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片足猫のシャンクス 人間の寿命を1日もらう代わりに願いを叶える


こんな結末が訪れるなんて、あの日の僕は想像さえしていなかった。

 朝9時、電話がBGMのように一斉に鳴りだす。オフィスに規則正しく並べられたデスクの前に、20人あまりが同じ姿勢で座っている。僕もその一員に加わり、鳴り続けている電話をとる。社会的に定められた、個性のかけらもないあいさつを交わす。

 昨日、おととい、それよりももっと前から変わらない業務をこなしていく。2着しかないスーツを着回し、黒いメタルフレームの眼鏡をかけ、同じ髪型をしている。別れた彼女から誕生日プレゼントとしてもらった、ワニの刺繍が入ったピンク色のネクタイが胸元を飾っている。

 彼女からネクタイをもらった当初は「趣味じゃない柄だな」と思いつつも、使い続けると愛着が湧き、今ではところどころ糸が飛び出ている。結局、彼女は僕にプレゼントを贈った後、僕よりもいい男とくっついてしまった。僕をとび箱のようにして、ひょいっと、人生の更なる階段をあがった。

 彼女にとって僕はただの踏み台にしか過ぎなかったんだろうけれど、週5日、平日の朝から晩まで、くたびれたネクタイが胸元に居座り続けている。暇になるとつい、ネクタイの先を撫でるのが癖になった。その部分だけワニの刺繍が薄くなっていた。

 大手企業の下請け会社に、僕、横田 勝成(よこた かつなり)は5年前に就職した。以前は会社のシステムに関わるIT部門にいたが、なぜか半年前に営業にまわされた。繁忙期の今、人手が足りないらしい。誰かと協力して仕事をこなしたり、外回りが求められる営業職にむいていない僕を必要としているくらいに。

 昼休憩、終業時間を心の支えにデスクに座る。自分のデスクにある電話が鳴ったらとる。パソコンに入力をする。時々、ネットサーフィンをしながら忙しいフリもする。という一連の流れをこなしていると、今日も遠くのほうから不機嫌な声が聞こえた。部長の木戸だ。また始まった.....と、僕は思った。

 彼はこのフロアにいる20人あまりの中から、気に入らないやつに目をつけ、その人物のデスク周りをするという習慣があった。座っている僕らの後ろに立ち、ダメ出しをする。「こうしろ、ああしろ」という命令口調の小言をひとつかふたつ、残していく。僕の場合はその小言が、ほかの人よりも少しばかり多い。

 デスク周りをしている彼の立ち姿は、背筋が伸びている。あえて足音を鳴らすかのような歩き方をしている。その仕草から上司として「ダメな部下」を叱るのが役目だと考えていることも、誇らしいと思っていることも理解できる。

 でも彼自身は、誰かを叱りつけるたびに周囲からの”尊厳”というものが、鉛筆の先をナイフで削っていくみたいに、少しずつ削ぎ落とされているのに気がついていない。かわいい女子社員、優秀な社員には特別扱いをしている。それを部下たちが、どんな目線で見ているのかも。

 彼の足音や声の大きさで、そろそろ順番が回ってくるだろうと推測する。僕はかけているメガネを外し、乱暴にデスクに置いた。眉間のあたりを指先で揉む。深いため息をひとつだけつく。伸びた髪をぐしゃぐしゃと撫でた。




「あいつ、名前だけはいかにもできそうなのに、実際はダメだよな」

 トイレの個室で用を足した後、便座の上に座りながら小休憩をしていると、話し声と複数の足音が聞こえ、ハッと我に返った。それと同時に、営業部の小林の声だとわかった。「あいつ」が僕のことだともわかった。「名前だけはいかにもできそうなのに」と言われるのは、何度も経験したからだ。

 僕は息をひそめる。彼らが出て行くのを、じっと待つ。僕は便座の上で感情を持たない、置物になるしかなかった。

「あいつ、なんで営業部になんているんだろうな。営業ってのは、いわゆる狩りみたいなものだろう。客は獲物、営業部の俺たちは獲物を狩るハンター。狩りが仕事なんだ。狩りができないハンターは、ハンターじゃない」

 だよな、と同調している声。明るい笑い声も聞こえる。革靴が地面を蹴りコツコツと音がする。用を足す音がする。ジャーっと水音がする。ハンドペーパーを乱雑にとる音がする。


 僕は個室の中で、扉のむこう側にいる小林の自信満々な表情を想像した。営業をハンターだと例えている彼は、片眉をあげて微笑みながら身振り手振りで理論をかざしていただろう。仕事でミスをしている彼の様子を並行して思い浮かべることで、感情を持たない置物になれた。

