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二度目のモラトリアムは星屑のように消えた。【起死回生編】

「モラトリアム」という言葉を聞いて、大学生の頃を思い出す人は多いのではないだろうか。

時間が有限だということを忘れ、好きなだけ友人とバカ騒ぎした放課後。ストロング缶片手に駅までのリミットを楽しみながら過ごした帰り道。そして「また会おうな」が物理的にできる、からりとした別れ。社会という巨大な有象無象に飲み込まれる少し前の、たった4年間の人生の夏休み。大学生という身分や時間の流れは、本当に不思議なものだと思う。

社会に出て本格的に大人扱いを体験し、理不尽に揉まれて「あの頃は楽しかったな」なんて想いを馳せるのは、大人なのに守られることが許されていた頃の場所。苦々しくあれど、戻ってそれを謳歌し直せる場所はもうどこにもない。

大人とも子供ともいいように捉えられる大学生時代は、夜明け前のように永遠に続くと錯覚した時間だったのだと噛み締めて前を向く。

それが私の「社会人」と「大学生」のイメージだった。

私も人並みに大学生を経験したので、想像とは少々異なるけれどモラトリアムはあった。勉学漬け。バイト漬け。貧乏に病気にアカハラ…と、言い出したらキリがないくらい苦々しい思い出で満ち溢れているけれど、一方で充実した経験も多数できた。高校生までの暮らしに比べたら非常にマシだったので、「これが私のモラトリアムか。まあ悪くなかったな」と区切りをつけて社会人の顔をした。

そんな私だが、入社して半年ほどで休職を経験することになる。永遠に続くような日々の中、鬱屈とした感情になって思い出すのは、駅までストロング缶片手に友人と歩いた日々。日本酒の立ち飲みバーで常連と語らったあの時間。

込み上げるものがあって、その度に自分に言い聞かせた。

考えるな。思い出すな。
分かっている。そんなの分かりきっている。奨学金の返済に追われていた身分の私にはもう2度とモラトリアムに戻ることができないことなんて。思いを馳せたところで、あの人たちとの空間や経験を巻き戻すなんてできない。

だから私が望んだモラトリアムは美化されて元に戻らない日々のはず、だった。

それなのにある日突然、二度目の夜明けがやってきたことがある。たった一瞬だけ、それも社会に出てから経験した不思議なモラトリアムだった。

振り返ることはせず、心の中に留めておこうにも心を掻き乱す病原体のように変化してしまった。もはや青春などと呼ぶにはとっくに嘲笑される年齢ではあるが、どうか語らせてほしい。最強で最悪の、蠱惑的な過去の時間を。

今から、二度目のモラトリアムの話を始めようと思う。


◇ ◇ ◇


きっかけは、パワハラで仕事を辞めたことだった。新卒で勤めた会社は1年未満で辞め、2社目で本格的にやりたいことを実現しようと頑張っていた矢先の仕打ちだった。

初めてパワハラを受けた日のことは、手に取るように思い出せる。かつて虐待を繰り返し受けていた時のように、一方的に悪意を投げつけられて上下関係に蹂躙され。誰に相談しても「その人はそう言う人だから」と理解を強いられ。

私にできることはその仕打ち全てを詳細に記録し、身を危険に晒しながら証拠を取ってくることで。最終的にその証拠が決定打になり、上司は懲戒処分を下されることになった。

だからといって、私の心が救われたわけではない。自身の退職と引き換え相手のに懲戒処分を得ても私の言葉が相手の頭の中で改変されて暴言に変わることは1年以上続き、長期間労働を上司権限で無かったことにされて身体がぼろぼろになった事実は変わらなくて。給与の話をしても「会社に必要とされている人材ではない」という理由で、正社員なのに最低賃金スレスレの賃金で働かされた。何度も何度も踏みつけにされた心は、もう人の形を保つことさえ難しかった。

