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【海外の街を歩く】ドゥオモからの眺め(その3)

シニョリーア広場

シニョリーア広場(Piazza della Signoria)は、ヴェッキオ宮殿前のL字形の広場。紀元前の共和制ローマ時代、フィレンツェ共和国時代、現代に続くフィレンツェの政治の中心になっている場所だ。
周辺にヴェッキオ橋、ドゥオモ広場へ向かう道などがあり、広場には観光客が多くいた。

シニョリーア広場

ヴェッキオ宮殿

ヴェッキオ宮殿(Palazzo Vecchio)はシニョリーア広場に面して立っている都市国家フィレンツェ共和国の政庁舎だった建物で、現在もフィレンツェ市庁舎として使われているそうだ。
フィレンツェの彫刻家、アルノルフォ・ディ・カンビオによって14世紀初頭に建設されている。
宮殿のシンボルである「アルノルフォの塔」は。高さが95mあるそうだ。

2015年に日帰り旅行した際は時間が無かったので、建物内部の見学はあきらめ、シニョリーア広場から外観を眺めるに止めたが、「アルノルフォの塔」が確かに印象に残る建物だった。

ヴェッキオ宮殿

ヴェッキオ橋

ヴェッキオ橋(Ponte Vecchio)は、フィレンツェを流れるアルノ川に架かるフィレンツェ最古の橋。
ローマ時代から橋は架けられていたそうだが洪水で何度か流され、現在の橋は1345年に再建されたものだそうだ。
橋の上には宝飾品店が並んでいて、独特の構造が不思議な感じだった。

ヴェッキオ橋
ヴェッキオ橋の橋の上
ヴェッキオ橋の橋の上

ピッティ宮殿

ピッティ宮殿(Palazzo Pitti)は、トスカーナ大公の宮殿として使用されたアルノ川の西岸にある建物。
フィレンツェの銀行家ルカ・ピッティが1457年に建設を着手したが、1472年のピッティの死とともに宮殿建設も中止された。
ピッティの死から約100年を経た1550年頃、初代トスカーナ大公であるメディチ家のコジモ1世がピッティ宮殿を買い取り宮殿建設を再開したそうだ。
現在は美術館として一般公開されている。
宮殿の裏側に広がるボーボリ庭園は、敷地面積が4万5000㎡あるフィレンツェ最大の庭園だそうだ。

ピッティ宮殿に到着した頃には既に15時を過ぎていたので建物内部の見学はあきらめ、建物の周囲を散策した。

ピッティ宮殿の外観
ピッティ宮殿から望むフィレンツェの街
ピッティ宮殿から望むフィレンツェの街
ピッティ宮殿の中庭

サンタ・マリア・ノヴェッラ教会

17時半過ぎ、フィレンツェ サンタ・マリア・ノヴェッラ駅に戻りながらサンタ・マリア・ノヴェッラ教会にたどり着いた。
サンタ・マリア・ノヴェッラ教会(Basilica di Santa Maria Novella)は、フィレンツェ中心部にある重要な4つの教会の一つでフィレンツェで最も古いゴシック様式の教会だそうだ。
結局、時間が無かったので教会の中には入らず、サンタ・マリア・ノヴェッラ教会についても外観を眺めていた。

サンタ・マリア・ノヴェッラ教会

フィレンツェ サンタ・マリア・ノヴェッラ駅

18時頃のフィレンツェ サンタ・マリア・ノヴェッラ駅の戻った。
結局、ピッティ宮殿とボーボリ庭園、ヴェッキオ宮殿、ウフィツィ美術館などは時間が足りなかったため見学できず、フィレンツェを日帰りで観光することには無理があることを実感した。
次に訪問する際は、フィレンツェに2泊程度して見学に回りたいと思っている。

サンタ・マリア・ノヴェッラ駅の構内
サンタ・マリア・ノヴェッラ駅のホーム

(参考)フィレンツェの概要

フィレンツェ(Firenze)は、イタリア共和国中部にある都市で、トスカーナ州の州都、フィレンツェ県の県都。
フィレンツェは古くはエルトリア人によって作られた町だが、ローマ帝国時代の紀元前59年に、執政官カエサルによって退役軍人の入植が進められたローマ植民都市を起源とする都市。
中世には、一時神聖ローマ帝国領となったが、 12世紀に都市共和国(コムーネ)として自立して共和政を発展させ、14世紀~16世紀に掛けてルネサンスの中心地として繁栄した。
銀行業で富を蓄えたメディチ家が政治的独裁権を握るようになり、1530年に都市共和政は崩壊。以後、メディチ家の世襲によるトスカーナ大公国となるが、途中でメディチ家は断絶してハプスブルク家が継承して1860年まで存続した。
1860年にイタリア王国に合併され、イタリアの都市となる。

人口:382,258人(2017年時点)
面積:102.41km2


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