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デブが痩せて美人になれたら摂食障害に片足突っ込んで死にたくなった話

蝉の声を聞くと、ダイエットに成功して男性に復讐の真似事をしていた20歳の夏を思い出す。

7年前、私は167cm 63kgだった。ぽっちゃりだった私が直面してきた扱いは、思い出すだけでもそれはそれは悲惨なものだった。

卒業アルバムの撮影で、女子皆が「かわいい」と言われる中私だけ誰もなにも言わなかったり。下宿先の大学生に「ブス」と言われ続けたり。なにか褒められるときは身体能力や頭脳のことだったり。先生から好かれるのはノリが良かったり容姿が良い子だけだったり。

また高校の模擬店では売り子を希望していたのに、かわいい子が売り子になって自身はバックグラウンドの仕事にされたり。

一つ一つは些細なことだったけれど、他人の態度は思春期だった自身にとって浅く何度もナイフで切りつけられるような感覚で、蓄積した傷跡はいつしか自己評価へと姿を変えた。

全てが容姿に起因した出来事ではなかったのだろうけど、当時は他人のそういった態度はすべて「自分はブスなんだ」といった認識の材料になっていった。また平均体重内ではあるものの、周囲と圧倒的に異なる骨格の大きさや足の太さといった物理的な面からも自覚が働き、いつしか自身のことを「デブでブスな人間」と認知するようになっていた。

地元の高校を卒業し、都会の大学に入学してからもその認知は褪せることはなかったし、周囲にいた男性もまたそういった態度の片鱗を隠そうともしなかった。彼ら自身は毎日1限に参加してSの成績を取るようなブスよりも、出席の代返をお願いしてテスト前だけ他人のノートを写生してうまく切り抜けていく美人のほうが、圧倒的に価値があるような態度を崩さなかった。虐待から抜け出して少ししか経っておらず、笑顔も作れなかった私に対してグループワークですら目をあわせようとしなかった人もいたし、美人に提供するための授業ノートを手にしたいがためにだけ私を利用してくる人もいた。

ここでは、容姿の良さやノリの良さ、そしてそれを武器に要領よく生きていくことが正義なのだ。虐待から逃げられたのに、都会に行けばどうにかなると思っていたのに、むしろ容姿の良さや実体のないコミュニケーション能力に不随するメリットは田舎と同等か、それ以上だった。
かといって勉学の手を抜いたり、バイトをさぼるような真似ができるほど不真面目でもなく。ひどい眩暈と鬱屈した感情を飼いならしたり昇華したりもできず、日々真綿の糸で首を絞められているような不快感を覚えていた。

大学2年生になり、部屋の片隅でスマホをいじりながらまた鬱屈とした気持ちでいた。上京してからの一年、いやもしかしたらその前よりもずっと昔からこんな気持ちはずっと私の中を支配していた。自分が嫌いだった。キラキラした未来を切望して、履けなかったスカートを履けるようになったり似合う服を選べるようになっても、私はずっと自己を肯定できなかった。

と同時に、このままでいいのだろうかと囁く自分も居た。
他人を羨み、自身を蔑む。こんな思考はなにか自分にとって利を齎すのだろうか、と。

そんなわけではないことはもう明確だった。ずっと私は見てきたはずだ。容姿が優れた人間がどれだけ得をし、他人を使い、愛情をほしいままにしてきたかを。

そして自分は思っているはずだ。私も自信を持って人の目を見て話せるようになりたいのだと。卑屈のまま生きていきたくないのだと。私もそちら側に行きたいのだと。

こうして私は、「デブでブスな人間」から抜け出すために努力を始めた。

◇ ◇ ◇

「どういったダイエットをしたのか?」に関してはここではあまり重要ではないので箇条書きにさせていただく。当初の目的は167cm 55kgになることだった。

・食事量の見直し
・腹八分を意識する
・毎日筋トレ(無酸素運動)→1時間散歩(有酸素運動)
・食べてすぐ横にならない
・徹底的に間食を避ける
・食べ物が欲しくなったら水orカフェインレスコーヒーを飲む
・ストレッチとマッサージを1時間
・お腹が空くまでご飯を食べない
・一口につき30回噛む
・毎日体重を計測する

これらを行い、結論だけ述べると4か月で目標を達成できた
フェイスラインはシュッとし、目は大きくぱっちりになった。
太ももが邪魔で膝が見えないようなこともない。身体が軽く、何をするのにも億劫ではない。手持ちの服がブカブカになって全部買いなおしになったし、服の選択肢も増えた。洋服が好きなので、嬉しい悲鳴だった。

