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二度目のモラトリアムは星屑のように消えた。【前職決別編-下-】

名前というものは厄介だ。一度知られると、それを消すことは難しい。名前を変えても個人を知られてしまえば、それは尚更だ。その名前から想像できる中身が悪い印象であればあるほど、人間はどんどん自由を封じられる。

自分が壊れかけているものの、そのまま3ヶ月ほど経って、部署MTGが行われた。全て終わった後、他のメンバーがまだ聞いている場で「こないだのミスが騒ぎになったから、上野さんにも共有しておくことになったから」と言われた。

上野さんとは、まあ言うなれば部長のさらに上の、専務みたいな役職の人だと思っていていい。そんなひとにこないだのミスを共有する?これは一体なんの話だ?と面食らって聞き直すと、「霧島さんが精神疾患を抱えてること」と短く吐き捨てられた。部長も他のメンバーも聞いているのにも関わらず、だ。ちなみに騒ぎになるも何も、障害者手帳を拾われた時はすぐに会議室へ移動しているし、休みたいと電話した時も私は一人で個室に居た。私はもちろん言うはずがないので、つまりメンターが誰かにそのことを言わないと騒ぎになりようがないのである。

そもそも障害がミスってなんだ?落ち着こうと吸った呼吸でひゅ、と喉がなる。自分がそうであることが他人に聞かれてしまった恐怖と、言葉の理解できなさに意識がトリップしそうになる。でも同時に、画面の向こうにいる人たちはなんの驚きもなかったことを理解した。

知っているんだ。私がそうだってことを。

心拍数が上がる。呼吸がどんどん浅くなる。あ、これは過呼吸になるやつだ、と分かって、せめてこれが終わるまで我慢しようと思った。私が居る場所は会社だ。この場でそんな状態になったら何を言われるのか。

「嫌です」とだけ伝えて、MTGを思わず退出した。失礼なことをしている。これは部長に許可を得て有給を使った日のように、後で電話で怒鳴られる行いだろう。でも。

【あなたの病気を俺が請け負うよ】と言われたメンターの顔が浮かぶ。それは許可なく私のセンシティブな情報をばら撒きます、という意思表示だったのか。気持ち悪い。日本語が通じない。私の嫌だという意思表示がすべて無視されている。怖い。許可なく個人情報が広められる。情報はデジタルタトゥーと一緒だ。一度広まったらそれを回収するのは困難だ。誰が私のことをどこまで知っているのかわからない。斜め向かいに座っている部署の先輩と目があって、思わず顔を下に向けた。パソコンの横に置いた手が震えているのが目に入った。あ、これは泣く。自分の状況を他人事のように理解していたけれど、同時に「病気の奴はすぐ感情的になるから疲れる」と言ったメンターの声が私を現実に引き戻した。

足早にトイレがある階まで移動をして、個室の鍵を閉めた。便座に座る余裕もなく、誰がどこを踏んだか分からない地べたに身体を投げ出した。涙が出る。ひんやりしたコンクリートが顔の半分を侵食して、お返しに私の涙がコンクリートを侵食した。

自由が他人に脅かされていく。個人の尊厳が無視されて、望まない侵略をされている。なんで、嫌なのに。やめろって何度も言ってるのに。部長にも先輩にも、メンターのことは何回も相談しているのに。誰もがメンターの味方だ。分かってあげてと理解を求められるから、直せと言われたところは全部直した。メンターのやり方を踏襲しても、何故そのやり方にしたんだと言われる。何が正解で何が間違いだ?私の何が悪いんだ?

死ぬほど怒鳴られて私の人格や障害に赤をつけられても、それが辛いのは逃げなのか?「普通」じゃない自分は、そこまでして誰かの矯正を受けてまともにならないと、怒鳴られる日々を続けるしか生きる道はないの?

私の落ち度はなんだったんだろうか。ここまでの行いは、あの日障害者手帳を落としたことから始まった。ならば、私が障害者であることが落ち度だったのだろうか?

