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私の母

3歳で別れた母と再会したのは、2012年3月。高校の卒業式の日だった。私はパンツスーツを着た18歳だった。

再会場所は、アパホテルのシングル用の部屋。卒業式が終わったその足で、母が泊まっているホテルにむかった。母が日本に住んでいた頃、仲がよかった伯母と現地で落ちあう約束をしていた。

15年ぶりに会った母......というより、初対面に近い。母の記憶はあまりない。複雑な、なんとも表現しがたい心境をかかえながら、ビジネス用パンプスの先をみつめながら足を動かす。

母を目にしたとき、母親とはこういうものなのかと生まれて初めて知った。

共通する遺伝子を持っている痕跡がある。頬骨が横にはりだし、鼻が短い。ストレートの黒髪ロングヘアー。髪があっとうまに長くなるのは、この人のせいか。くせ毛は、やはり父親ゆずりだったか。服からのぞく肌をみて「色白は母親似よ」と、親族から言われていた理由にも納得した。

異なったところといえば、163cm 70kgある私とは正反対に、158cm 45kgと華奢で小柄だったこと。てらてら光るスキニーパンツに、高いヒール。歩くたびにコツコツと音がする。風貌は「東南アジアによくいる、派手に着飾った現地人」のようだった。

再会して早々「ご飯でも食べよう」となり、近くのショッピングモールに行った。

「何が食べたいか?」と聞くと「ラーメンが食べたい」という。「そんなに細いのにラーメンなんて食べるの?」と、同行していた伯母が驚いていると、母は「食べても太らない体質なの」と言っていた。キラキラ光る球体が浮いたつゆにレンゲをくぐらせ、黙ってすすった。

その後、数日一緒に過ごしていると「母」という人物がどんな人間かわかった。

アパホテルの朝食ビュッフェが気に入っていたこと。風通しのよさを好み、3月の肌寒い風がビュウビュウとふき、カーテンがなびいても窓を閉めようとしなかったこと。私に似ている。

伯母が運転する車で、親族の集まりにむかっているとき。流暢な日本語で「ちょっと電話するね」とひと声かけ、プリペイド式のおもちゃのような携帯を取りだし、訳のわからない言語で話しだした。友人と話しているようだ。

電話を切ると「ごめんね、びっくりしたでしょう。これ北京語なの」と言っていた。日本語で。もちろん英語も流暢だった。母国語のマレー語、中国語、北京語、英語、日本語。「私の母は5ヶ国語を話せる」という親族の話は、事実だと証明された。

15年ぶりに再会した親子。感動的なエピソードかもしれない。でも、これから母の「病」を知ることになる。

「精神分裂症と診断されて、マレーシアに帰らないとならなかったんだ」と、国語の辞書をみせながら、必死に説明してくる母。「あなたと別れなければならなかったのは、病気のせいなんだ」と言う母。迫力に負けそうだ。

母の帰国後、自宅に電話がくるようになった。

はじめは「元気?どうしてる?」という話からはじまり、少しずつ変わっていった。「部屋にいると、誰かが小さな武器で私を狙ってくる。オウム真理教のメンバーだ」と日本語でうったえてくる。本気な様子だったので、感覚的に否定してはいけない気がした。話をあわせて「部屋のどこから狙ってくるの? どんな武器なの?」と聞いてみたりもした。

母の異変はこれだけではない。持っていたバッグを「可愛い」と褒めたのを覚えていたらしく、日本に送ってきた。その後も数ヶ月にいっぺん、不思議なギフトが届くようになった。

原料が何かわからない、真っ黒なドライフルーツのようなもの。乾いたイカのおつまみ。透明なパウチに入っているだけで、原材料や賞味期限の記載がない。そして、あきらかに使い物にならないチープな服やバッグ。仕事を辞めたばかりと言っていたのに、国際郵便は高いのに、どうやって品物を送ってきたのか。

ある日の電話では「日本で、私と一緒に住みたい」とも言っていた。

正直、ごめんだった。精神分裂症を患っている、母と思えない人と一緒に暮らすなんて。18歳で大学入学が決まっている。私自身も、精神的な浮きしずみに苦しんでいた。そんな中で外国人の面倒はみれない。

電話口で「ママとは暮らすつもりはない」と伝えると、それっきり電話はこなくなった。気をつかって「ママ」という自分にも、嫌気がさした。

*****

母といえば、ほかにも思い出すことがある。美容整形がやめられない。整形をしたら、またしたくなる。流石にどこかおかしいのかと思い、臨床心理士のカウンセリングへ行ったときのこと。

美容整形よりも、父の話ばかりをした。どんな人だったか、どんな育てられ方をしたのか、どんな思い出があるか、どんな闘病生活だったか、どんな死に方をしたのか。それを見かねたカウンセラーがこう言った。

「お母さんのことに触れないのが、逆に気になります。それほど傷ついているのだと私は思います」

と。

いいや、そんなことはない。話さないのは、母のことは何とも思っていないからだ。会いにこられても、多少「顔が似た人」というだけで。幼いころの母の記憶は、途切れ途切れにあるだけで。15年ぶりに再会しても、母とは思えなかった。

ただ、母の話に触れると、誰にも知られたくない胸の奥を引っかき回されるような気分になるのは、間違いない。



母との最後の電話から、8年が経つ。

生きているかどうかもわからない。Facebookもひっかからない。マレーシアにいる友人に会いにいった2年前の夏。ついでに会えればいいなど、事前に手紙を送った。つたない英語と顔写真を添えて。返事はなかった。電話も通じなかった。

母の名は、WONG KIM LAN(ウォン・キム・ラン)という。漢字では「黄金蘭」と書く。生きていれば、55歳くらいだ。

名前を書いたところで、会うつもりはない。それよりも何となく、生きている気配がしない。病魔に犯され、きっと私のことは思いもせずに、存在自体忘れて、旅立ったのだろう。それが事実なら、本当の意味で天涯孤独になる。私を作りだした遺伝子のみなもとが、この世から消滅する。

生きているかもしれないのに死んだことにしたいのは、母のことを考えたくないから。臨床心理士風に言えば「傷ついている」のかもしれない。


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