげた。まあちゃんは、毎日着ているじゃじゃ丸のチョッキにもあんこがちょびっとついてしまったのをじっと見ていた。

「まあちゃん。四つ葉のクローバー探しに行く?」

「行くのー」

 まあちゃんはじゃじゃ丸のチョッキにあんこをつけたまま大胆に叫んだ。


 そろそろ太陽が夕暮れ色を作る時間。空の向こうが少しずつピンクオレンジに染まっていく。


「おばあちゃん。まあちゃんと土手に行ってくるー」

「行くのー」

 おばあちゃんはあれまって顔して

「チャンチャンコ着て行かなきゃ。おなかピーピーしちゃうよ」

と忠告した。

 みっちゃんとまあちゃんはチャンチャンコを着て外へ飛び出した。風がチャンチャンコをぶわっとからかう。みっちゃんはまあちゃんのチャンチャンコの紐をきゅっとした。足元を見るとまあちゃんはなぜか長靴をはいていたけれどみっちゃんはまあちゃんの好きにさせて、まあちゃんの手を握ると土手へ向かって歩き出した。


 土手は草の匂い。ピンクオレンジを映してキラキラな川面を風が走り、草を触ってさわさわと鳴らした。


 シロツメクサの初々しい白い花を目指して、まあちゃんのほっぺたを突くほど伸びた草たちを掻き分け掻き分け行くと、クローバーがみっしり生えていた。みっちゃんとまあちゃんはしゃがんで、クローバーの葉の数をひとつひとつ調べていった。

 深い深い空の深海では静かに夜色を作り始めている。土手に吹く風がそれを知らせるかのように、みっちゃんとまあちゃんのチャンチャンコをぼふっぼふっと触っていく。「早く帰りなさいな」「夜がやって来る前に」風がさわさわ教えてくれるけれど、みっちゃんとまあちゃんは気づかない。次に数えるのが四つ葉のクローバーかな。きっとそうだ。きっとそうだ。そんな期待でみっちゃんの頭はいっぱい。まあちゃんの頭はおはぎでいっぱい。


 刻々と夕暮れて、クローバーが見えにくくなってきた。みっちゃんのふくらはぎはジンジンとしびれている。前のめってしゃがんでいたので頭を上げると肩がコリコリした。みっちゃんはフゥーっとして土手を見渡すと、胸がきゅっと泣くのを感じた。


 いつのまに。いつのまに。こんなに暗くなったのだろう……。


 みっちゃんの親指と人差し指は深緑色に変色していた。どのクローバーを調べても三つ葉。三つ葉。三つ葉……。ピンクオレンジだった空も川も薄紫色に変身したのに、どのクローバーも三つ葉。三つ葉。三つ葉……。みっちゃんは今にも夜が来そうな空を見上げ、チャンチャンコの裾をむぎゅっとした。


 ほんの少し先に、まあちゃんのむっちりしたおしりと哀愁を帯びたチャンチャンコの丸い背中が見える。まあちゃんは夜が来ちゃうこわさなんかそっちのけで「ひとつ。ふたつ。みっつ。ひとつ。ふたつ。みっつ。ひとつ。ふたつ。みっつ」


 チャンチャンコに守られたまあちゃんの丸い背中を見ていたら、みっちゃんの目はジュワリジュワリ潤んだ。みっちゃんは、まあちゃんが目を真ん丸にするほど大きな大きな声で泣いてしまいたいと思った。でも、みっちゃんはスーーっと土手の風を吸い込むと、強く「まあちゃんっ」と呼んだ。


 まあちゃんは弾かれたようにスサっとふり向いた。左手にも右手にもクローバーをむぎゅっと握っていた。チャンチャンコのおなかの辺りに細長い草が不思議な形でくっついている。

 まあちゃんは目をしばしばさせて、みっちゃんに近づこうとフムンっと立った。途端に、長靴がジュルンっとして両手にクローバーを握りしめたまま、ぶざまにおでこから転んだ。少し遠くから学校のチャイムの音が届き、川に架かった線路の上を電車が走り抜けていく。

 あ。あ。時間が途切れる。


 まあちゃんは濃厚な草の匂いを体半面全部で感じながら、うつぶせたままでいた。みっちゃんは低く「あっ」と叫ぶと、抱くようにしてまあちゃんを起こした。まあちゃんはほっぺたやおでこに何かくっつけていたけれど、辺りはもう夜を待つばかりに暗く、あまりよく見えなかった。みっちゃんは自分のチャンチャンコでまあちゃんの顔をぱっぱっぱっぱっとしてあげた。不意にみっちゃんの目から涙が溢れてポロリポロリポロリポロリ土手一面のクローバーへと落ちていく。夜の雫に溶けていく。まあちゃんは目を真ん丸にさせて、クローバー色に染まった両手でみっちゃんのほっぺたをぺしぺし叩いた。


 二人は土手の中でとても小さい。

 二人は地球の中でとても小さい。

 土手は草の匂い。シロツメクサの白色が薄紫色にどこか色っぽく変身して、土手の夜を作っていた。一番星が宇宙よりもそばでキラキラキラキラみっちゃんとまあちゃんを見ていた。みっちゃんのほっぺたはまだ湿っている。みっちゃんは色んな言葉を飲み込んで、ひとつ選んだ。

「おなかすいたー」

「すいたー」

 まあちゃんはすこぶる元気になって長靴をぷしゅんぷしゅん鳴らしながらみっちゃんの手をいたいほどむぎゅっとした。


 エッサオイサエッサオイサと土手をのぼり、二人は夜ごはんを当てっこしながら家を目指した。みっちゃんの左手とまあちゃんの右手はむぎゅっとし合ってとても無敵な感じがした。おばけだってへっちゃらな感じがした。


 家の玄関の前へ辿り着くと、弱めの灯りの下でみっちゃんはなるべくまあちゃんのチャンチャンコにくっついた土やら草やらクローバーやらを落とそうとした。

「ほら。まあちゃんもチャンチャンコぱんぱんして」

 まあちゃんが自分のおなかを両手でぶったたくように、ぼすっぼすっぼすっとするとチャンチャンコの奥からよれよれのクローバーが大量にドゥバっと落ちた。予期せぬよれよれのクローバーの出現に、みっちゃんとまあちゃんが「へ」となった瞬間、渦を連れた風がひとつの葉残らずよれよれのクローバーを深い深い夜の空へ吹き飛ばした。花火のように、派手によれよれのクローバーが舞う。そしてもっと深い宇宙へ。舞う。

「四つ葉のクローバーがぁぁぁ」

 みっちゃんの声がソプラノで夜空を泳いだ。

「よつばー」

 まあちゃんの声がアルトで追う。

 よれよれのクローバーたちは散ることなく一番星のそばを通って宇宙の海へ消えた。

「ふえっぷしゅん」

 まあちゃんがくしゃみをして、二人は家へ入った。

「ただいまー」

「まー」




「まー」


 耳の奥にあの日の「まー」が存在している。

 過去はいつも少し残酷でやさしい。

 あと少しでトンネルを抜ける。丸い外へ出る。今日の続きが待っている。


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