百菓日記③
自動販売機の妖精
旧校舎は、ひんやりと不気味で、真希はそれが気に入った。
中学生になって早一か月。ぶかぶかな制服は、まだ身体に馴染んでいなかった。
真希は不純な動機で、読書部に入部した。
五月八日、空が蒼い。
今日も読書部。アガサ・クリスティーの『スリーピング・マーダー』読む。
それにしても、他の部員を見ないから、読書部って三人だけなのか。堀北先輩が部長で、木村先輩が副部長で、私は鍵長。戸じまりが鍵長の仕事だって。堀北先輩は、だいたいいつも眠ってる。ぶ厚い『シャーロック・ホームズ全集』を枕にして眠ってる。木村先輩は、カポーティの『冷血』をひたすら読んでる。読み終わっても、また始めから読んでる。愛読書なのかな。
図書室は旧校舎の二階にあった。旧校舎は木造で、図書室以外の教室は使われていない。鉄筋の新校舎とつながっている長い長い渡り廊下は、みしみしぎしぎし音を奏で、そこから紫陽花に囲まれた階段を下りて行くと、校庭が広がっている。
真希は、アガサ・クリスティーの本を手に、図書室の窓のそばに陣取り、校庭を眺めていた。野球部やサッカー部や陸上部やテニス部の声がきこえる。球の音もきこえる。青春がキラキラ歌っている。真希は、何かを欲しがるようにふり返り、読書部の二人の先輩を見てホッとすると、空を見上げた。
旧校舎の上にも、校庭の上にも、空は果てしなく果てしなく存在していた。
五月十九日、風が強くて雲が速く速く流れて行く。
今日も読書部。『かちかち山』を読む。
明菜に「何で野球部のマネージャーになったの?」ってきいたら、真っ赤になった。なぜだ。おもしろいから、明日もしつこくきいてやろ。
そよそよ風が流れ、夕暮れが迫る頃。図書室では、部長の堀北が「ぬあー」と目覚めた。
「はいはい。今日の部活おしまい。鍵長、戸じまり。よろしくー」
真希は、窓を閉め、戸の鍵をかけると、その鍵を職員室に返し、鍵長の仕事を終えた。帰り道は紫陽花に囲まれた階段を下りて、校庭の隅っこを通るようにしていた。野球部の練習終わりに通りかかれば、マネージャーをしている明菜と二人で下校する。
……その自動販売機は、野球部の用具倉庫の陰に、ひっそりと立っていた。
六月九日、小雨。
明菜が白状した。どうやら、野球部の蒼井先輩に恋したのがマネージャーになった理由らしい。よく解らないな。私には。
「真希、待ってて。これ部室に置いたら、もう帰れるから」
真希は自動販売機に身体をもたせて、走って行く明菜を見送っていた。頭を自動販売機にくっつけていると、ブーーンときこえた。
自動販売機の心臓の音みたい。
真希は自動販売機の前に立ち、百円玉と十円玉を入れた。並んだボタンがフッと灯る。
つぶつぶブドウジュース……実の入っているジュースだ。ブドウ味あるんだ……オレンジしか知らなかったな。
真希は、つぶつぶブドウジュースのボタンを押した。
ガタガタゴロン。出てきた冷たい缶をつかむ。
「えっ」
真希は、手にした缶を戸惑い顔で見つめた。それは、ジンジャーエールだった。
六月十一日、少し肌寒い。
今日も読書部。『かちかち山』をまた読む。
あの自動販売機。奇妙だ。押し間違えたのかな。
淡く晴れた六月の空。真希は、図書室の窓から双眼鏡で自動販売機を観察していた。派手なジャンパー姿の人が仕事をしているのが見える。円い視界の中、全くもって正確に、缶が小気味よく補充されていく。真希は、渋い顔で双眼鏡から目を離した。
夕暮れた校庭の隅っこで、真希は明菜を待ちながら、自動販売機と向かい合っていた。
真希の指先が並んだボタンの上を右に左に、さまよっている。何とは無しに、自動販売機の顔をパシっとひっぱたくと、ぽろぽろ流れる涙のように、返却口に百円玉と十円玉が落ちてきた。
「真希ー帰ろー」
明菜の声にふり返る。真希の胸がナゼか、クっとなった。
六月二十七日、雨の予報ハズれて晴れてる。