また、これまで面倒でしていなかった化粧も覚えた。
すると、所謂万人受けするような顔ではないが個性的な美女になった。

これまでは鏡を見ることが嫌いで、歩く時も顔を下げていた。私の姿を捉える他者の目が私を見下して不細工だと言っているような気がして、誰かと目を合わせたり前を見て歩くことが怖かった。

でも、目に見えて数値が変化したり、身体の軽さを日々実感する中で、少しずつ顔をあげて歩けるようになった。そして服や髪形を清潔感溢れるものに整え、化粧を施せるようになってからは自然と胸を張って歩けるようになった。

そこで初めて、「私は変われたのだ」と感じた
誰かと相対するときに目を見て話せる。「この人はこういう表情をしているのだ」ということを理解しながら会話ができる。自分の顔や体型を気にしながら話さなくてもいい。

これらはもしかしたら当たり前なのかもしれない。でも私にとってはこれまでなかった価値観と気付きだった。誰も私の顔を揶揄しない。身体をなめつくように見回して「デブ」なんて言わない。そんな世界がこんなに生きやすいなんて、知らなかった。

幸せだった。これまで私に見向きもしなかった人たちが私に声を掛けてくるようになるまでは。

学食でご飯を食べていたら、知らない人が「飲み物あった方がいいでしょ?」と新品のペットボトルを机に置いて行ってくれたり。サークルで「痩せたね」「可愛くなったね」と言われる様になったり。ふと視線を感じた先を追いかけてみると、陽気そうなグループが「今度遊ばない?」と声を掛けてきたり。とにかく、私の人生では起こりえなかった異性からの接触が爆発的に増えたのだ。

素直に戸惑った。
声を掛けてきた人たちの大半は、所謂カーストの「一軍」に属しているような人たちだったからだ。

私は卑屈なところがあるけれど、じゃあ誰にも話しかけないのか?というとそうではない。初めて大学でできた友人は「お昼ご飯のパンを分け与えた」ことで仲良くなったし、友人がいない状態でもサークルの見学に行って活動に参加することもできる。そのため大学での活動範囲は案外広かったし、多種多様な人がいる場所に参加することだってあった。その中には一軍の人もいたけれど、話しかけても曖昧にはぐらかされて去って行かれることが大多数だった。

その人たちが、今私を見つけて話しかけてくれている。
この事実は私に今までに覚えたことのない高揚感を与えることとなった。

私はもう誰かにハブられて惨めな思いをしたり、ブスだデブだと言われなくて済むんだ。雲の上の存在だと思っていたものと、同等に扱われている存在になれたのだ。

ダイエットをする前に切望していた、容姿の良さでメリットを享受できる側の世界に行けた事実は、私に多大な幸福感を齎していた。

高揚感と幸福感を覚えた私は、与えられる数々のお誘いに乗って異性や友人との付き合いを加速させていった。誕生日が近かったこともあり、20歳のお祝いはもう覚えてないくらい沢山の異性に誘われてデートをした。「かわいい」「スタイルがいい」「美人」という言葉が挨拶のように交わされる空間が常に周りにあって、私を罵倒する陰口やすれ違いざまの悪意なんてものは目の前を掠ることすらなくなった。

それなのに、言葉によって得られる幸福感の飽きは案外すぐにやってきた。
「あー、世の中のかわいい子は幼い頃から容姿を褒められ慣れているから、容姿を褒める言葉には必要以上に高揚せず、お礼をいうだけらしいって本当だったんだな」という、どこかで聞き齧った知識だけが私の中に残った。

これででたらめな付き合いも終わらせられれば良かったのだが、そうはいかなかった。言葉による承認欲求を満たした先にあったものは、満足ではなく空虚と不安感だった。

出会う人出会う人、皆私の顔やスタイルを褒めてくれる。正直贅沢な悩みであることは自覚していたが、この時期は「目を合わせて話す」「よく笑う、愛想よく話を聞く」だけで話していた男性が私のことを好きになる現象が多発していた。

容姿で明確に線を引かれていた人間が、容姿で好意を恣にする。
愉快だった。気持ちが良かった。好きでもない男性に適当に愛想を振りまいて好意を集めることで、自分自身の価値が高まったように錯覚する瞬間が幾度なく訪れた。

それなのに1人暮らしの家に戻ると、深い恐怖心と不安感に襲われた。

私に声を掛けてくる人達は太っていた時期を知っていて近づいてきている。もしまた太ったらこの人たちは私から離れていくのかな。またデブでブスだって言われるのかな。悔しい思いをして、それでもブスだから我慢しろってことになるのかな。