布団の上でぐしゃぐしゃになった心身を横たわらせる時間が続く。何かにつけて死に向かいたがる。そんな私を察してか、夫は在宅勤務で側に居続けた。それは今思えば正解だったと思う。あの時の私はあと少しでもきっかけがあればもうこの世に存在することのできない、可能性が張り裂けそうなばかりに膨れ上がった心理状態だった。

意味も分からず涙が出てくる。どうしてこんなに自分は弱いのか。何故あの環境を我慢してみんなが出来ている「社会人」を続けることができなかったのか。この先どうしていけばいいのか。パワハラで耐えられなかったとはいえ、まるでコンパスも持たず航海に出てしまったような愚かさが自分のことを責め立ててきた。

生きていることがどうしようもなく恥ずかしい。それでも私の身体は生きようとして、自責の声を受け止め続けて来ても鼓動を止めることはなかった。近くの川沿いにある橋が浮かんでは消え、戸棚に閉まった刃物で胸を一突きにする妄想を脳内で搔き消した。夜中に叫びながら目を覚ましたことも記憶にある。パワハラを受けていた頃は蚊の鳴くような声しか出せなかったのに、今更になって何故私は痛みを輩出するような行為を無意識に得てしまうのか。夢でも現でも痛みや苦しみから逃れられない、記憶の奴隷になった時間に飼い殺しにされるような感覚だった。

苦しんで苦しんで苦しみ抜いて、それでも休めばある程度身体は回復してしまった。なんて惨めだ。形容し難いようなどうしようもなさだ。それでも身体が生を求めるならば、這いずり回るようなみっともなさが待ち構えていても、税金喰らいだと呼ばれても、惨めったらしく生きていくしかないじゃないか。

ぼんやりとしか現実を見られない、脂肪が薄くなった身体に宿った醜い欲望を理解して身支度をした。

ならば、外に出よう。

◇  ◇  ◇

まず最初に向かったのは管轄のハローワークだった。からりと晴れた平日の昼下がり、気怠い身体を引き摺ってハローワークへと足を踏み入れた。

受付の人に事情を話し、失業手当の申請が行われるブースへと案内される。用紙を3枚渡されて、順次記入していく。

久しぶりにペンで字を書いたな、と思った。思えば職場へ行かなくなってから1ヶ月、私は布団の上で肌色の亡霊の如く生死を彷徨っていた。肉体ではなく精神が生を選び、自分はここに居る。病は気からという言論はほとほと信じていない身だったが、なんだか不思議な気持ちだった。

久しい感覚を特に気にも留めずにさくさくと記入を進めていく。筆が止まったのは、「障害者手帳を持っていますか?」の欄。

こちらのnoteにおいて私が双極性障害というのはまことしやかなことだが、現実の世界において私はそのことをあまり口にしたことはなかった。何故なら、障害者であることを揶揄されたことが何度もあるからだ。

薬を飲んで安定した今でも、症状で荒れていた過去で未だにレッテルを貼られる場所がある。それは苦しくて胸をいつまでも這いつくばる枷のように重い事実だ。

きっとここでも、同じように断罪されるのだろう。
「いいえ」に丸をつける。

そのあと最後までひねりもない質問を記入し終えて、もう一度障害者手帳の欄に目をやった。実は、手提げのカバンの中には緑色の障害者手帳が入っている。特に意図があって持ってきたわけではない。ただ単純に、会社へ行く時に使っていたリュックを見ると動悸が起こるからと、適当に掴んだそれに手帳が入っていただけだ。ふとなんとなく「まあここまで来たら別に手帳持ちであることが判明しても問題ないか」と思ったので、「いいえ」に斜線を引いて、「はい」に丸を付け直す。
ささいなことだが、直感というものは時に馬鹿にできない。私はこの時の判断に後々大きく助けられることになる。