 でも、確かに営業について語れる権利は、彼にはあった。仕事で成果を出していたし、上司からも特別視されていた。営業部では稼ぎ頭のような存在だった。だから、今ここで飛び出して反論することは、僕の選択肢にはなかった。飛び出したところで負け犬の遠吠えになると、容易に想像できたからだ。


 僕は、幼いころから自分の名前で揶揄(からか)われきた。勝成——。名前が面白いから、ではない。名前に負けている、僕自身のことで。

 昔から勝負事で勝ったことはない。何かで1番になったこともない。小学校のマラソン大会も、順位は後ろのほうだった。運動神経にも恵まれておらず、体力もないほうだ。だから中学・高校は帰宅部であったし、成績も特別によかったわけじゃない。大学は推薦入学。よい大学に進もうとしている同期のように、ガムシャラに勉強をした経験はない。唯一、パソコンには熱中できて、自然の流れでシステムエンジニアになった。ただ、それだけなのだ。

 つまり、これまで一度も本気で何かに挑戦した試しはない。上を目指そうという熱意もない。可もなく、不可もなく。見た目だって、中肉中背で普通の顔。パッとしないのだ。名前が勝成なのに。

 扉のむこうでは、なんの音もしなくなっていた。彼らがいる気配はとっくに消えているのに、僕は便座の上に座り、白い扉に貼られている「いつもキレイに使っていただきありがとうございます」の文字を見つめていた。



 僕は最寄駅から徒歩10分ほどの場所にある、単身者向けアパートに住んでいる。アルコールがまわった身体を引きずりながら、自宅にむかって歩いていた。

 時刻は21時を過ぎている。もちろん、この時間まで仕事をやっていたわけじゃない。最寄駅の近くにある居酒屋で夕食をすませていた。帰っても誰もいない。特別やることもない。寝て帰るだけの部屋。わざわざ食材をそろえ、料理するのも億劫だ。ということで、自宅に帰る前に居酒屋に立ち寄るのが、平日のお決まりコースになっていた。

 すっかりあたりは暗くなっている。人気はない。街灯は間隔的に並んでいるが、それほど多くはない。女性がひとりで歩くには少し恐怖する暗さだ。家族向けの大きめのマンション、似たり寄ったりの一軒家、廃墟になり草やツタが生い茂った家。

 駅前にはスーパーや薬局はあるが、少し道をはずれると、住宅街ばかりが並ぶ。四方八方が家々に囲まれていて、その終わりは見当もつかない。蜘蛛の巣のように細く、張りめぐらされた路地をたどっていく。目を瞑りながらでも歩いて帰れるくらい、慣れた道だ。

 固いアスファルトの道を進んでいると、遠くの方に鳥居があると気がついた。一軒家の間にある。鳥居は高い木に囲まれている。木は風になびいて、ザァァァァと音を立てている。鳥居の両脇には狛犬が2匹いる。こじんまりとした公園のような大きさだった。

 鳥居の前までくると、僕は立ち止まった。

 僕のはるか上をいく木に圧倒され、見上げていた。久しぶりに空を見た気がした。視線を少しおろすと、鳥居の奥には拝殿があった。

 神社だ。こんなところに神社があったか。道を間違えたのか。歩き慣れた道なのに、なぜ今まで気がつかなかったのか。いや、ついに幻覚でも見るようになったのか......。酔いが思考を鈍らせる。難しいことはまあいいや、と流す。

 疲れが癒やされるような気がして、なにかに導かれるように鳥居をくぐった。神社には街灯がひとつもなく、あるのは月明かりだけだった。晴天だった今日、夜空には雲ひとつない。月が太陽に代わり、神社を柔らかい光で包んでいた。参道に敷き詰められた石畳には、風になびいてザァザァと揺れている木の葉の影が散らばっている。

 参道をすすむと、左手に手水舎(てみずや)があった。屋根があり、石でできている水溜めの上には、竹筒が横切るようにある。そこから水が流れ続けていた。参拝のマナーが分からなかった僕は記憶を頼りに、竹筒から流れでる水を手ですくい、口をゆすぐ。右手を流れでる水にかざして湿らせた。

 財布をあけて、小銭がないか確認する。小学校の野外学習で明治神宮にお参りをしたとき、担任が「50円玉1枚と、5円玉1枚を投げると縁起がいいよ」と言っていたのを思い出した。理由を聞くと、両方ともご縁の「5」がつくからだ、と言っていた。今と同じように賽銭箱の前で。