仮に私が障害者であったことが落ち度だとしよう。その前提であれば、障害を黙って一般雇用で擬態していたことが世間的には許されないと知らなかった私が悪いことになる。私が知らないだけで、障害者は障害者雇用を受け入れることでしか働くのを許されていないのかもしれない。

それとも単純に社会人経験が浅くて上司の言う「社会」を知らないからだろうか。されど、あの日から態度が一変したことに説明が付かない。社会人経験が浅いのなんて、私のことを叩くための材料として良い格好のネタだっただけだ。要は、叩けるものはなんでも叩くために利用されたに過ぎない。

そもそも私はそんなに悪いことをしたとはどうしても思えなかった。私が障害者雇用を知ったのは社会人になった後だ。なんならメンターが言うまであんまり知らなかった。それまでは世の大学生がやっていたようにESを提出して、面接をして、なんら変わりない就活をしていた。前職だってそうやって入った。私から言わせてみれば【健康な偉い人が決めた人間を雇うルール】に従って就職活動をし、それを通過した上で働いているのだ。そもそもメンターだって部長にくっついて面接の場にいた。部長が推したのか、それとも人が単純に足りなかったのか経緯はよくわからないが、こちらの経歴を包み隠さず開示した上で、一応メンターに会って採用されているのだ。どうしてそちらが提示したルールをそのまま利用しただけなのに、今更メンターから攻撃されなければいけないのか分からなかった。

メンターが言うには、障害者で院卒の私は社会人経験が浅く礼儀も知らない、人前に出すと恥ずかしい人間らしい。嫌なことを嫌だと表明すると、それを若くて経験が浅いから何もわかっていない、とどうしようもないことを揶揄されて口を封じられる。

こんなことは何も珍しくない。私の身の回りで何度も見てきた対応だった。もう10年近く前にしてしまったリスカの痕を指摘されて「メンヘラ」と言われてからかいの種にされたこともあったし、会社を病んで休職した友人を心配した時も、「お前みたいな頭がおかしい障害者と一緒にするな」と一線を引かれた。鬱とはいえ許せないと思ったのは、私の心が狭いからだろうか。それとも私みたいな双極性障害を持っている奴は別の生き物とでも言いたかったんだろうか。もう今となってはわからない。

現在分かることとして、障害者であることも私が若いことも、私という人間が普通に生きていくのを許してはくれない証拠らしい。先に挙げた経験はどれもプライベートで受けたものだ。理性で動くであろう仕事の場で、まさかそんなステレオタイプな対応を受けることになるとは思わなかった。どれだけ仕事ができるようになっても、どれだけ残業をしていても、【霧島美桜は障害者で社外人経験が浅い】の事実だけで私は個の侵害を受け入れないといけないらしい。

もしそれがまかり通ったとしても、私はどうしても自分が悪いとは思わないだろう。私を責めるなら、私を障害者たる者に仕立て上げた人間も責めないと整合性がとれないんじゃないか。なんで一生私だけがそれを背負って生きなきゃいけないんだ。障害者になったのも、社会人経験が浅いのも私のせいじゃないのに、何故勝手に弱点だと思われてボコボコにされるんだ。

私は別に誰かに暴力を振るったりなんかしない。夜中に電話をかけて脅すような真似をしたこともない。もちろん気に入らないことを電話で何時間も怒鳴りつけて、挙句「自分も暇じゃないしこんなことで時間を取らせるな」なんて言ったこともない。私は自身の手によって他人を傷つけることを何よりも恐れている。私はいつか無敵の人になるかもしれないと、誰よりも自分のことを恐れている。

それでも、私が若くて障害者の名前が付いているから、他者の迫害を飲み込まなければいけないんだろうか。誰に聞くこともできず、私は壊れた。

◇ ◇ ◇

話が終わるころには、机の上にあるノンアルドリンクの氷がほとんど溶けていた。二口ほどしか飲んでいない。アルコールなんて一滴も入っていないのに、過去の記憶に酔っているような気分だった。お洒落な店の一角、親子ほど年の離れた男女が語らっていて、氷のように冷たい表情の女が居たらどう見られていたんだろう。吐き出すように私は言った。

「あれだけ責められても、最後まで私が悪いとはどうしても思えませんでした。【霧島さんのために言っている】と大義名分を掲げていたあの人の行いは、私にとっては苦しいことばかりでした。社会人経験が浅くて、病気の自分はそれを受け入れないと働けないのかなって…もうなにもわかりませんでした」

