見出し画像

#7 心理カウンセラーの 平野さき です

改めて、自己紹介させて頂きます。

何歳からでも諦めない人生をデザインする心理カウンセラー・コーチ さき

1975年5月生まれ 双子座 AB型

横浜⇨札幌⇨横浜⇨仙台⇨岐阜県中津川市⇨横浜⇨2014年より米ニューヨーク在住 

父、母、兄二人 5人家族の中流家庭

下記、長〜い自己紹介になってしまいました。アラフィフともなると人生いろいろです。

10歳 岐阜県中津川市へ引っ越す

祖母の面倒をみるため、家族で当時住んでいた仙台から父の出身地 岐阜県中津川市へ移住。それを機に、それまでの平和な生活が一転。私は祖母が大嫌いになり、あからさまに祖母へ反抗を始めたのです。

そんな私を、両親や兄たちは「ダメ」な子と非難。私は人格的に「失格」だというレッテルを背負いました。この「ダメ」レッテルは成人しても自分に付き纏い、「ダメ」な人間からの脱却が、私がカウンセリングに興味をもった原因の一つでもあります。

なぜ祖母が大嫌いになったかというと、祖母と同居するために岐阜の田舎へ引っ越したことによって、様々なネガティブな変化が起こった為。当時は、それが全部祖母のせいだと思っていました。その変化とは

  •  転校先の小学校でいじめられる(集団仲間はずれ)

  •  いじめを機に、性格急変(目立ちたがり屋でリーダー的な性格から、人がどう思うかを常に気にするHSPへと急変)

  •  兄と離れ離れ(当時高校3年の長兄は、大学進学を控え、転校を避け独り仙台に残り下宿生活)

  •  父はその前年から大阪で単身赴任。よって5人家族が3拠点に離れ離れ

  •  田舎はつまらない(当時は田舎の良さが分からなかった。今は大好き)

  •  自由の剥離(祖母を残して旅行に行ったり外食したりできない)

私の中・高校時代は、とにかく有名大学へ入るために、親も感心するほど勉強中心の生活を送っていました。今思えば、勉強よりももっと大切なことが色々あったのに。

18歳 岐阜県中津川市から脱出

希望する大学への進学が決まり上京。大学時代は15種類のバイトを経験しました。健康飲料の試飲販売から家庭教師まで。ただし、この頃一番関心があったのは「海外」。

極めてドメスティックな環境で育った私は、中学で英語を学び始めて以来、海外への憧れが大きくなっていきました。大学時代は、1年間のカリフォルニア州交換留学、単独で1.5ヶ月の欧州バックパック旅行を含めて、いくつかの海外体験で視野が広がりました。

19歳 女性としての欠陥

実は、体格もよかったのに、中学になっても高校になっても、全く初潮がありませんでした。高校時代に母と婦人科へ行ってみたものの、明確な診断結果が得られず、当時は受験勉強に追われ通院も中断。大学に入り、さすがにおかしいと、母と共に大学病院の婦人科へ。

検査の結果、私は生まれつき子宮がないこと、だから生理も来ない、と診断されました。また、膣について、今のままでは普通に夫婦生活を営むことが難しいとも。妊娠出産はもちろん不可能。医師が言葉を選びながら私に説明していたことは、今でもなんとなく覚えています。

当時は、彼氏もいないし、恋愛にも興味がなく、これが私の人生で何を意味するのか、ことの重大さがいまいちわかりませんでした。

結局、30代半ばまで、男性と付き合うことを自然と避けていました。いつかこの秘密を離さなければならず、捨てられるのが怖かったので。

「私は赤ちゃんを産めないんだ、、、」という感情の波が予告もなくふと襲いかかることがあり、そういうときは、自然と涙が出てきていました。

20歳 クリスチャンになる

大学の同じクラスで出会ったSちゃんは、今でも私の親友。当時韓国からの留学生だった彼女はクリスチャン。私はキリスト教など全く興味がなかったけれど、ふとしたきっかけで彼女にイエス様のことを教えてもらい、大学3年になる春休み、クリスチャンとなる決心をしました。

