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アイドルのみぞ知る④


   始まりの夜明け

 十二月、年暮れて。年明けて、一月、二月。冬がうるさくない目覚まし時計のように、春を起こそうとしている。でも、まだまだ春は眠いみたい。
 夕暮れの空と夜明けの空は、色が似ている一瞬がある。空が淡い淡いピンク色に染まる時。淡いピンク色は長くとどまることがないから、淡いピンク色の空は私をうれしくさせる。

 手袋した手をコートのポケットに突っ込んで学校へ向かう。冬の道はどこか少し早足になる。
 教室へ入ると、後ろにあるストーブへと近づく。そこに後藤の丸めた背中を見つけると私のほっぺたがほわりと和む。
「後藤君、おはよー」
「お……おはよ……」
 後藤が真っ白なめがねで、ぼそっと返事する。いつも同じ。
 授業が始まるまでのストーブの時間はいつの間にか、気づけば私の日常になっていた。後藤と並んでストーブに両手をかざす。後藤も私も何もしゃべらない。横目で後藤をちろっと見る。ストーブに近づきすぎるのか、後藤の顔はおでこもほっぺたも耳も真っ赤。
 後藤と黙ったまま、ストーブの前でぬっくりしている時間は心地よくて、私の心を静かにさせる。誰にもジャマされたくない。そんな言葉が不意によぎった。

 山形に住むおばあちゃんからダンボール箱いっぱいのりんごが届いた。それには手紙が添えられていて、おばあちゃんの大っきな字で、こう書いてあった。
『こないだの台風でりんごが落ちちゃったの。きずものだから売りものにならねの。食べて。味はぴかいちだから』
 『ぴかいち』の文字が誇らしげで、おばあちゃんのぼっこりした背中を思い出した。
 にぎやかに派手に色んな形をしたりんごたちを妹と二人で丸かじりした。パリリとした実と甘酸っぱい果汁で口の中がしあわせになった。
 遥が三つ目のりんごを丸かじりしながら言った。
「おばあちゃん、台風で落っこちたりんご拾ったのかな。ひとつずつ拾ったのかな。おばあちゃん」
「うん……」
 おばあちゃんのぼっこりした背中と、同じようにぼっこりした手が浮かんで、のどがクっとなった。
 遥も私もおなかがはちきれそうなほど、ぴかいちのりんごを丸かじりした。

 おばあちゃんのりんごが届いた次の次の日。美術室で新しい絵を描き始めていた。
 キーラが白雪姫になって七人の小人とそれはそれは大きなアップルパイを作っている絵。図書室から『お菓子の作り方』や『世界のパン』の本を借りてきて、その中から『グランマのアップルパイ』を選んで描いた。我ながら、なんて美味しそうなんだ。
 アップルパイ。食べたくなっちゃった。『パン屋大福』にりんごジャムのパンがあったなー。
 そんなことをぼけっと考えていたら、背後から声がきこえた。
「これはウェディングケーキ?」
 ふり向くと、美術部の顧問でもある担任の前田先生が絵のアップルパイを見つめていた。
「えっ。えっとー……」
 返事に困った。私の絵には王子様も、結婚式の雰囲気もない。何で……。
 前田先生の顔を見た。前田先生のほっぺたがピンク色に染まってる。
「……はい。ウェディングケーキです」
「そう。美味しそうね。とっても」
 前田先生は何度もうなずいた。すごく嬉しそうだった。

 白雪姫に変身しているキーラに白雪色のヴェールを描き足して、ひとまずの納得をすると学校を出た。外はもう夜みたいだった。時間的には、そんなに遅くないはず。やはり、二月は日暮れの早さも冬なんだ。
 凛とした冬の空気を思いっ切り吸い込むと、目が涙目になった。夜空が滲む。
 小学四年生の頃、怖い夢ばかり見た。泣きべそをかいて、お母さんの布団へ潜り込むとお母さんは『名前の話』をしてくれた。
「陽菜は寒い寒い冬の夜に生まれたのよ。ほっぺたのむっちりした元気な子で、お母さんはとってもほっとしたの。お父さんは泣きながら鼻血を出して、ベッドのそばの窓を開けたの。そうしたら凛とした冷たい風が流れてきて。心地よかったわ。その夜、あなたの名前を『凛』にしようかしらって考えながら眠ったの。でも次の日に起きたら、窓の外に真っ白くて大きな太陽が見えて、あなたのむっちりしたほっぺたを思い出したの。あなたが愛おしくて。そうだ、『陽菜』って名前にしようって思ったのよ。お父さんに話したら、うんと気に入ってくれて、あなたの名前は『陽菜』に決まったの」
 私はこの『名前の話』が大好きで、お母さんの布団に潜り込む度に『名前の話』をねだった。お母さんは何度も同じ話を同じようにしてくれた。
 家まで、あと少し。夜空を見上げると、星たちが何かの星座を形作って、キラキラとキラめいていた。