提出して番号を貰い、椅子にて呼ばれるのを待つ。ぼんやり周りの風景が動いたり、座ったりするのを眺めていた。

ここに居る人たちはみんな仕事を失ってしまった人なのだ。巷では無職のことを「努力不足」なんて足切りしているくせに、やれ若手が足りないだの人手が足りないだの嘆いているらしい。
男性も女性も同じくらい座っていて、年齢も20代から40代と割と若めな世代が過半数を占めていた。この人たちは何故仕事を失ったんだろうか。私に理由があるように、この場にいる人全員にストーリーがあるのだろう。たかだか30分の待ち時間だったのに、そこでは20人以上の若い人が入れ替わり立ち替わりしていた。

この人たちは努力不足だったのだろうか?
私もまた同じようになにかが足りなかったのだろうか?

物想いに耽っていると、私の番号が呼ばれてブースに案内された。

失業理由にも3種類あって、①自己都合、②会社都合、③特定理由離職と分類される。

①は字の如く、自分の意思で辞めた人が該当する。転職でも、引っ越しでも、なんらかの理由が自分にあって会社を辞めた人がこれにあたる。
②は倒産や理由のない派遣切りなど、会社に理由があって辞める人が該当する。因みに、パワハラが立件されると会社都合になる。

実状、パワハラを会社が認めることはまずない。例に漏れず、会社と戦って上司が懲戒処分をくらった私ですら、会社都合ではなく自己都合によって離職票が処理されていた。会社都合になると、会社側が補助金を受け取れなくなったりハローワークへ求人を提出できなくなったりするらしい。

一方、失業者にとって会社都合か自己都合かというのは割と大きな問題で、まず失業手当を貰えるまでの待機期間が違う。そしてその額も違う。お金のない人にとって、パワハラされて挙句自己都合で処理されてしまうというものは死活問題だ。まるで世の中から死ねと言われているようなものだ。絶望感に打ちひしがれて命を絶つ人もいるのだろう。私がもしこの状況を言い渡されたら、受け入れられず世の中を恨んで消えていただろう。

では何故まだ生きていてこの文章を書けているのか?というと、理由は簡単だ。
会社都合でも自己都合でもない、③特定理由離職者に該当したからだ。

特定理由離職とは、自己都合で辞めた条件と、かつ鬱や身体の病気によって働くこと自体が不可能になった人、そして障害者手帳を持っている人の両方の条件を併せ持つ人が該当する。
つまり、制度上病気や障害によって働けなくなったと認識されるのだ。

私は自己都合だが、障害者手帳を保有していたため特定理由離職者へと区分が変更された。これにより、手当の額は勿論多くいただけて、さらに失業手当の給付期間も約一年近くになった。また待機期間についても、会社都合と同じだけで良くなる。

自己都合になると覚悟して向かった先にあった唐突な幸福に脳を焼かれるような気がして、現実感を失ったままハローワークを後にする。現実はまだ続く。今度は保険証と国民年金の切り替えのために市役所へ向かった。

市役所で切り替えの意図と、特定理由離職者になったことを伝える。なんとここでも特定理由離職者が効いてきた。健康保険料が3割負担で良くなるらしい。流石に年金の減税はできなかったけれど、それでも大きなアドバンテージだ。

ひとまずの手続きを終えて帰路に着く。
力のない足取りで、夫の待つ家へ向かう。
家を出た時にはてっぺんにあった太陽が西日になり、いつのまにか茜色の光が私の影を長く伸ばしている。
昨日は自分に影ができるような未来を想像していなかった。
そもそもこの足が最低限の生活以外のために再び動くことが、混濁した脳内で煌めくように明日への導線を引いた。この影が明日も存在することが不思議でたまらない。

あ、これでも生きてていいのか。

そう思ってから本当は死にたくなんてなかったこと、仕事を辞めてこんな状態になったら死ななければいけないと思い込んでいた自分に気付いた。ささいな丸一つ、身分証にもならなかった障害者手帳のおかげで生が繋がった。あの時の判断がなければ、自分は今この影を見つめることができたんだろうか。危うい境界線上に立ち続けていた過去が、生へと両足を突っ込み始める。
深く息を吐き出して、身を抱いた。ぼろぼろとこぼれ落ちる涙は、安堵。

