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眠れずの夜

 ぱすんっ。カセットテープが終わりを告げた。
 汐里は布団から片手だけ伸ばし、カセットテープをひっくり返すと『聞く』のボタンを押した。夜の深海をカヒミ カリィの声がきらきら泳ぐ。今夜、同じ動作を七度くり返していた。汐里の冴えた頭が計算する。片面三十分のカセットテープだから……あー、三時間半寝返りばかりしてるのか。
 充血色した月の下。いっそ起きてしまった方がいいような気もする。いや、昨夜そうしたんだ。そしてそのまま朝が来るのを待っていたのだ。汐里は眼に突き刺さるような眩しい朝に誓ったのを思い出した。今夜こそは眠ってやるんだ!と。

 一体どうしちゃったのだろう。汐里はこれまで寝つきが悪いと感じたことはなかった。不眠症って言葉も見知らぬ他人事だった。それがここ数日全く眠れない。夜更かししてまでしたいことも見つからず、ただごろんごろん寝返りを打つしかなかった。
 ぱすんっ。カセットテープが今夜八度目の終わりを告げた。汐里は布団から片手だけ伸ばし、思う。眠らなきゃ。眠らなきゃ。眠らなきゃ。

 汐里は天井を見つめていた。暗がりのなか、ただただ一点を見ているとその辺りだけ夜の黒色が濃く深くなっていくような気がした。穴みたいだ。汐里は思った。濃く深く黒い黒い夜の穴。あの穴はどこへ行くのだろう。異次元への入り口かもしれない。時間の歪みかもしれない。或いは……。
 路地を車が通る音がして、天井に車のライトが線を引いた。夜の穴を奇麗に裂く。

 考えちゃいけない。考えちゃいけない。眠らなきゃ。眠らなきゃ。
 夜の穴から顔ごと視線をそらし、汐里は二十センチほど開いた窓から夜空を見た。充血した月が赤オレンジの光を放っている。紛れもなく、今は月の時間なのだ。
「ミャー―」
 発情期なのか、叫ぶような猫の声。汐里は枕に顔を埋めて叫ぶ。眠らなきゃ。眠らなきゃ。眠らなきゃ。

 汐里は目を閉じた。赤オレンジ色の月明かりがまぶたの裏に過去を映す。
 少しだけ遠い昔。まだ堂々と泣きべそをかいてよかった頃、頭がはしゃいで眠れない夜があった。台所からはママがパパの晩酌の用意をしてる音が聞こえて、大人の時間に入れない汐里は「こわい話をして」とパパにねだった。パパは懐中電灯で自分の顔を下から照らしながら『リュックのおじさん』の話をした。
 どんな話だっただろう。汐里は過去に潜り込んだ。
 そう、リュックのおじさんは懐中電灯をひとつと大きなリュックを背負って夜の町に現れる。そして眠らない子どもを見つけては大きなリュックにその子どもを放り込み、どこか知らない町へ連れて行ってしまう。こわい。こわすぎる。「リュックのおじさんが来たら寝たふりしちゃうもん」強がる汐里に「寝たふりなんかバレちゃうよ。懐中電灯でまぶたを照らされたら子どもは目を開けちゃうからね」パパはそう言ったっけ。少しだけ遠い過去の夜の記憶。
 路地をまた車が通り、天井に車のライトが線を引いた。奇麗に過去を裂く。ひとりの夜は何夜目だろう。ひとりで暮らし何年だろう。

 ぱすんっ。カセットテープが今夜九度目の終わりを告げた。
 汐里は布団から片手だけ伸ばし、何もせず、その手を布団へ引っ込めた。もう、いいだろう。夜の音もこわくない。
 窓のすき間から夜空を見れば、充血色した月が白銀色に変貌していた。今が夜に近いのか、朝に近いのか、分からない。

 汐里は天井をじとーっと見つめ思う。これは『眠れない私』という夢を見ているのだろうか。
 不眠で人は死ぬだろうか。
 だんだんまぶたが重くなる。
 なのに頭は冴えてくる。

 眠れそうにない夜明け。そっと。そっと。微かに開く音がする。汐里は耳を澄ませた。
 何かが目覚めようとしている。過去をやわらかく抱きながら。
 ひっそり心の隅っこで、幼い蕾がはらりと開いた。

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