最後は最寄り駅で子供1人を連れた夫婦を見て、もう仕事を辞めようと思った。男性が一瞬メンターに見えて、その場で崩れ落ちた私にこれ以上仕事を続ける選択肢は無かった。

辞める、と直接部長に言い辞表も出したのに、まだ頑張れると突き返された。既に頑張れない私は、正規の手段ではないことを知っていたけれど、人事に直接パワハラの記録と辞表を特定記録郵便で送った。辞表には、一身上の都合という生易しい理由なんかではなく、【メンターの度重なるパワハラに心身が耐え切れなくなったので辞める】としっかり記載した。礼儀もクソもない。もうなにも考えられる精神状態じゃなかった。

一か月くらいの沈黙があって【パワハラの事実確認を霧島さんが望むなら、あなたの記録に記載があった人全員を呼んで、直接確認します】とメールが返ってきた時は泣き叫んだ。会社は社会のためだのなんだのといって、障害者施設への支援だったり、遠い国の労働を支えているだったり、あたかも弱者の味方ですと打ち出している。が、結局それは小さく注釈がついていて【※ただし私たちの安全を脅かさない人に限る】とあるらしい。怒声の音源も残っていて、記録も分単位できちんと記載していて、携帯にメンターから電話がかかってきた履歴もきちんと残っているのに、これ以上なにを確認するのだろう?

会社から出された電子媒体の退職アンケートやらには、あらかじめ離職理由の欄に「自己都合による離職」と会社側が記入していてこちらからは編集できないようになっていた。要するにアンケートでもなんでもない。

あれだけ人権などという美しいものを掲げている会社は、辞める奴の人権なんかどうでもいいらしい。私以外の人間の現実は、パワハラしたとて砂糖菓子より甘い。

結局退職アンケートは出さなかった。その後家に届いた離職票には「自主都合による退職」と誰かの直筆で書いてあった。私はいつそれに同意したことにさせられたんだろう。なにも納得できないままいつのまにか辞めさせられた。

散々隠蔽に走ったくせに、なにがあったのかは分からないがメンターは懲戒処分を下されたらしい。このことは、辞める直前に唯一その意思を伝えた秋田さんがメールで教えてくれた。

意味が分からなくて頭がくらくらする。そうなるならなんで私はあんなに心をすり減らさなきゃいけなかったんだよ。会社を辞めると伝えてからの1ヶ月なにをしてたんだよ。部長にもう無理だって何回も相談したし、先輩にもあの人の仕打ちを説明して助けを求めたのに【あの人は不器用な人だから】と流された。

なにもわからない。会社も人も。
私だけ知らないルールの上で生きているみたいだ。最終的な判断に対して戦うこともできず、最終的には冒頭の布団の上で死んだように生きる亡霊に私は成った。

「あの人に子供も奥さんもいることは知ってました。生まれたばかりで、目元が奥さんに似ている可愛い娘だと自慢しているのも知っていました。でも、あの人の家族なんか知ったこっちゃなかったです。家族がいるなら勘弁しろという理論が成立するなら、私にだって夫がいます。優しい人です。夫は私がパワハラのストレスでお腹が痛くなって救急車に乗った時も、毎晩泣いて会社に行きたくないと言っていた夜も、私が弱っていくのを一人で見ていました。食事を吐いて味覚を失っても、何回でもご飯を作ってくれました。そんな私の家族はどうでもいいんでしょうか?私は分かりません。私が世の中の道理を知らないのが悪かったんでしょうか?障害を悪いと認識してなくて、ただ単純に望んだ仕事で働きたいと望んだ私が悪いんでしょうか?