記憶にしたがって50円玉1枚と、5円玉を賽銭箱に投げ入れた。カラカラカラ......。小銭が木製の賽銭箱にぶつかり、軽い音がした。鈴を鳴らす。ガランガランと古びた音がする。1礼、2拍、1礼。

 僕は、今日のトイレでの出来事を思い出した。小林の「名前だけはいかにもできそうなのに、実際はダメだよな」の言葉を思い出した。営業を狩りに例えている、彼の人を見下したような言い方を思い出した。

「僕を有能な人間にしてください。それができたら何でもします」

手を合わせながら、頭の中で唱えた。




 夜中に目を覚ます。眠りにつく前と変わらない部屋がそこにはあった。

まだ、薄暗い。カーテンの隙間からはいる光と眠気からして、夜中の3時ごろだろうと想像した。時間を確認しようと起きあがる。眼鏡をかけていないからよく見えない。机の上にあったデジタル時計を手にとり、顔にぐいっと近づけてみた。am3:24と映し出されていた。「まだ、あと3時間はねれるな」と、出社までの時間と寝ぼけながら逆算して考えた。


 ———部屋の隅に、黒くて丸い何かある。


 もう一度ベッドに入ろうとしたその時、視界の端に、黒くて丸い何かある気がした。

置物のようだった。最近買ったものを順番に思い出してみるが、置物を買った記憶はなかった。暗くて、眼鏡もかけていない。よく見えない。でも、黒くて、丸い何かがある。

 カーテンを開けて月明かりを入れてみる。机に置いていたメガネをとり、慌ててかける。

「何かがある」ではなく「何かがいる」だったのだ。

 茶色い縞模様をした動物がそこにはいた。まんまるに太った猫のような、タヌキなような生き物。毛並みには艶があり、栄養が行き渡っていることがわかる。目はビー玉のように丸く、月明かりに反射してきらりと光っている。首には真ん中に鈴のついた、赤い首輪をしている。

 その動物は、こちらを一点にみつめている。僕は自分のおかれている現状を理解しはじめ、猫のようなタヌキのような動物を凝視しながら固まっていた。眠気はすっかり消えている。

———なぜこの部屋に? 窓から入ったのか?

いや、窓は確実に閉まっていたはずだ。ついさっき、光を入れるためにカーテンを開けた記憶を思い返し「確かに閉まっていた」と、自分に言い聞かせた。突然の出来事に対処できない身体は、固まるしか役目を果たさない。部屋の隅にいる、その動物をみるしか術がなかった。

 よくみると、右の前足が途中からなかった。ある方の前足だけを床につけて、尻尾を前足に巻きつけ、お行儀よく座っている。丸く黒い瞳が、こちらをまっすぐ見ている。一見すると、よい家庭に飼われている飼い猫にもみえる。

「たぬき......いや、猫?」僕は首をかしげた。

「生物学的な観点からすれば、後者の方が正しい」

その動物は急にしゃべりだした。片方の前足を器用に使いながら、うさぎのように一歩ずつ飛びはねながら近寄ってくる。チリチリンと、鈴の音を鳴らして。

「僕の名前はシャンクス。ご覧の通り、右の前足がない。右目もいまいちよく見えないんだ。なぜかって? 僕がまだ野良猫として生活しているときに、人間に切り落とされたのさ。目は、固い棒のようなもので殴られて見えなくなったんだ。怖い人間がいるものだな」

シャンクスと名乗る動物は、ある方の前足で空を切った。

「でも、助けてくれた優しい人間もいる。その人が名前をつけてくれたんだ。人間の世界にはシャンクスっていう、有名な漫画キャラクターがいるらしいよ。左目に傷があって、しかも左腕がない。僕とは反対だけど。粋な名前をつけるよな」

後ろ足で耳をかいている。そして、片方の前足で丁寧に顔も洗っている。

「猫が急にあらわれたばかりか、しかもその猫が話している。驚くのも無理はないよ。でも、何も不思議がることはない。あの鳥居で君が願いごとを唱えたんじゃないか。だから僕は、君に呼ばれて来ただけなのさ。君が、呼んだんだよ」

君が、を強調する言い方だった。

 シャンクスは直立不動になった僕の足元で、途中からなくなっている左の前足を僕のほうに突き出しながら話している。ふわふわの毛をまとった突起物を、差し出している。僕を指差しているのだろうか。手先がないから、そのジェスチャーが何を意味するのかはわからない。

 鳥居、願いごと......。そうか、自宅に帰る途中に、なんとなく立ち寄った鳥居だ。確かに願いごとはした。でも、話せる猫は呼んでいない。願いごとを叶えてくれる、神様ってやつなのか。何をバカなこと考えているんだ、夢に決まっている。