今は授業中。先生、何言ってるんだろー。眠いなー。外行きたいなー。
深夜映画終わったら朝だったからなー。
『悲しみよ こんにちは』原作も読みたいな。あー。眠い。
図書室の窓を開け放つと、風の通り道ができる。
部長の堀北は『シャーロック・ホームズ全集』を枕に今日も眠りこけ、副部長の木村はカポーティーの『冷血』を今日も読みふけっていた。少しだけ夏めいた風が、午後の図書室を通り過ぎて行く。風に乗って、葉っぱのシャワシャワ音が心地よく届く。
窓のそばでは、むずかしい顔をした真希が『悲しみよ こんにちは』を読んでいた。
静かな静かな読書部の時間。
六月三十日、白く曇ってる。
今日も読書部。『悲しみよ こんにちは』読み終わる。セシルが欲しがったもの。求めちゃいけなかったのかな。
明日から七月かー。
読書部の帰り道、真希は校庭の隅っこにいた。
コーラを一気飲みして、のどをシュワシュワさせて、ぷっはーとしたくて、迷わずコーラのボタンを押す。ガタタンゴロン。出てきたのは、レモネードだった。
田舎風の門にもたれて退屈そうな女の子が描かれている缶は、温かかった。
レモネード。レモネード。ヒッチコックの『ハリーの災難』。なぜハリーは死んだんだっけ?
ひとり連想していると「真希ー」明菜の声がした。明菜が何かヒラヒラしたものを片手に、走って近づいてくる。
「一緒に帰ろー」
明菜はそう言うと、真希の手からレモネードを取ってコクンコクンと飲んだ。
「ぱぱっと着替えてきちゃうから、待ってて」
真希にレモネードを返して、明菜は走り去って行った。片手に何かをヒラヒラさせて。
恋をしている明菜は、セシルの欲しがったもの、知っているのかもしれない。
真希はレモネードをコクンと飲んだ。熱いレモネードが真希の身体を流れていく。
「夏休み中、読書部は一日も休みないからな。部活、部活、部活だ。どうだっ」
部長の堀北がそれはそれは嬉しそうにしゃあしゃあと言い、副部長の木村と鍵長の真希は、そんな堀北をじっと見つめた。
真希の夏休みは弁当持参で、午前中から夕刻まで読書部一色の毎日だった。木造の旧校舎にある図書室は、うだるような真夏日でも窓を開け放ち風の通り道を作れば、快適と言えるほど涼しかった。
七月二十六日、晴れ。
今日も読書部。そして、明日も読書部なのだろう。
私の夏休みはママの喫茶店の手伝いと読書部で終わるんだ。きっと。
宿題もあるか。
夏の匂いがいっぱいだ。とても、いっぱい。
図書室の窓のそば。蒼く蒼くどこまでも広がる夏の空を、真希は飽きるまで見つめていた。ギラギラな太陽が沈み始めると、自動販売機と向き合う。夏休み中はどのボタンを押しても、果汁百パーセントのグレープフルーツジュースがゴロンと出た。この甘いのに大人な苦みは美味しく、夏休みの夕刻にぴったりだ、と感じた。
八月十三日、台風。
雨が降りっぱなし。雲が不気味な色で流れて行く。なんて素敵。
図書室が全部、雨の音に包まれちゃって、潜水艦の中にいるみたい。
旧校舎の木造の屋根を雨が叩く。降っては止んで。止んだと思ったら、また降った。閉めた窓ガラスに雨の雫がぶつかって、あとからあとから透明な線を引いていく。雨は降り続く。校庭の土を潤すように。裏山を潤すように。
副部長の木村が図書室の天井に雨漏りを発見して、雫が落ちる場所にバケツを置いた。ポタトンポタトン雫がバケツを鳴らす度に「ひひひひひ」と堀北が寝笑いをする。
誰もいない校庭には巨大な水たまりが二つできた。野球部の練習は休みで、明菜もいないので、もはや理由はないけれど、夕刻になると真希は自動販売機と向き合っていた。適当にボタンを押すと、ホットココアがゴロンと現れた。台風の雨と風に触れ、傘をさす手も赤らんでいる真希に、ホットココアは沁みて沁みていく。
九月一日、まだ夏が残ってる。
二学期が始まった。私、夏っぽいことしたかな。明菜とママと、うちのベランダから土手の花火を見た。それだけ。
秋めいた風に吹かれ、裏山で葉っぱが歌う。