自分は永遠に弱者のままでいなければ生きるのを許されないんでしょうか」

なんで弱者と呼ばれる属性を持つだけでボコボコに殴ってもいいと認知されるんだろうか。ただでさえ双極性障害も、新卒三年以内で仕事を離職することも人生がハードモードになりがちなものなのに。それをわかっていて、その上で私を標的にするのはなんなんだろうか。ほっといてくれればいいのに、なんで寄ってたかって攻撃してきていいと思ってるんだろう。みんなと同じように生きてきた歴史があって、感情があって、化粧や服が好きなただの人間なのに。なんで。なんでどうしようもできない点で揶揄されて、私を弱者として縛りつけるんだろう。

「俺は霧島さんじゃないから、霧島さんが今まで受けてきた苦しみはわからない。でも、そんな追い詰められるくらい酷い所業は許されるべきじゃないと思う」

ボロボロの顔を秋田さんに向けると、秋田さんもまたくたびれたような顔をこちらに向けていた。

「霧島さんが言うように、実はメンターがミーティングで言う前から、障害者手帳を持っているってこと、知ってた」

ハイネケンの瓶をゆっくりと傾けて重い一杯を飲み込んだ後、秋田さんはつぶやくように言った。瓶の口の角度と同じくらい頭をもたげている、秋田さんを見た。目じりの端が少しにじんでいる。

「それでも、俺はそれで霧島さんを傷つけようなんてとても思えなかった」

そう述べた秋田さんは、大粒の涙をこぼした。父親ほどの男性がこんな風に泣くのを私は見たことがない。おしぼりで何度も目を擦るが、それでも涙は止まらない。

「俺が知っている霧島さんは、いつ会っても笑って挨拶をしてくれて、誰とでもコミュニケーションを取れる人だった。攻撃的なところもなくて、理路整然と仕事を進めていく人だった。確かにまだ若いなって思うところはあったけれど、それでもみんな霧島さんが頑張っていることは分かっていたよ。そんな霧島さんのことを、何時間も何回も電話して怒鳴りつけられることができるなんて、俺はその精神性のほうがよっぽど病んでいると思う。病名がついているか、ついていないかってだけで、あいつの方がよっぽど病気だよ」

Teams通話で永遠に怒鳴られた時の顔を思い出す。画面にでかでかと映ったメンターの顔は【弱者をいたぶるのが楽しい】とでも言いたげに醜く歪んでいた。他人を傷つけることしかできない精神性は、確かに病んでいるとしか形容できない。

「俺はメンターから【霧島さんから病気を打ち明けられた】って聞いていたんだ。だからなんなんだ、とは思ってたけど、まさかそんな風にメンターが問い詰めていたなんて知らなかった。俺の時を鑑みる限り、多分部署の人みんなに嘘言って、霧島さんのことを傷つけていたんだと思う」

そこまでして私のことを憎む理由はなんなんだろうか。私の個人情報をばら撒いていた所業の整合性もなにもあったもんじゃない。秋田さんの涙声に悔しさがにじんでいることに気付いて、私の境遇にしんどさを感じてくれていることを知った。秋田さんは同じ部署だったけれど、わりと外との商談が多くて週の半分は顔を合わせなかった。だから秋田さんにはメンターの所業を相談するタイミングは無かったが、もし相談していたら同じ温度で味方になってくれていたかもしれない。この人に相談していたら今頃違う未来があったんだろうか。秋田さんはもう一度おしぼりで目元を拭って言った。


「それから霧島さんは障害を隠して雇用されたことを悪いって思ってるみたいだけど、俺は違うと思う」

「それは、どうしてですか」

「霧島さんが辞めた後、部署内で聞き取り調査があったんだ。最初部長、メンターって30分くらいで終わってた。だから他の人も30分くらいで終わるかなって思ってたら、1時間くらい、長い人は3時間くらい話してた。詳しくは聞いてないけれど、みんな思うところあったんじゃないかな。霧島さんの証拠と、部署の人の証言を、何も知らない人事部が聞いて、その上でメンターは懲戒処分を下されている。それは障害を隠して入社したことよりも、メンターの言動が著しく悪いって会社が判断したってことなんじゃないかな。あなたが病気だということを差し引いても、メンターの行動を許しちゃいけないと上が判断したんだと思うよ。決してあいつの所業が許されたわけじゃないよ」

その言葉にハッとして、自身の瞳が大きく開く。その事実は、じわじわと時間をかけて私の中に侵食していく。

「それとね、霧島さんが声を挙げたことで、メンターが個人情報を得ている場所が部長だって判明した。あの二人、グルだったみたい。被害に遭っていたのは霧島さんだけじゃない。人が隠したい情報を暴露するのは誰であっても許されないこと。だから部長も、管理職を外されるって昨日聞いた。それくらいひどいことをあの二人はしていたってことだよ」