 ゆっくりと右の太ももをつねってみた。はっきり痛みを感じる。夢ではない、現実だ。両手で顔を覆った。

「あのぅ............。シャンクス......さんがここにきてくれたということは、僕の願い事を叶えてくれるってことですか?」

僕は喉を絡ませながら、途切れ途切れに話しかけた。

「そうだよ。確か君の願いは”僕を有能にしてください”だったね?」シャンクスは明るく頼もしい口調で言うと「ただし条件があるんだ」と重ねた。

「条件......?」
「君の寿命を1日分もらう代わりに、君を1日だけ有能にしよう」
「寿命を1日分............」

 僕はシャンクスが発する言葉を、復唱するしかなかった。猫が現れたことに、猫が喋れること。願いを叶える条件に、対価として僕の1日分の寿命を支払うこと。そして、これが現実であること。非現実的な出来事が重なり、僕の頭はパンク寸前だった。

「なぜ............」僕は喉が詰まり、質問さえできない。

「なぜ寿命なのかと聞きたいんだね? 答えはシンプルだよ。僕の大好物は、人間の魂だからさ」

はぁ、と僕はつぶやく。

「人間の食べ物で例えると、僕にとって人間の魂とは、ときどき贅沢をして食べるフレンチのコース料理、柔らかいフィレステーキ、生クリームたっぷりのショートケーキ。そんなものだよ」

 シャンクスの明るく頼もしい口調は変わらない。その内容がなんであれ。

「ルールを決めておこう。君の寿命を1日分もらう代わりに有能にする。その効力は、君が眠りに落ちるまで続く。つまり朝起きれば消えている、ということだ。それでいいね?」

 僕はうなずいた。でも、1日だけ。翌日にも有能にしてもらいたい場合はどうすればいいんだろう。

「...........もし、もう一度有能にしてほしい場合は、どうすればいいんですか?」

「君が僕を必要とすれば、僕はあらわれるよ。そうしたらまた、願いを唱えるといい」

 シャンクスの答えを聞くのと同時に、抵抗できないほどの強い眠りが襲ってきた。僕はその場に倒れるしかなかった。




 目を覚ますと朝だった。ガバッと起きあがる。なぜか掛け布団がかかっていた。昨日は確か.......強い眠気を感じて、そのまま倒れてしまったはず。そして突然あらわれたシャンクスという、話せる雄猫。彼とのやりとりを順をおって辿った。

(君の寿命を1日分もらう代わりに、君を1日だけ有能にしよう)

 シャンクスの言葉が頭をよぎる。どこか幼さがあるけれど、明るく頼もしい口調だった。茶色の縞模様の、まるまる太った雄猫。ビー玉のように丸い目。艶のある毛並み。鈴のついた赤い首輪。細部まで覚えている。

 そんなまさか......と、僕は笑った。シャンクスがいた形跡はない。昨日と変わらない朝が今ここにある。ごく自然に。昨日の出来事は夢なんじゃないかとまた、思いはじめた。

 起きあがり、洗面台にむかう。顔を水でバシャバシャと洗う。清潔なタオルで顔を拭く。歯を磨く。髭を剃る。シェービングローションで顔を整える。ほら、いつも通りの朝だ。と、僕は鏡に映る自分に対して言い聞かせた。出社するための朝の儀式を淡々とこなした。



 出社すると、シャンクスが言っていたとおり「1日だけ有能にする」が現実になっていた。

 コーヒーを飲むとやる気がでる。集中力がます。その何十倍もの感覚が、鈍ることなく続いていた。脳に血流がドクドクと注ぎ込まれているのが手にとるようにわかった。昨日まで感じていた憂鬱な気分が、一切ない。僕の心にかかっていた灰色の雲が晴れ、太陽が燦々(さんさん)と照り、肌を焼く熱さまで感じるような気分だった。

 今何をするべきか。何を優先してするべきか。進めている業務のどこに問題があるのか。誰にどんな指示をすれば仕事がスムーズに進むか。パッと思い浮かぶ。いつもの電話対応、パソコン作業が食後の歯磨きくらい容易に感じられた。

 この日の11時、取引先の社長との面談の予定が入っていた。その社長は、気難しい性格の持ち主として、営業部では有名な人物だった。面談の内容は難しくない。相手の要望や近況を聞き、今ある案件をより良いものにする。いわばアフターケアのような仕事だ。

 あのトイレでの出来事の張本人、営業部の稼ぎ頭である小林が担当だったが、彼から「別の案件で手が回らないため、代わりに行ってほしい」と頼まれた。面倒なのだろうと推測できた。でも、今日の僕はいつもと違う。そのくらいの仕事、と思えたのだ。