この時期の食事量は1日かけてコンビニサラダ1個と水だけだった。
お腹が空いて鬱々とした感情と飢餓感が胸中を支配していたけれど、朝晩1時間かけて散歩したりマッサージしたりととにかく細い体型になることを目的に生きているような時間を過ごしていた。それなのに、ある一定の時を境に体重のデジタル数値は51.9kgを示したまま減ることはなくなった。

いまならわかる。もうこの時の私は狂っていたんだと。
52kgなんて女性の平均身長 (約158cm) 程度の平均体重なのに、それよりも身長が9cm高い私がこれ以上減らそうと血眼になるべき領域じゃない。
それでも、何故か私はまだ自分が太っているような気がした。肋骨が浮き上がっていても、身体が横から見たらペラペラになっているのも知っていたけれど、毎日体重を測って0.1kgでも増えていたらその事実がストレスになった。運動量を増やしてどうにか減らそうとしたけれど、それでも体重計は51.9kgよりも減ることはなかった。

世の中顔じゃない、正しく努力していればいつか報われる、なんて美しい価値観が支持されているし、最近はボディポジティブだ多様性だなんて言葉も当たり前に呟かれるようになった。世間の価値観が一律ではないことくらい、それくらいは20歳の自分でも頭ではわかっていた。

でも、現実はどうだ?
あの人たちは、私が太っていたころは見向きもしなかったのに。
痩せて美人になったら笑顔を向けるだけで態度を180度変えて関わってくるようになった。太っていようが痩せていようがその前後で私の価値観や性格はさほど変わっていないのに、たかだか見た目だけでこの変わりようだなんて、結局世の中は容姿じゃないか。

男の人は、見た目さえよければ中身なんてどうだっていいんだ。それなら、もっと痩せていなきゃ。太らないようにしなきゃ。人が離れていかないようにするために、好かれる人間を演じなきゃ。

私の中身になんてなんの価値もないもの。

逸脱した思考もダイエットももう自分では止められなくなっていった。むしろ加速して、その価値観にがんじがらめになっていった。

容姿の良さやノリの良さが正義であるという価値観が嫌だったのに、今の私はその価値観の奴隷になっている。ルッキズムの呪いから逃れたはずなのに、誰よりもルッキズムを追求している。卑屈だった自分を変えたくてダイエットを始めたのに、どういうわけか卑屈に拍車が掛かっている。

なんなんだ?これは?
こんなの辞めたいのに、また元に戻ることを考えるだけで地獄でしかない。
どうすればいいんだろう。こんなの望んだ未来じゃなかった。のに。

人から求められる快感を捨てられない。
丁寧に扱われる現状が続かないのが怖い。
美しいことで得られるメリットを捨てられない。
痩せていない自分に価値なんてないと思ってしまう。

出会ってきた男性は数えきれないくらいになっていたのに、誰の顔もぼやけて不明瞭なまま。自分を好きになってくれそうな人間を嗅ぎ分けて適当に愛想を振りまく。好きだった料理もしなくなって、好きなスポーツができるサークルに参加できるだけの体力もなくなって、それでも痩せていて美人でいることを追求する。

なんだ、自分は結局嫌悪していた人間と一緒だったんだ。
中身なんてどうでもよくて外さえよければいい。他人によく思われたくて態度を変える。自分のために他人の好意を利用する。

あの人たちは私が好きだったわけじゃない。私の愚かさを利用していたんだ。あの人たちは空っぽだ。そして私もからっぽになってしまった。
間違えてしまった、なにもかも。

気付いた時にはすでに季節は冬になり、私の目の前には誰も残らなかった。


◇ ◇ ◇


結局、この後精神のバランスを大きく崩し病院にかかることになった。
かかった病院で双極性障害だと診断されることになったのだが、同時に摂食障害の症状も見られると指摘されて、初めて食事量と体重について客観的に見る機会がやってきた。

そこから2年近く、双極性の治療と共に食事という行為に向き合うことになる。体重は54kgになり、また走れるようになった。もちろん最初からうまくいったわけではないし、チューイングという摂食障害の一種の行為をしてしまったことだってある。

あれだけ困難を覚えながら治療をしていったのに、結局現在は双極性障害の影響でご飯が食べられなくなってしまった。でも、体重も50~53kgの合間にいればよしというラフな価値観でいられるようになった。あの時期はキャベツの千切り200gを塩コショウで食べるだけで1日が終わっていたが、現在はピザもとんかつも食べる。ラーメンも豚骨全部乗せを食べたりする。それでも体重が以前のように戻ることもない。