死ななくてよかった。

◇  ◇  ◇

それから一か月と少しして、失業手当が入るようになった。
勿論働いていた頃と比較したら、いくら前職が薄給とはいえ少額だ。そこから健康保険が通帳天引きされ、国民年金を毎月払えばそんなに残らない。

でも、働いていた時より精神の安定が保たれていたことは自明だった。ハローワークに初めて行った時と比べ、起きて活動できる時間も日数も倍ほどになったし、ご飯を吐き戻さなくなった。パワハラの真っただ中だった頃はストレスで塩味を感じなくなり、何を食べてもゴムを永遠噛んでいるような苦しさが食という行為に付きまとっていた。その時に比べたら、美味しいとは思えなくても食べ物の味がするだけで十分だった。体重が5kg以上落ちて体力も失ってしまったので、少しでも食べられることは生の行為に寄与する。

お昼のおにぎりを咀嚼していると、夫が私宛の仰々しい封筒を手渡ししてきた。ポストの中に入っていたという。市からの封筒であったのでお金関係であることはわかっていたが、なにか滞納していたんだろうか。

開封して中身を確認し、数秒。それが住民税の納付書であると理解して、頭を抱えた。

すっかり忘れていた。こいつの存在を。
というか、住民税って二か月に一遍の徴収だったのか。

金額の詳細を見ると、いくら二か月に一度の支払いでいいとはいえまあまあな額。なんとか減税する方法はないものだろうか…と考えを張り巡らせる。市役所に相談する?いや、多分根本的な解決には繋がらないだろう。
なにか私の方で確実に持てる情報を確保して交渉に入りたい。

ひとまずXのアプリをタップして、検索欄に「手帳 住民税 減税」と検索してみる。きっと過去に誰か困ったことがある人もいるはず。もしかしたら…と一縷の望みをかけて調べてみると、居た。同じように障害者手帳を持ち、住民税の減税をされていた人が。

どうやら区分的には「障害者控除」というものにあたるらしい。他の公共サービスで控除を受けられるのは精神1級のみや2級以上などと制限があるが、それと違って住民税は精神3級でもきちんと控除を受けられる。

障害者手帳とハローワークの受付票を持って、市役所に赴く。
特定を避けるためやりとりの詳細は避けるが、結果的にブースを3つたらい回しにされて減税を受けられることになった。免除はさすがにできなかったが、二か月で一万程度の減税は大きい。

特定理由離職者のことも、それで国民保険保険が減税されたり、障害者控除で住民税が減税されたりすることも、誰も教えてくれなかった。ささいなことだ。私がハローワークへ向かい手帳保持の有無に〇をつけただけで、Xで検索して誰かが呟いていたのを見つけただけで、後々の生死に響いてくるような公共福祉に繋がる。

大学院を修了しても障害者手帳を保持し、職に困るような劣等生はここに居る。
でも、文字通り血を吐きながら死に物狂いで英語の論文を検索して読み込んだり、とことん納得するまで相手に質問できるような(市役所の人からすれば)迷惑な能力はどうやら実生活でも役に立つらしい。人に奪われない私が身に着けた能力は、学歴の価値以上に自分を助けてくれた。

一方でもし減税や控除を知らない人が、それによって生死の判断を迷うことがあったら。それはとても怖い。無知は罪、と巷では呼ばれるらしいが、その情報に辿り着けないのは果たしてその人自身の問題なのだろうか。またその情報を掴めても、市役所の人が素直に受け入れてくれるかも甚だ疑問だ。最終的に控除を受けられた私ですらブースをたらい回しにされたのは、あまりにも詳細に制度に突っ込んで聞いたので「上の詳しい者を呼びます」を繰り返され、それでも絶対自分が権利を得ていると知って一歩も引かなかったからだ。誰しも弱った状態でそこまで強気に自己の権利を主張する心持ちで居られるか?と聞かれると、多分難しい。だけれど持っている権利を行使するか否かで生死が分かれるのをみすみす見逃すわけにはいかない。だから1人でも救われるためにここに記させていただく。