 気難しい社長との面談が終わると、彼の表情からは強張りがなくなっていた。目尻が下がり、口角があがっていた。「無口な頑固おじさん」から「優しい親戚のおじさん」になるくらい、ガラリと雰囲気が変わっていた。喉の奥がみえそうなほど大きく笑う口元には、奥歯の銀歯がいくつかチラついていた。

 彼の身長は僕よりも数センチ大きいが、大きな子供がひとりいてもおかしくないお腹を、紺色で光沢のあるスーツで隠している。それほどの巨体だった。別れ際、彼のグローブのように大きな手が、僕の肩を何度も叩く。その衝撃は、彼の体重がすべて僕の肩に込められているような、そんな叩き方だった。内心、後ろに倒れそうになり冷や汗をかいたが、僕はよろめいたりはしない。顔にも出さない。僕らは熱い握手を交わした。


 残っている仕事を会社で片づけよう。左腕の時計を確認する。気難しい社長と別れたのは、12時半を過ぎたあたりだった。

 営業部のフロアを早歩きで通りぬけ、デスクに戻る。デスクの上に鞄に入れていた書類を無造作に置く。その間、フロアにいる20人あまりがヒソヒソと話し、視線を僕へ突き刺している気がした。目はあわせない。突き刺さっている視線に見覚えはある。「あいつ、どうしちゃったの」と言いだけだった。「いいや、張り切っているわけじゃない。自然とこうなるんだ」と、心の中で返事をする。

 オフィス用チェアにドスンと座る。仕事をしやすい姿勢に整える。すぐさま隣の席にいる後輩のが山下が、キャスターを器用に転がしながら近寄ってきた。

「今日はどうしたんすか。あの気難しい社長が、ご機嫌だったらしいじゃないですか」

 彼の話を聞くと、先ほど面談した社長が営業部に電話をかけてきたのだという。どうやら僕のことを褒めていた。僕を担当にしろと、とまで言っていたという。彼はその情報を、上司たちの休憩場所となっている喫煙室で仕入れたらしい。自分の話題を、噂話のように聞いた。

「社長の愚痴を聞いただけだよ」

 僕はパソコンに入力しながら、彼の問いかけに答えた。愚痴を聞くねぇ......と独り言のように復唱して、彼はキャスターをひいて自分のデスクに戻った。

「今日、昼飯まだだろ? 奢るわ」
「なんすか、珍しいっすね。雨でも降るんすかね」
「そういう気分なんだよ」
「俺、鰻が食いたいっす」
「ばか、鰻、いくらすると思ってんだよ。相場ってもんを考えろ」
「人の金で鰻を食べるのが夢だったんすよね、俺。人の金で焼肉もいいんですけど、今日は鰻の気分なんすよね」
「その夢を今日叶えようっていうのかよ」
「先輩が言い出したんじゃないっすか」

パソコンにむかいながら、軽口を叩きあった。「鰻はさすがにないだろう」と交渉した結果、山下は折れて、昼食はカツ丼になった。


 終業時刻がすぎると、ひとり、またひとりとフロアを出ていく。その度に会釈をする。赤べこみたいに頭を上下させる。そろそろ首が疲れてきた......と思いきや、しばらく誰にも挨拶をしていないと気がついた。

 あたりを見渡すと、誰もいなかった。照明が落とされ、不気味なくらい静かなオフィスに僕だけがぽつんと残されていた。自分のデスクにある電気スタンドと、パソコンから漏れる光が目立つくらい、暗い。始業中には耳にすることのない、正体不明な機械音まで聞こえる。

 僕はひとりきりで、シャンクスと契約を交わし、有能になれた現実を噛みしめていた。

 29年間の生涯で、こんな気分になった経験は一度もない。多分、クラスの中でカリスマ的存在を放つ、有能な人材はこんな気分が毎日続いているのだろうな、と思った。心の中に重くのしかかっていた、払いのけようとしても払い切れなかった、重石のようなものが綺麗さっぱり消えた。サウナと水風呂をくり返した後の爽快感が、延々と続いている気分だった。そのはずみで、僕は今日、はじめて後輩に昼食をおごった。

————あの小林は、毎日こんな気分なのだろうか。

 僕はオフィス用の椅子に深く腰掛け、背もたれに身体を預けた。体重に負けた背もたれが、ゆっくり後ろに傾く。真っ白の天井を眺め、ふぅっと深いため息をついた。トイレでの出来事をまた、思い出した。シャンクスが「それでいいね?」と念を押していた、願いを叶えるルールも同時に思い出した。