 玄関の戸を開けたとたん、甘ったるいココアと濃いカカオバターの匂いに包まれた。「なぁに?チョコレート屋でも始めるの?」言いながら台所へ入っていく。
「明日のバレンタインにあげるんだって。ほんと、チョコレート屋さんの量だわね」
 お母さんがチョコレートの型抜きを手伝いながら私に教えた。
「おかえりー」
 チョコレート職人と化した妹がせっせとホイップクリームのツノを作っている。ナゼか肩の辺りにチョコレートクリームがべっとりついていた。
 食卓には、ハート型だか何だか分からない形をしたチョコレートが、鉄板やまな板やクッキングシートの上にズラーっと並べられていた。
「こんなにいっぱい作って、誰にあげるのよ」
「えっとー、木村君と堀北君でしょ、ケンタと安室君とぴいちゃんと。あとは、まー適当に。それよりさ、味見してみて」
 ガタガタなハート型がくり抜かれたあとの、ばらばらチョコレートの破片をひとつ食べてみた。
「美味しい。甘すぎず。苦すぎず」
「お父さんと同じこと言ってるー」
 遥がキャハキャハ笑った。
 お父さんを見ると、お風呂上がりなのか、頭にタオルを乗せていた。へらりとクールに笑ってみせたけど、その顔は「練習用のチョコレートで腹いっぱいだ」と言っていた。
 私は手伝うでもなく、妹に顔をフリフリされながら、チョコレートの破片を食べつづけた。ジンジャーエールをシュワシュワ飲みながら、チョコレートの破片を食べつづけた。しまいに、チョコレートの血が流れてるみたいな感覚になって、すこぶるハイになって、へらりへらり笑いつづけた。

 明くる日はバレンタインで、妹は朝から忙しそうだった。冷やし固めたガタガタハートのチョコレートたちをパステル色の箱に詰めてカラフルなリボンを巻いていた。
「何て言って渡すの?みんなに好きって言うの?」
「好きなんて言わないよ。本命いないし。あげる!って渡すの」
「へー」
 へー。そんなものか。今日、どれだけの人が本命のチョコレートを渡すのだろう。

 教室に入ると、どこかそわそわ浮かれた空気があるような。ないような。
 後藤はいつも通り、背中を丸めて両手をストーブにかざしていた。今日がバレンタインデーだって、知ってるのかな。我、関せずかな。
 この頃、後藤とよく目が合う気がする。きっと、きっと、それは私が自意識過剰なのだろう。恥ずかしい。
 後藤も女子の誰かにチョコレートもらうのかな。照れたりするのかな。それって、ちょっと。ちょっとなー。
 後藤のめがねは今日も元気に真っ白く曇っていた。

 その日は、キーラの世界を描こうとしても空想が途切れ途切れで形にならなかった。美術室の本棚から大好きなロートレックの画集を出して、模写ばかりしていた。
 細く開けた窓から合唱部の歌声がハーモニーになって、冷たい風と一緒に届く。ソプラノとアルトとテノール。パート練習していた小さなメロディーたちが少しずつ合わさって大きなメロディーになり『瑠璃色の地球』を歌う。
 何かが解りかけているもどかしさが、漠然と私を包んでいた。幼ぶっていられなくて、この頃は。世の中は始めなきゃ始まらないことだらけなんだ。
 窓ガラスの向こうへ視線を置く。障子紙より薄い白色をした月が、雲ひとつない空をひとりじめしていた。

 下校の道。いつもは通らない細い道を歩いていた。その細い道は日曜の朝だけ通る道。『パン屋大福』へ続く道だった。うっすら白色の月を見ていたら『パン屋大福』の大福型のパンが浮かんで、冷凍しないでふわふわなままで、大福の丸っこいパンを食べてみたくなった。
 平日の夕闇に囲まれた『パン屋大福』は、日曜の朝日を浴びてる『パン屋大福』とは別の顔をしていた。
 店へ入ると、パン屋の主人が「おや?」って顔をして、ふわりと笑った。
 食べたことない味にしようかな。
 みんな同じ丸っこいパンたちが並んでいる。『みかんジャム』とか『黒ごまクリーム』とか書かれた厚紙が、パンたちの先頭に置かれていた。夕方も過ぎて、半分くらいはもう売れ切れだった。
 ひとつ、ひとつ、厚紙を読みながら選んでいると、見覚えのある背中があった。
 そろばんを脇に挟んで、頭を少し傾げて、真剣にパンを選んでいるようだ。
 もしかして……もしかして……。
「後藤……君?」
 傾げた頭が反応して、こちらを向いた。脇に挟んでいたそろばんが同時に落ちた。
「黒木陽菜っ!あっ。黒木さん」
 後藤の顔が一瞬白くなって、サーっと紅く染まった。
 後藤と私のそばで、時間も落ちた。
 私はそろばんを拾って後藤に渡した。
「そろばん教室の帰りで……」
 後藤がめがねの奥でまばたきをいっぱいしながら早口で言った。
「あ……そう」
 私と後藤はなんだかぎこちなく、そわそわそわそわとパンを買って、外へ出た。

