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百菓日記④

サタースウェイト氏

 七月十九日、こわいくらいの入道雲。
 明日から夏休み。
 怠け者の私だけど、夏休み中は毎日読書部だ。だって、私は部長で副部長で鍵長だから。
 図書室にひとりは広すぎるなー。

 夏休みの始まる朝。読書部に行く前にママの喫茶店の開店準備を手伝おうと、真希は裏戸を開けた。そのすぐそばに、緑色の眼をした猫がいた。
 メタリックな灰色の毛をまとい、猫は真希を見据える。
 真希も負けじと見据え返しながら、頭の中で連想した。はしごを登るような感覚で、昨日読み終わった本の登場人物、サタースウェイト氏が浮かんだ。
「サタースウェイト氏」
 真希が呼ぶと、猫は無愛想に真希を見つめたまま、大きなあくびをひとつした。その瞬間から、メタリックな灰色の猫はサタースウェイト氏となった。

 八月二日、晴れ。太陽が近い。
 今日も読書部。『郵便配達は二度ベルを鳴らす』読む。
 昨日、大量のりんごを買った帰り道でサタースウェイト氏を見かけた。道の真ん中を堂堂と歩いていた。一輪車ですれちがった女の子に「ベン」って呼ばれていた。
 きっと、他の場所では別の名で呼ばれているのだろうな。
 まー、私にとってはサタースウェイト氏だ。

 台風一過の空は宇宙の底まで澄んで、ひたすら蒼い。広大な空の海を背景に、裏山の葉っぱたちがそよそよ泳ぐのを、真希は図書室の窓から眺めていた。

 八月七日、晴れ。
 今日も読書部。『マザー・グースの唄』読む。
 明日の読書部は正午でおしまいにして、市民プールへ行こう。
 ぷかぷか浮かびたい。

 市民プールはいつだって適度な人数で賑わっている。小学生のグループが三組くらいとクロールで何往復もするおじさん。水深が浅い小プールでは、幼い子どもたちが身体全部で、はしゃいでいた。
 真希はでたらめな平泳ぎをしたり、深く深く潜水艦泳ぎをしたり、鼻をつまんで水面に寝てぷかぷかぷかぷか空を見つめた。
 三十分ごとに十分間休憩となり、みんなプールサイドに寝そべる。タオルを顔に被せて、濡れた身体を乾かす。
 真希は、あんまりにも心地よい疲労感にそのまま眠ってしまいそうになった。十分足らずで完全に乾ききった身体をまたプールへと沈めていく。

 市民プールの帰り道。アパートの低い屋根にサタースウェイト氏が寝そべっていた。真希を見下ろすその様は、上品でクールだった。
「サタースウェイト氏」
 真希が低い声で呼ぶと、サタースウェイト氏の緑色の眼がギランと光った。

 八月八日、晴れ。太陽ギラギラ。
 プールの塩素っぽい匂いって好き。
 サタースウェイト氏を今日も見かけた。少し、うらやましい気がした。

 真夜中に上陸した台風は、夜が明けても強めの風と土砂降りの雨を降らせていた。
「ママ。今日は喫茶店開けても、お客さん来ないんじゃない?」
「常連客のみなさんは来てくれるわ。真希も読書部行くんでしょ?」
「……行くけどさ」
「傘折れちゃうだろうから、レインコート着て行きなさい。台風の日は休みにすればいいのに。部長なんだから。ほんとに気をつけてよ」
「はーい」

 八月十三日、台風。
 ヒッチコックの誕生日だ。
 今日も読書部。『ポアロのクリスマス』読む。
 図書室の雨漏り、忘れてた。木村先輩がやってたみたいに雫が落ちる場所にバケツを置いた。
 なんだか先輩たちのこと思い出しちゃう。堀北先輩が寝笑いしてたなーとか。
 なんだか思い出しちゃうな。