( ルールを決めておこう。君の寿命を1日分もらう代わりに有能にする。その効力は、君が眠りに落ちるまで続く。つまり朝起きれば消えている、ということだ。それでいいね? )

————寝ると僕は、有能ではなくなってしまう。

 そうだった、と僕は思った。パソコン横にあった飲みかけのカフェイン入り清涼飲料水をグイッと飲み干し、ふたたびデスクに置いた。缶がぶつかる軽い衝撃音が、誰もいないフロアに響いた。

 スマートフォンで終電の時間を調べる。23時半に会社をでれば間に合うとわかった。シャンクスが叶えてくれた願いが、今日だけで終わってしまうのは惜しい。この感覚が今日で終わってしまうのも惜しい。寝て起きたら、以前の僕に戻ってしまうなんて。と考えながら、パソコンにむかい続けた。

 23時半に会社を出て、最寄駅に到着する。24時をとっくにすぎ、日付が変わっていた。僕はまた目を瞑っても帰れるくらい、歩き慣れた道を進んでいる。すると、この間とは別の場所に鳥居があらわれた。今度は、家が取り壊され「売地」の看板が立っていた空き地に。鳥居の大きさや、狛犬。それらを囲うように生い茂っている木に変わりはない。

( 君が僕を必要とすれば、僕はあらわれるよ。そうしたらまた、願いを唱えるといい )

 シャンクスが言っていたのは、こういうことだったのかと鳥居を見ながら考えた。シャンクスが実在し、寿命を1日分支払う代わりに、僕を1日だけ有能にする契約が現実だったのだと、誰もいない細い路地のうえで静かに確信した。

 目の前には、昨日と変わらない鳥居がそこにはある。僕はもう一度、鳥居をくぐる。石畳を歩き、拝堂の前まで行く。同じ願いごとを唱える。

そして僕は、夜中に目を覚ます。部屋の隅にはシャンクスがいる。




 シャンクスに寿命を1日分支払ったからといって、正直なところ「寿命が減った体感」は全くなかった。

 咳き込んだり、怠くなったり、日に日に弱っていくのではと想像していたが、それどころかむしろ体調はよかったのだ。だからズルズルとシャンクスとの契約が続いた。もう1日だけ、もう1日だけ......。寿命を支払えば、僕は有能になる。仕事で成果を出す。周りからも期待される。気難しい社長は、僕のことを気に入っている。気がつけば、シャンクスとの契約は1ヶ月も続いていた。

「いつもお世話になっております。営業部の横谷です。あの案件についてお伝えしたいことがあり、連絡いたしました。はい......えぇ、そうなんです......。承知しました! 折り返し、こちらから連絡いたします。失礼いたします!」

 自分のデスクにある電話の受話器を置いた。心なしか受話器を置いたプラスチック同士がぶつかる音さえも、耳障りがよく聞こえた。

『XX会社 〇〇様 15時頃、折り返しの連絡をする』

 黄色いふせんにメモをして、パソコンの画面に貼りつける。仕事用のノートに伝えておきたい要件をざっと書き殴った。忙しい先方の時間を奪わずに、どうすれば分かりやすく伝えられるだろうかと考えた。書き殴った部分にさらにメモ書きを加え、文章を組みかえてみる。よし、これでいいだろう。次の作業に移った。

 20人あまりいるオフィスで、僕はすっかり「有能な人物」というポジションを与えらえている。同じ営業部で成績がトップクラスの小林と肩を並べている。当然だ、僕は彼よりも仕事量をこなしているし、成果も出している。いつか彼を越える日がくるのもそう遠くはないだろう。そうなったら彼は「成績がトップクラスだった」という過去形になる。

 僕の働きぶりを見ている部長、木戸の機嫌はいい。僕と視線があう度に、にんまりとしている。そして彼が始業と同時にはじめる、デスク周りをして気に入らないやつに小言を残していく習慣。僕はターゲットから外された。「横谷、この仕事やってみるか?」と、新しい仕事も任せてもらえるようになった。あの気難しい社長とは、個人的に食事をする仲にまで進展した。今夜も、会社近くにある高級料亭で食事をする約束がある。

 小林、あいつには辿り着けなかったポジションだろう。

 カフェイン入りの清涼飲料水を飲みながら、終電まで仕事をするのが習慣になった。不思議と疲れは感じなかったし、睡眠も2〜3時間で足りた。食事をとらなくても空腹が辛いと感じなくなった。仕事をしながら甘い缶コーヒーを飲み、ゼリー飲料ですませていた。