 月がレモン色に変身している。
 私と後藤は二人して無言で並んで歩いた。歩く度に後藤のそろばんがスチャっスチャっとリズムを刻んだ。電灯に照らされて、私と後藤の影が、ほど好く焼けた餅のように長く伸びて、地面に映った。
 静かだった。そろばんの音と白い息と。静かすぎて、心臓のトクントクンを耳のそばに感じた。
 曲がり角が迫る。
「私、こっちの道だから……」
 後藤のそろばんがスチャっと言った。
「すすすすすすすすストーブも終わっちゃうから。もうすぐ春だから」
 むき出しのそろばんを片手に握りしめたまま、後藤がそう言った。何が言いたいのかわからない言葉だったけれど、後藤の言葉はむき出しのそろばんのような率直さで、私のおなか辺りにスチャっと着地した。
 切るはずじゃなかった私の前髪が、冷たい夜風に巻かれて、おでこをくすぐる。
 私は『パン屋大福』の紙袋に手を突っ込んで、初めて選んだ『苺チョコクリーム』のパンをひとつ取り出すと、後藤にあげた。
「バレンタインだから」
 私の声はのどがカラカラみたいに掠れて、二月の夜に溶けた。
 後藤の顔はよく見えなかった。後藤のめがねのレンズに、レモン色の月が映っていてきれいだった。

 その日の夜中。るるるとおなかが痛くなって、なんてことだろう。生理がきた。

 日曜の朝。妹の遥と『パン屋大福』へ行く。そよそよそよそよ風が吹き、近づく春を知らせていた。
 『パン屋大福』へ入る。焼きたてのパンの匂い。みんな同じ丸っこいパンたち……そこまでは、日曜の朝のいつもと変わらない光景だった。
 でもその朝は、『パン屋大福』主人の低音な声ではなくて、女の人の少し恥ずかしげな「いらっしゃいませ」が聞こえた。どこか、耳慣れたその声。
 意外な人がそこにいた。
「……前田先生」
 前田先生の白い肌は、おでこまで紅く染まった。前田先生は苦笑いに似た表情をして、ふへっと笑った。
 なんだか、前田先生を初めて見たような、不思議な感じがした。
 遥と私はいつもと同じ味を選んで、レジ台に置いた。
 どんな顔をすればいいのか、わからなくて、前田先生の白い手ばかり見ていた。
 先生、何か言うかな。
 ちろっと先生の顔を見ると、先生は大真面目な顔をして、ひとつ、ひとつ、慎重にパンを紙に包んで『マーマレード』とか『きなこクリーム』とかシールを貼っていた。その後ろで『パン屋大福』の主人が、うん、うん、とうなずいている。先生は最後のひとつを包み終えると、自信なさげに主人をふり返った。主人が大きくうなずき、にんまりした。
 先生と主人のやりとりに、私はなぜかドキっとして、くすぐったくて、目が離せなかった。

 担任の前田先生。美術部顧問の前田先生。『パン屋大福』の前田先生。ジグソーパズルの断片、断片で頭に浮かんだ。それらを全部使っても、前田先生の肖像は穴だらけな気がした。
 買ったばかりのふわふわなパンたちを冷凍庫へ入れて、ほど好く凍ったパンたちを出した。
 ミルク多めのカフェオレを二つ用意して、妹の遥とパンをほおばる。冷たいつぶあんぱんが口の中を瞬間に冷やし、パン生地と溶けていく。
 この奇妙な食べ方。絶妙な美味しさ。地球上のドコかのダレかは知っているだろうか。
 それとも、私のみぞ知る、だろうか。
 カフェオレを飲みながら、そんなことを考える日曜の朝。そばで妹がクリームパンとマーマレードパンを交互に食べながら、アニメを見ていた。天然パーマが肩の上で丸くひかえめに踊っている。
 なんだか、しあわせだ。そう思った。

「いいお天気だから、布団干しなさーい」
 お母さんに言われて、遥と二人で二階のベランダに布団を干した。布団に両腕とあごを乗せて、遥と私は上半身も干しながら、おしゃべりをする。
「遠くまで見えるー」
「ほんとー」
 正午前の特別にやさしい光が、地上を大胆に包んでいた。
 遥が流行りの歌を案外上手に口ずさんでいる。それが耳に心地いい。
 目を細めに開けた。色んな色の屋根が見える。色んな形の屋根が見える。
 もう少し、先を見た。町と空の分かれ目がキラキラキラキラ。キラキラキラキラ。
 私の目がじんわり潤んだ。

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