自分で頑張る必要はなく、神様の無償の愛を受け取るだけで、神様が私の人生を導いてくれる、というクリスチャンの信仰が、悪くはないなと思ってイエス様を私の救い主として受け入れたのがきっかけです。

その信仰は、その後段々と大きくなり、今でも私の価値観の土台です。

23歳 社会人生活開始

「なんとなく海外に関わる仕事がしたい」と思いつつも、就職活動に乗り遅れた私は、なんとか卒業前に滑り込んだ工作機械のメーカーで秘書室に配属されました。

社長をはじめ社内の絶大な信頼を集める先輩秘書と二人の秘書室。とにかく先輩に言われたことを言われるままにこなし、社長の好きな濃いお茶をいかに上手に入れるか、いかに上手にお礼状を書くかなど、今思うと何をやっていたのだろうと思う6年間を過ごしました。

香典袋に筆ペンでいかに上手に名前を書くか、そんなことに苦戦している間に、Excelのvlookupでも学んでおけばよかった。。。

なぜ就職活動がうまくいかなかったか、なぜ社会人になって仕事がいまいちだったか。振り返ると、私は日本の受験教育の申し子で、自分で考える力が育っていなかったと思います。

与えられたものをこなすことは得意だけれど、自分で新しい道を拓く力はない。就職活動は誰かが手取り足取り教えてくれるわけではないし、仕事でも、言われたことだけをやっていたのでは、いつまで経っても成長しないのに。

もっと早くそれがわかっていたら、もっと早くそれを教えてくれる人に出会っていたら、私の人生は変わっていたかもしれない。その後悔が、私が今カウンセラーとして取り組む動機の一つでもあリます。私のような後悔をする人が少しでも減るように。

32歳 たまたまファッション業界へ転職

その後米国系建設会社でビジネスアシスタントとして2年間勤務、そして、3社目となる転職先が、たまたまニューヨークに拠点をおくファッションブランドの東京支社でした。

それまで男性主体の機械、建設業界で過ごした私にとって、自分に身近な洋服、バッグ、シューズなどに囲まれて働くことが夢のようでした。また、ファッション業界は女性が主流で、自分と同じ年で役職についている女性がたくさんいること驚きでした。

ビジネスアシスタントを2年勤め、もっと商品に近い仕事がしたいと、マーチャンダイジング(商品部)へ異動。買付のため、本社のあるニューヨークへ年4回の出張が始まりました。

ニューヨークの街に触れ、本社で現地の社員と仕事をし、この街に住んで働きたい、という気持ちが年々強まり、抑えきれないほどに。

もしもチャレンジしなかったら、私は一生後悔すると自分でも明らかにわかりました。30代後半、本気でニューヨークへ移住することを考え始めました。最難関は米国の厳しいビザ事情。社内異動ができないことはわかっていたので、会社には一切頼みませんでした。

学生ビザで1年間のAssociate学位をとり、その後就職先を見つけ、就労ビザをスポンサーしてもらう、これが私にとって唯一アメリカへ渡る方法でした。もうやるしかありません。

39歳 誰も待っていないニューヨークへ単独移住

大学はFashion Institute of Technologyというニューヨークの州立大学で、ファッション マーチャンダイジングを専攻。私はすでに日本でその仕事をしていたので、仕事に関して新しく学ぶことはありませんでした。ただし、課題が多くて、遊ぶ暇もなく学業に追われていた1年。

39歳でニューヨークに渡る人の多くは、優雅な海外駐在や、結婚で彼の待つニューヨークへなどが主流でしょう。一方、私は、将来の保証もなく、0からのスタート。学生ビザではバイトもできないので、貯金を切り崩して学費と生活費を賄っていました。1ドル節約するために、大学構内にあるスタバではなく、隣のブロックのマクドナルドへコーヒーを買いに行っていました。

さらに、ニューヨークの家賃は東京の2倍以上、とても一人暮らしする余裕はなく、シェアハウスで間借り生活。最初の5ヶ月は、ブラウンストーンの真ん中で、小さな天窓しかない小さな暗い部屋で生活しました。日本では古い3LDKのマンションで自由気ままに生活していたので、大変化でした。