 左腕につけている時計の針を確認すると、時刻はpm17:38を指していた。今日は終電まで仕事をしているわけにはいかない。気難しい社長との待ち合わせ時間がせまっている。20時に高級料亭で現地集合する予定になっていた。会社から30分もあれば到着できる距離にあるが、早めにいって近くのカフェで仕事をしようと、立ちあがった。デスクに広げている書類をビジネスバックに詰める。パソコン、筆記用具も詰める。スーツの上から黒のトレンチコートを羽織り、会社をあとにした。


 僕から”自信”が目視できるくらい、溢れ出ている。大通りに面したオフィス街を一歩ずつ進むたび、湧きあがる自信を噛み締められている。真横で忙しなく行きかっている車の騒音や排気ガス、通りすぎる人々たちが僕を彩る存在のように思えた。

 歩調は自然と大きくなる。早歩きになる。背筋が伸びる。以前の僕は自信がなかったせいい自然と猫背になり、慢性的な肩コリを抱えていた。でも、今では姿勢が正されたおかげで、両肩が軽い。肩コリが解消され頭に血流がよく流れるようになったのか、疲れにくいばかりか、眠っている以外の時間、つねに頭の中で思考が駆けめぐっている。

 ビルの合間から、グラデーションがかった橙色(だいだいいろ)の空一面にみえた。夕暮れの香りをのせた風が、胸元にあるネクタイをなびかせる。僕はなびいたネクタイを掴んだ。何日も前に処分した、別れた彼女から贈られたワニ柄の刺繍入りのネクタイを思い出した。仕事中、ネクタイの先を撫でるのが癖になっていたのを思い出した。触っている間は、退屈な仕事や苛立ちがやわらいでいる気分になっていた、あの頃の僕の心境も思い出した。

 代わりに今の僕の胸元には、1万円もするブランド品のネクタイが飾られている。あの頃の自分はもういない、と僕は思った。掴んでいたネクタイを離し、夕暮れの風に放った。

 僕は目的地のカフェに入り、ホットコーヒーを注文した。オフィス街を歩いている時から僕自身に起こってきた変化について思いをめぐらせ、考えが止められずにいた。心ここにあらずな状態で、お礼も言わずに店員からホットコーヒーを受けとる。

 店内を見渡すと、1人用の席、3〜4名用のソファー席が数えきれないくらい並んでいた。広い席を選ぶことよりも、早く考えごとの続きがしたかった僕は、レジ近くにあった1人用の席に乱暴に座った。 

 そういえば小林————。あいつ、僕と一定の距離を保っているな

と、僕は考えた。

 もちろんトイレでの出来事のようなことは、もうない。それ以前、僕が有能になったことに、彼は動揺しているようだった。社内ですれ違いざまに目があった時。彼のデスクを通り過ぎり、目があった時。必ずむこうから目を逸らす。彼の瞳のむこう側には、僕の変化に恐怖し、自分よりも上の存在になるのを悔しがっているように思えた。牙を抜かれたライオンのようだった。

 『営業はいわゆる狩りみたいなものさ。狩りができないやつはハンターじゃない』

 いつ、このセリフを言ってやろうかと考えた。腹の底からくる喜びが小さな泡のようなって、ふつふつ......ふつふつ......と湧きあがってくる。その泡を本当はひとつずつ拾いたい。手のひらで転がしたり、突っついたりして、じっくりと遊びたい。テーブルに両ヒジをつき、口を覆った。

くっくっ......くふっ......ふっ......。

 あぁ、ダメだ。両手の隙間から笑いがこぼれ出てしまう。この感情は一体なんだろう。高揚感、優越感、幸福感。きっと、どれにも当てはまるだろう。

 すっかりぬるくなったコーヒーをすする。よく考えれば、いつまでも寿命を1日消費している場合ではないのだ。どこかでやめなければならないという気持ちは、いつも脳裏にあった。でも、一度ハマったら止まらないスナック菓子みたいに、いや、それよりも何倍、何十倍も強い病みつき感がある。僕は生まれて初めて、自分を好きになれている。シャンクスとの契約を打ち切り、以前の僕に戻るなんて......。

 以前の僕に戻ったら、仕事は途端にできなくなるだろう。気難しい社長との付き合いも続けられなくなる。第一、小林に言ってやりたいセリフもあるじゃないか。僕はぬるいを通り越して、冷たく、不味くなったコーヒーをしぶしぶ口に含んだ。

 そもそも周りにはなんて言い訳をしようか。「ある日突然、願いを叶えてくれる猫があらわれて、自分の寿命を支払う代わりに1日だけ有能にしてくれたんです」と言ったら、信じてくれるだろうか。いいや、そんなはずはない。ついに横谷は頭がおかしくなったのだと、思われるに違いない。