【部長は優しいから霧島さんに言わないだけだよ】と言っていたメンターの言葉が脳裏に蘇る。ともすればあれは、全てを知ったうえでメンターと部長がやっていた所業なのか。どれだけ部長に相談してものらりくらりとかわされた理由にも合点がいった。

「霧島さんはなにも悪いことをしていない。障害を持っていても、若くても関係ない。むしろ人として当たり前のことを当たり前にできて、他の人を助けた。あなたをいじめていたあの二人よりも、ずっと大人だよ」

自己を肯定してくれた秋田さんの優しい声に、心が切なくなった。笑えばいいのか、怒ればいいのか、何もわからなくなって最終的には声を押し殺して泣くことしかできなかった。仕事を辞めてからも自分が生きていることを許されていない気がした。メンターを許せないと思う影で、申し訳なさを抱えていた。自分が許せなかった。誰よりも私が私の存在を認められなかった。だから死にたかったのに、死ねば全てが終わりにできるのに、私は生きることを選んだ。

こうやって泣いたのはかつて会社で障害を暴露された時以来だ。あの頃より私のなにもなさは極まった。どうしようもなさが加速した。社会的な地位もなにもない、ただの無職だ。それを知っても秋田さんは私のことを、「大人だ」と言ってくれた。

生きていたからこの結末を知れたのだ。全てを理解して私は秋田さんに頭を下げた。

「秋田さん、ありがとうございます。そして…ごめんなさい」

机の上に透明な雫がぽたぽたと落ちた。少し前定食屋で流した涙のように、艶のある机をより鮮やかに彩るような涙だった。憎たらしいくらい美しい透明な雫があの時と違って見えたのは、私の心があの時と違うからだろう。私は相変わらず何者でもない。障害者で、若くて、無職だ。それでも秋田さんはそんなの関係がない、と私の絡まった感情や執着を丁寧に解いてくれた。あれだけ憎かった会社の判断は最終的に私を救ってくれた。今日という日を迎えるまで、私はなにもわかってなかった。

「顔を上げて。謝らなきゃいけないのはこっちだよ。俺こそ、助けてあげられなくてごめんなさい」

大の大人2人が、薄暗い店内ではらはらと涙を流して謝り合っている。異質な組み合わせ、それでも、周りから見てどう思われるかなんて気にしなかった。

自分は罪の意識を持たなくていい。



「秋田さんは、どうして私に優しくしてくれたんですか?」

ひとしきり2人で泣いた後、鴨ハムを突きながらずっと思っていたことを聞いた。ここの名物だと秋田さんから勧められたものだ。確かに生ハムと違ってさっぱりしていておいしい。

「そりゃ、新しい人が入ってきたら誰でもそうするでしょ。理由なんてないよ」

なんのことはないとでもいうように、さらりと言葉が発される。ハローワークで親身になってくれた女性のことを、ふと思い出した。メンターや悪意を持って私を揶揄してきた人たちに気を取られていたが、その他にも私に優しくしてくれた人は無数に光る星のように存在していた。あの日思ったように、悪意にも善意にも理由なんてない場所は、どこにでも存在するらしい。

「それはありがとうございます。私、社会人経験が浅いからやりにくかったと思います」

「社会人経験ねえ…」

今度は赤ワインベースのカクテルを頼んだ秋田さんは、少し笑っていた。

「社会を経験したって10年くらい経ってようやく言えるもんじゃない?メンターにとっての“社会人経験”って理不尽に怒鳴られることでようやく身につくものだったのかな?なら、社会的に長く霧島さんより働いてるのに、人のことを傷付けちゃいけないことが分からなかったメンターの方が社会人経験浅いよね。そんな言葉で操ろうなんてまやかしだよ」