 ぐっちょりのレインコートを身体に巻きつけ、長靴をはいた足でわざと水たまりにボシャボシャ入りながら、真希は家へ帰った。無事に帰ったことを知らせるために喫茶店を覗くと、カウンターでは常連客のおばあさんがこっくりこっくり眠り、そのそばで『バー静香』の静香ママとママが小声でおしゃべりしていた。
「やだぁー。真希ちゃん、びっしょりー」
と静香ママ。
「早くシャワー浴びちゃいなさい。風邪ひかないでよー」
ママに急かされ、真希は大股歩きで裏戸の方へ行った。
そこに、雨風を避けて、サタースウェイト氏がいた。
 サタースウェイト氏は、緑色の眼を細めにし、向かいの家の網戸の網が枠から外れてバサバサバサバサなびくのを見ているようだった。
 真希の頭の中で記憶が「ミャー」と鳴いた。

 八月十四日、台風一過。
 今日も読書部。『ポアロのクリスマス』つづき読む。
 昨日の土砂降りは、どこへ消えたのだろう。サタースウェイト氏も裏戸で雨宿りしてたな。
 雨宿りしてるサタースウェイト氏を見てたら、水玉猫を思い出した。
 すっかり忘れていた。ピアノ教室のかばんにぶら下げていた水玉猫。突然に消えちゃって。おいてけぼりな気がして、私も探そうとしなかった。そのうちに帰ってくるだろうって。奇妙だけど、そんなふうに思ってた。

 特別に暑い暑い真夏日。空気が熱気で満ちていた。
 頭と身体を少しでも冷やそうと思うのは、みんな同じらしく、市民プールはいつもより混んでいた。真希と明菜は指先がふやけるまで潜って潜って潜った。

 八月十八日、晴れ。雲がどこにもない。
 今日も読書部は正午でおしまい。野球部が休みで「暇だ暇だ」って言う明菜とプールへ行った。
 帰り道でサタースウェイト氏を見かけた。アパートの低い屋根の日陰に身体を長く長く長くして眠っていた。明菜が「長ーい」って言った。

 蒼い空が濃く深くなり、夜を装っても、夏の夜風はまだ熱を帯びていた。
 蚊取り線香に守られた夜の空間で、真希は夢を旅していた。夢の中では、真希がサタースウェイト氏だった。
 メタリックな灰色の毛をまとい、猫みたいに鳴いてみせた。夢の中では、どんなに遠くたって好きな場所へ行ける。いつかの深夜映画で観たサントリーニ島で真っ白な壁に囲まれて、優雅に歩いた。グレタ・ガルボを気取って。断崖から港を見下ろし、緑色の眼に紺碧の海を映した。

 八月二十一日、晴れ。
 今日も読書部。『娘は娘』読む。
 サタースウェイト氏に変身した夢、サイコーだったな。緑色の眼で海を見たとき、何色に見えたっけ?

 サタースウェイト氏が姿を見せなくなっても、真希はあまり気にはならなかった。メタリックな灰色猫は気まぐれで、しれっとまた現れる気がしていた。
 それでも、台風の夜が明けるたび裏戸にサタースウェイト氏を探し、市民プールから帰るたび低い屋根にサタースウェイト氏を探した。
 そんなふうにして、時間は少しずつ確実に過ぎ、真希は緑色の眼を記憶の底に沈めようとしていた。
 深く大胆に深呼吸する。
 夏が終わりそうな匂いがした。

 九月十九日、秋晴れ。
 今日も読書部。『ポケットにライ麦を』読む。
 明菜が家族で栗ひろいに行ったおみやげに栗をどっさりくれた。ママが栗ごはんを炊いてくれた。大好き。
 そうか。秋なんだ。待ちぼうけは、おしまいだ。
 見つけに行こう。水玉猫とか、妖精が潜む自動販売機とか、サタースウェイト氏とか。愛しく思える何か。
 なんだか漠然としているけれど、それは存在してる。そう思うから。


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