  気難しい社長と食事をしたこの日の帰り道、僕はまた鳥居をくぐった。



 夜中にふただび目を覚ます。掛け布団を払いのけるように、ガバッと起きあがる。机に置いてあるデジタル時計をみると、am2:58と表示されている。部屋の隅をみると、同じようにシャンクスがそこにいた。

 左の前足は変わらずにない。何も言葉を発さずにそこにいる。僕が語り始めるのを待っているように、行儀よく座り、こちらをみている。その光景だけ見れば、ただ左の前足のない可愛らしい猫の姿にみえる。

「シャンクス、もう1日だけ僕を有能にしてくれ。僕はもう、以前の僕に戻れないところまできてしまったんだ」声を荒げ、僕は言った。

 いつもなら「いいよ」と、シャンクスは気持ちよい返事をする。この1ヶ月いつもそうだった。でも、今日はなぜか答えない。黙ってこちらを見ている。この間は一体なんだろうか。僕たちの間に、沈黙が続く。

「君からもらう寿命はもうないよ」

 沈黙を破ったのはシャンクスだった。罪悪感、悲しみ、哀れみ———。そういった感情は一切まざっていない言い方だった。身体が凍りついたまま動けない。喉には押しつぶされるような圧迫感がある。声が出せない。可愛らしい悪魔だ、と僕は思った。

「......寿命は......もうない?! 嘘だ......そんなまさか。僕はまだ29歳だ。死ぬはずなんてない......」

 僕は途切れ、擦れながら声を発した。耳の後ろで血管がドクドクと脈打つ音がする。息があがり、身体が熱くなる。動揺が隠しきれない。

「答えはシンプルさ、横谷勝成くん」
シャンクスは明るく、頼もしい口調だった。その内容がなんであれ。

「確かに、君はまだ若い。だから当たり前に明日がくると信じていただろう。でも、それは間違いさ。君は明日、心筋梗塞で死ぬ運命にあるんだ。ここ1ヶ月、無理して仕事をしすぎたようだね。有能になれる能力は、寝て起きるとなくなる。だから、能力が続くように、カフェイン入りの清涼飲料水を飲んで、夜遅くまで仕事をしていたね。僕が願いを叶えることによって身体を酷使した。それによって寿命が縮んでしまったんだよ」

「心筋梗塞で死ぬ人はどのくらいいると思う? 年間4万人だよ。君がそのうちの1人になることは、なんらおかしい話ではない。そして君は彼を貶める快楽の虜になってしまった。”彼”が誰かは、見当がつくね?」

「それに君は、別れた彼女からもらったネクタイを身につけていたのを僕は知っていたよ。とっくにボロボロなのに。でも、僕が有能にしてあげた途端、ボロ雑巾みたいにゴミ箱に投げ捨てた。残念だよ、君は人の痛みがわかるいい人間だったのに」

「君はいつだって本気を出さなかったね。小学校のマラソン大会も、中学、高校、大学でも。別れたあの彼女との関係も。中途半端でいいと思っていた。本気で何かに取り組んで失敗するのが怖かった。恥ずかしかったんだろう? だから君は保身に走った。次第に”自分とはこういうものだ”と諦めるようになった」

シャンクスは、僕に答える隙を与えない。

「人間とは愚かなものだね。寿命と引き換えに有能になっても、死んでしまったらすべて無意味なのに。君に足りないのは、僕がいなくても有能になれるようにする、努力だったのかもしれないね。失敗を恐れず、本気になることを恥じずに、弱い自分と向き合うことだったのかもしれないね」

「ち、違う......!」

「違わないよ。いいかい、君は自分に負けたんだよ。寿命と引き換えに有能にするという、手取りばやく結果を得たいがために。人間は愚かな生き物だねェェェ......」

シャンクスの”人間は愚かな生き物だねェェェ......”の語尾が、暗い部屋にひびき渡る。鼓膜にネバネバした何かが張りつくみたいに、耳から離れずにくり返し聞こえる。

 僕の寿命は、あと1日もない。つまり24時間以下。取り返せないことをしてしまった現実に、あと何時間残されているかわからない命を考え、身体の奥から自動的にこみあげてくる震えを止められずにいた。

—————チリン、チリン……。

シャンクスはくるりと背をむけて、歩きだした。そして、すうっと暗闇に溶けるように消えていった。





※余談
筆者は、猫の保護施設でお世話ボランティアをしています。この物語に出てくるシャンクスは、そこにいる猫ちゃんがモデルです。本物のシャンクスは丸くて、ポンポコリンなお腹をしていて、甘えん坊さんの男の子です♡

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