音楽の授業中。真希と明菜は木琴の練習をしていた。ポロンポロン木琴を奏でながら、おしゃべりが弾む。深夜映画の話。新しいパン屋さんの話。予測なしのおしゃべりはポロンポロン赤ちゃんの話になった。
「赤ちゃんが生まれたらさ、何て名前にする?」
明菜は譜面にさらさらと赤ちゃんの名前を書いていく。そんな明菜をおいてけぼりな顔をして、真希が見つめていた。そんな真希をチャイコフスキーとショパンの肖像画が見下ろしていた。
十月二十日、少し冬の匂いがする。ほんの少し。
今日も読書部。星新一のショート・ショートを淡淡と読む。
赤ちゃんの名前。ひたすら考えてた。
全く想像もできないけれど、私に赤ちゃんが生まれたら、百個のお菓子って書いて、モカって名前にしよう。お菓子が百個あったら、心が美味しくなると思う。
百菓。素敵だ。
その日の帰り道。真希は目を閉じて、自動販売機のボタンを押した。ガタタンゴロン。真っ赤なトマトジュースが現れた。濃い紅のトマトジュース。
次の日の朝、生理がきた。
十一月四日、晴れ。
先輩たちが修学旅行へ旅立った。堀北先輩に「読書部サボらんように」って、しつこいほど言われて、今日も私は読書部。
京都も晴れているだろうか。空って、果てしないなー。
真希は図書室がひどく広く感じた。堀北の寝言や寝息が足りないと思った。木村が『冷血』のページをめくる音が足りないと思った。
真希は、わざと足音をドタドタさせて、窓を開け放ち、風の通り道を作った。冷たい風がほっぺたを触って行く。制服を触って行く。寒かった。けれど、そのままで校庭を眺めていた。
野球部の用具倉庫の陰に、直立不動の自動販売機が見えた。
あいつも寒そうだった。
真希はフッと笑った。
十一月八日、晴れ。
先輩たちが京都から帰ってきた。お土産に八つ橋をくれた。全くもって期待していなかった。私は相当嬉しかった。三人して無言で食べた。
図書室がいつもの図書室に戻ったみたい。
冬が降りてきた。
ふわりふわりはらりはらり舞う雪を、真希は見つめていた。多くの時間、ただ見つめていた。雪は積もることはあまりなく、土に触れるとスフっと溶けるように消えた。
真希は冬休み中も読書部一色の毎日だった。大晦日も正月も、三人は変わらず、図書室にいた。部長の堀北は『シャーロック・ホームズ全集』を枕に湯たんぽを抱きながら眠りこけ、副部長の木村はマフラーに顔半分埋めたまま『冷血』を読みふける。鍵長の真希は制服の下に毛糸のパンツ、上に厚手のセーターで着ぶくれた。
窓の外は冬休みの色に満ちている。うっすら雪が舞っていようと、運動部は元気ハツラツに見えた。校庭に飛び交う白い息。明菜は小豆色のジャージ姿で、ほっぺたを淡いピンク色に染めて、ボールを磨いていた。
冬の夕暮れは早く、夕刻と夜の間隔も短い。自動販売機と向き合う頃には、蒼黒い空にオリオン座を見つけることもあった。
一月二日、ふわり雪。はらり雪。
ママの赤飯は、やはりサイコー。
自動販売機は私を凛とさせたいのか、冷え冷えなジンジャーエールばかりゴロンと出す。身体がシュワシュワして、心地よい。
冬休み最後の日、部長の堀北が何の前触れもなく鼻血を流した。次の日の始業式、昨日の鼻血で弱ったのか「家にこもる」と言って、部長の堀北は初めて読書部を休んだ。
一月八日、底冷え。
堀北先輩が鼻血で休んだ。鍵長の私が戸じまりするのを木村先輩は待っていてくれた。渡り廊下で「カポーティって、おもしろいですか」ってきいたら「人による」って言われた。木村先輩はクールだ。
バレンタインデーが近づき、教室にソワソワが漂う。真希はドコカ白けている自分を感じた。
バレンタインデー前夜、真希は明菜の家で台所に立っていた。
明菜のチョコは本格的だった。チョコレートやナッツを刻んだり、キャラメルを溶かしたり、ドライフルーツを飾ったりして、色んな粒チョコレートを作っていた。
