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「しあわせになりたい」

人は幸せになるために生きているのではない。
なぜなら生き物の脳は生き残ることを最重要事項として設計されており、どうしても身を守る必要性を求めてしまうからだ。

わたしはこんなひねくれた考えの持ち主です。
度々、この言葉の羅列を頭の中で唱えて、そうだそうだ、と支持しています。

ところがとある小説を読んで、少し気が変わってきました。
変わったというより、自分のこういう気を疑いはじめたのです。

どうしてわたしは幸せになることを拒否しているのか、と。

「幸せになりたい」と言う人をわたしは内心、「へっ」と見下すようなところがあります。
でもそれも、「幸せになりたい」と言葉にできる素直さ、健気さ、純真さが羨ましかっただけなのでは。

そう思うようになったきっかけの小説は友麻碧さんの『水無月家の許嫁』シリーズ。
こちらは天女の末裔の一族の男女の、恋愛ファンタジー小説。
著者のあとがきから引用します。
「遺産騒動とか跡取り問題とか、そういうドロドロしたものに負けないよう、逃げられない結婚であっても純愛を育もうとする若い男女の和風婚姻譚」

素敵だ。
わたしはひねくれた考えを持っているけれど、誰かと純愛を育むことに憧れている気持ちもちゃんとあるんだな、と気付かされました。
そして自分自身が幸せになることを拒んでいる悲しい自分の存在も認めることができました。

そして問いに戻る。
どうしてわたしは幸せになることを拒否しているのか?

「わたしはしあわせになる」と思ってみると、心の真ん中らへんが重たくなる。漬物石のような。
この漬物石にフォーカスして心の中を探っていくと、これの正体は寂しさだった。
「ずっとずっとひとりでさみしいんだ」って言ってるんです。

わたしはずーっと、恒常的に、当たり前のように、寂しいという感情にむしばまれていたんです。
自分の感情をあるていど受容できるようになったこの一年ほどは強く感じることはなかったけれど、存在感をひそめながらも今もなおわたしの心の中に住み着いている。

そうかそうか。自分が幸せになると、この寂しい部分が満たされないような気がしているんだな~。
自分の寂しさには時々構ってやらないとならないんだな~と思いました。
寂しさを埋めるために外にあるものを利用しようとしてしまいがちだけど、そうじゃなくて、寂しさを深く理解して、もっと受容してあげれるようにしたい。いつか、君に居場所を作ることを約束しよう。待っててね。

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