まやかし、か。

「私が働くべき人間ではないと少しも思わなかったんですか」

「そんなこと全然思わなかったな。霧島さんは自分のことを弱者って言うけど、そもそもそれは的外れだよ。属性だけ見てくる人は勝手に弱いって判断するかもしないけど、霧島さんは傷つけられても、証拠を集めて、相談をしてって、ちゃんと自分を守る行動ができる人でしょ?メンターは霧島さんがどういう人か、その内面を見ようとしないから舐めてかかれたんだよ。あの人は自分のしたことが返ってきただけ。現実に立ち向かえるあなたは決して弱い人じゃない」

たとえ他人がそうするからといって、自分にその枷を嵌めなくて良い。他者がレッテルを貼るからといって、そこに甘んじなくても良い。もしメンタルが強い、弱いという単純な尺度で考えるなら私はメンタルが弱いと判断される。一方で、きちんと場に沿ったやり方で自分を守れる私を弱いと断定するのは、あまりにも稚拙な判断能力だとしか形容できない。他人がどう判断を下したとて、私は自分のことを弱者の型にはめるのはやめようと思った。

今日という日に至るまでに出会ったハロワの女性、学校で知り合ったみんなのこと、そして夫の姿を思い浮かべた。世の中はわからない。結局メンターや部長がどうして私にそこまで執着して攻撃したのかはもっと分からない。ただ世の中には気まぐれで悪意を投げ込んだり、人の心を追い詰めるまで酷い所業をしたりする場所がある。それでも私には理由なく善意で助けて、新しい気付きをくれる場所もある。

私が生きていきたいのは今現在の場所だ。私を追い詰めるだけの所業をした人に罰は下った。だからもう前職に執着する理由なんてどこにもない。私はもう一度秋田さんに頭を下げた。

◇    ◇    ◇

秋田さんと別れて、電車に揺られる。結局お酒はまだ飲めなかったけれど、雰囲気に酔ってしまったらしい。頭の中がふわふわして現実味がない。

【現実に立ち向かえるあなたは決して弱い人じゃない】

窓の外を眺めながら、先ほどの言葉をゆっくり何度も反芻する。3ヶ月前はあれほど人間が怖かったのに、私の崩れた身体と心は他者によってまたその輪郭を取り戻しつつある。

不思議だ、と思った。どうしてみんな同じ作りをしているのに、その肉体に宿る精神はこうも違うんだろう。私は1人しか居ないのに、各々が好き勝手に評価する私という像は個人で変わる。でもそれは私だけじゃない。誰でも他人のことを好き勝手に評価して、心の中でその人の姿を作り出すのだ。私を壊したのは人。けれど心の中にある私の姿を取り出して見せてくれて、失った感覚を取り戻すための手助けをしてくれたのも人だ。

私の世界は、想像以上に悪くないのかもしれない。人間も私も、そんなに捨てたものじゃないかもしれない。

乗り換えの駅で、かつて使っていた駅を経由する。顔を永遠に続くエスカレーターの上に視線を巡らせると、何度も何度も疲れ果てた心身で乗っていた自身の姿が見えたような気がした。あの頃の私はこれから死を回避して、今日という悪くない未来に行きつくのだろう。私はふと心の中で呟いた。

過去の私よ、安心しろ。
私はきちんと自分の誇りを守れる大人になれたぞ。

夢か現かわからないけれど、過去の姿が振り返ってこちらを見たような気がした。その姿には、大学院の私も、子供の頃に蹂躙されていた私も重なって見えた。

“よかったね”

そう言って、過去の私は消えた。エスカレーターはどんどん上へ私を運んで、かつての私の影が居たはずの位置を追い越した。ホームに行きついて、タイミング良く来た電車に乗り込んだ。明かりが消えかけた街は眠っている多くの人が居る。私もこれから夫の待つ家に帰って、生きる時間を続けるのだ。

もう何も背負わなくていい。
もう申し訳なさを抱えなくていい。
私は私のまま生きていくことを許そう。

長い前職の悪夢は、こうして別れを告げた。

◇    ◇    ◇


ここまで読んでくれてありがとうございました。
ようやくこの話が書けたな、とちょっと嬉しい気持ちがあります。

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どの話も沢山の人が気に留めてくれて嬉しいです。

次回は職業訓練校での日常の一コマ、「二度目のモラトリアムは星屑のように消えた。【飲み会編】」を書きたいと思います。

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