真希のチョコレートは大胆だった。ぶ厚いホットケーキを焼いて、湯煎で溶かしただけのミルクチョコレートシロップをまんべんなく塗りたくった。色味のない巨大なチョコレートケーキが完成した。
真希は巨大なチョコレートケーキをぶらぶらさせて帰りながら、夜空を見上げた。
「恋か……」
なんだか、風が吹いた。
二月十四日、晴れ。太陽が白い。
恋の話って、解らない。明菜と同じくらいドキドキしておしゃべりしたいけど。
女の子っぽい感情。私にはないのかな。それって、奇妙かな。
巨大なチョコレートケーキは、先輩たちと三人で無言で平らげた。マズイ要素がないから、甘甘で美味しかった。
図書室の窓を開けると、春の風が吹き込んできた。真希は深く深く深呼吸した。
地球がおかしくなっちゃって、四季が消えたら、風も匂いを失うのかな。
真希は確かめるように、鼻から春の風を吸い込んだ。
あと一週間もしたら、卒業式だった。
二月二十四日、春の風。まだ肌寒い。
今日も読書部。『ジーキル博士とハイド氏』読む。
先輩たちが卒業したら淋しくなるのかな、私。わからない。
私が『ジーキル博士とハイド氏』読んでいたら、木村先輩が「去年は、そればっかし読んでたなー」って言った。
先輩の目玉に夕日が映ってキラキラキラキラしてた。
部長の堀北がすやすやな眠りから不意に「ぬあー」と目覚めた。
「はいはい。今日の部活おしまい」
本棚のいつもの場所へ『シャーロック・ホームズ全集』を並べている堀北を真希は目で追いながら、なんとなく訊けずにいた疑問を口にした。
「先輩……なぜ、ホームズ全集を枕にするんですか。厚みがサイコーなんですか」
シリアス顔で堀北が答えた。
「あのなー、ホームズを誕生させたコナン・ドイルってさ、妖精を信じてたらしいの。周りは色んなこと言ったけどさ、俺は本気で信じてたんじゃないかって思う。で、コナン・ドイルが書いたホームズを枕にして、俺は妖精の夢心地なわけよ。うけけけけけ」
堀北は満足そうに真希の肩をがしがし叩いた。
憎めない悪戯を日常に仕掛ける妖精。真希の頭に、うけけけけけって顔をした自動販売機がよぎった。
春先の夕刻は、まだ蒼黒い。
「……あー。読書部、ひとりになっちゃうな」
真希がボソリとボタンを押す。ガタタンゴロン。返事をするようにホットココアが現れた。ミルク多めのホットココア。カカオの苦みが生クリームの甘さに溶けて、真希を丸ごと温めた。
三月四日、晴れ。風が少し強い。
今日は卒業式。なぜか、すごく早く目が覚めた。
明菜が蒼井先輩に花束あげるんだって、言ってた。私もお年玉はたいて、素晴らしくリッチな花束を二つ買って、学校へ行こう。
卒業式は退屈で、厳かで、きらびやかだった。体育館の窓の外、桃色の雪が舞うように、桜の花びらが散っている。冬と春が踊っていた。
在校生が作る花のアーチを卒業生がくぐっていく。
真希が両手に抱えた豪華で派手な花束を、堀北と木村はカッコよく受け取った。
「お前は明日から読書部の部長で副部長で鍵長だ。立派になったな」
堀北が真希の頭をがしがしする。
「ほらよ」
木村が真希に本を渡した。
浮かれた堀北とクールな木村が去ったあと、真希は渡された本を見下ろした。
カポーティの短編集だった。表紙をめくる。ページをめくる。めくる。めくる。
真希は、なんだか酔っぱらいたくなって、自動販売機の前へ行き、甘酒のボタンを押した。ガタタンゴロン……おしるこが現れた。
三月二十日、春の風が大きく大きく吹いている。
今日も読書部。カポーティの短編集を読む。
窓を開けたら桜の花びらがいっぱいいっぱい舞い込んできた。図書室中、花びらだらけになった。
うららかに、麗しい春が来た。真希が二年生になって間もなく、野球部新一年生の打った球が自動販売機の顔を直撃した。
自動販売機は、あっけなく撤去された。
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