私がかつてあそこまでルッキズムに追い詰められてしまった要因を一つにまとめることはできないけれど、あえて挙げるとしたら「自分がどういった人間でありたいか」「自分がどういう人と付き合いたいか」という所謂自分基準の価値観を持っていなかったことに起因すると思う。

例えば、「自分が」45kgになりたくてダイエットするのと、「他人が痩せているから」45kgまでダイエットするのでは中身が違う。
前者は自分の価値観ありきだが、後者は他者基準だ。そして他者とはたいてい不特定多数で、SNSの加工された美女かもしれないし、クラスにいるたまたま痩せている人かもしれないし、はたまた親の妄想上で仕立て上げられた空想上の人間かもしれない。いずれにせよ、他者とは自分ではないのだ。身長や骨格、筋肉の付き方も違えば体質だって違う。誰しも自分と一緒のものを持っているはずはないのに、明確に「この体重以上はデブ」なんておかしな話だな、と思う。世の中、身長-120の体重を推奨する価値観が未だに蔓延っているが、個人的にBMI23~19くらいであれば心配されるような体重でもないと思っているので、身体を健康的に保つことを忘れないようにしていってほしい。

私のダイエットの動機は、最初こそ健康的だったものだった。
人の目を見て話したい、自信を持ちたいという前向きな感情をエネルギーにして、極端なダイエットをしないように気を付けることもできていた。

それなのに、途中で異性からの好意を浴びせられるようになってからは、他人からどう見られるかやどう思われるかに目的が移行して狂ってしまった。
決してその人たちが悪いとは思わない。ただ単純に、そういう人たちを私が相手にしなければよかったのだ。

周りを見渡してみれば、太っていても痩せていても態度を変えなかった人はそれなりにいた。また完全な自業自得で男性不信になっていたが、最終的にそれを救ってくれたのは大学1年生から付き合いのあった男性の先輩だった。

私が付き合って大切にしていくべき人間は圧倒的に後者なのに、かつてのコンプレックスを取り戻すように容姿で態度を変えてくる人と関わってしまった。そういう人たちに求められることで、かつて容姿で態度を変えてきた男性たちに復讐をしているつもりになっていたのだと思う。

だが、私がそうであるようにその人たちも変わらない。高校3年生で私のことを「ブス」だと言い続け、反論すると「ブスなお前が悪い」といった短大生はきっと今でもその態度によってさまざまな人を不快にさせているのだろうし、それを良しとする方々に囲まれて生きているのだろう。

私は決してそのような価値観を肯定はできない。自分の好みかそうじゃないかで女性の容姿を揶揄し、相手から自信を奪っていく。まだ私は入口で引き返せたけれど、一生自身がどうみられるかを気にして整形や摂食障害から抜け出せなくなってしまう女性もいる。それを、「お前がブスなのが悪い」というひどい言葉で片付けられてしまう精神性を、「多様性」なんて優しい言葉で片付けることはできない。

だから結局のところ、私があの時狂わないようにするにはそういう人たちに関わらないことが一番だった。周りの声と自分の心の声をよく聞いて、付き合う人となりたい身体を選ぶべきだった。虐待、病気、いじめなど過去の経験から自信を奪われていたことも大きかったけれど、最終的に自分の価値観を持っていないと人は流されるのだということを知った。

この先、まだまだ暑くなる。
薄着で過ごすことで自分の体形を気にしたり、画面の向こう側の作り物を見て「自分はなんて醜いんだ」と思うことがあるのかもしれない。

でも、美人もブスも経験した身からすると「どういう自分であっても最終的に精神が伴っていないと死にたくなるよ」ということを伝えたい。

身体は噓を付けても、表情を偽っても、心だけは欺くことはできない。
自分の心が何を望み、どういう生き方をしたいかが定まっていないと最終的に自分の中には何も残らない。容姿だけで得られるメリットの賞味期限は案外短い。そんな人生は虚しい。

蝉の声がやかましいくらい響く。
Twitterでも「短期間で-5kgできるダンス」なんて動画が吐き捨てるほどに流れてくる。instagramでは美女が自撮りをあげて複数の人からコメントやいいねを貰っている。

これだけ多様性と叫ばれている世の中でもルッキズムは永遠に残り続けると私は思う。それでもどうか、このnoteを読んだ人が1人でもルッキズムの呪いから解放されますように。

サポートしてもらえたら今後も頑張る原動力になります。よかったらどうですか?