いよいよ卒業を控え、就職先を見つけるために30社ほどファッションブランドに応募したものの、1社からも返事が来ませんでした。絶望のなか、藁をもすがるように、ありとあらゆるツテを頼って、コンタクトしました。

結局、前職のニューヨーク本社の知り合いにコンタクトし、たまたまマーチャンダイジングで空ポジションがあり、採用されることが決まリました。ニューヨークで働くという夢が叶ったその瞬間は、今でも忘れられません。心配していた日本の母に一番に連絡し、家族も喜んでくれました。

43歳 大失恋

ニューヨークに来て2年目、同じクリスチャンの彼に出会い、お互いに結婚を考えて真剣に付き合い始めました。40歳を過ぎて、ようやくパートナーに出会えて、家族のいないニューヨークで、私にとっては彼が家族のようなよりどころでした。

彼には色々なアメリカ経験をさせてもらったし、アメリカ国内の色々な場所へ連れて行ってもらいました。ただし、楽しいことばかりではなく、チャレンジも沢山経験しました。プログ100個くらい書けそうなほど。

一番のチャレンジは、彼のことをまだ大好きな元カノの存在が常に彼に付き纏っていて、私はそれに上手く対処できなかったこと。私の自己肯定感の低さ、自分軸のなさ、感情のコントロールができないこと、罪悪感、などなど、心理学のあらゆる問題がむき出しになりました。

その経験を通して、パートナーシップについてたくさん学びました。日本の友人に根本さんのブログを紹介されたのもこの頃です。

結局彼は、私と別れることを選びました。私と別れた2週間後に、その元カノと婚約したことを、それから数ヶ月後にネットで知りました。

彼を失った私は、絶望的でした。朝起きてその現実に直面するのが怖く、体の芯がゾクゾクするような、今まで体験したんことのない孤独感を感じていました。彼と別れて2年半は、毎日彼のことを考え、その元カノへ嫉妬していました。

この苦い恋愛を通して学んだことは数知れません。そして、最大の成果は、カウンセリングとの出会い。彼に誘われて、彼が信頼するカウンセラーのところへ、二人でカップルカウンセリングを受けに行きました。

それは私の人生で初めてのカウンセリング体験で、目から鱗でした。自分を変えていくために、親身になって自分と一緒にかつ客観的に取り組んでくれるプロがいるということを知り、カウンセリングに魅了されました。

そして、自分も将来カウンセラーになり、老後動けなくなるまでカウンセラーとして働きたいと思うようになりました。そこで、43歳のとき、州のカウンセラー資格を取るために必要なメンタルヘルスの修士課程に入り、アメリカでカウンセラーになるための勉強を始めました。

47歳 渡米8年目

私の場合、仕事を失えばステータスも失い帰国するしかないので、会社のリストラ、トランプの移民政策、コロナ禍でのさらなるリストラなど、仕事、ビザの危険と常に隣り合わせでした。マズローの法則で言うと、欲求の2段階目、安全の欲求が保証されていない状態。

日本にいた頃は味わったこともない不安定を抱えながら、渡米して8年目にして、永住権申請への道が拓かれることにより、ようやく安定の兆しが見え始めました。アパート購入、8年ぶりの一人暮らし、起業、など、新たな生活のチャプターがニューヨークではじまっています。

私はこれからもずっとアメリカで生活を続けたいと思っています。日本は大好きだけれど、なぜそこまでアメリカにいたいのか。それは、日本とは異なる「自由」があるから。日本にいた頃の常識を全て捨てて、素の自分で生きていく、厳しいけれど行動を起こせば可能性に溢れている。

英語のハンディキャップがあっても、日本での学歴が通用しなくても(早稲田慶応なんてアメリカでは誰も知らない)、真の自分に向き合って生きていく生活が私にはとても心地よい。

何歳からでも諦めない人生をデザインする心理カウンセラー・コーチ
平野さき

この記事が参加している募集

自己紹介

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?