話を戻すと、控除によってかなり税金の支払いが楽になった。が、やはり金の問題は雄弁だ。

住民税をまとめて払ったため、病院へ行くお金がなくなった。薄給で奨学金を返済していたため、貯金は箪笥の肥やしにすらならないほどだった。

あまりやりたくなかったけれど、しょうがない。
夫に正直に「病院へ行くお金を貸して欲しい」と頼んだ。

夫は二つ返事で五千円札を渡してきた。
泣きたいような、惨めなような、筆舌に尽くし難い感情が胸を這うような痛みを覚えたが、お礼を言って病院へと向かった。

結果、なにも問題がなかったので夫にお金を借りるまでもない小銭だけの会計を済ませた。ほっとして、その足でハローワークへ向かう。今日は履歴書の添削をしてもらいに行くのだ。

あら、障害者手帳を持ってるの?失礼ですがご病気は?あら双極性障害なの。それは今まで大変だったでしょう。頑張っているわね。

ブースのパーテーションを隔てた向こう側、初老の女性が優しく傾聴する。会社での関わりを失った今、私の繋がりは夫とハローワークの人だった。

私はずっと1人でも生きられる力を求めていた。虐待されて踏みつけにされ続けた心の前で、勉学という分かりやすい箔はどこから見ても私をその事実から隠して一人の人間で居させてくれた。だからそこに執着した。誰の力も借りず、自分の力でお金を稼いで自分1人の食い扶持くらい自分で持ちたかった。貧乏な学生時代も1人でできないことを他者に手伝ってもらうより、自分ができるようになることを優先に選択して行動していた。そうすればもうあんなみじめったらしい思いをしなくていいんだと思っていた。正社員や公務員など、きちんと収入を得て自分のことは自分でする人間のことを世間は大いに評価する。反対に、そこから溢れた人間の扱いは言葉にするよりも行動で雄弁に語る。勉学という盾で傷ついた心を隠蔽することに成功した自分は、その人生の続きに「普通」の枠へ押し込まれることを望んだ。執着が絡まって自分の首を絞めていると気が付いても、結局正社員という「普通」の枠から逃れられず再び実害を被った。

ハローワークで働く人たちの多くは非正規だという。
であれば、目の前に座っている女性も非正規である可能性は高い。ハローワークの求人に正直魅力はない。障害者雇用も検討したが、ほぼ100%の割合で非正規雇用だ。世の中非正規雇用は下に見られる。大学生の時に短期で行ったバイト先で、段ボールすら折れない40代の人を見て「ああはなりたくない」と必死に就職活動をした記憶が蘇る。

世間の価値観でいえば、私はあの時段ボールを折れなくても必死で働いていた人よりも下なのだ。高学歴で、女性という巷では優遇される性で、結婚していて、容姿が優れていて…と人が羨む要素をどれだけ持っていても、私が無職という現実と、社会人やって三年以内に2社辞めた「普通じゃない人間」という括りの中では弱者に分類され、踏みつけにされる。

でも、と思った。
でも、非正規雇用であろう弱者の人のほうがずっと私に対して優しい。
でも、院卒正社員男性である強者の夫も私に対して優しい。
でも、あの時ダンボールを折れなかった人は必死で働いていた。

この人たちの属性や世間での立ち位置はばらばらだけれど、全部地続きなんじゃないのか。ともすれば無職に転落した私も、正社員こそが正というマウントを取る人たちも、境界性知能の人たちも、みんな同じ線の上に立たされているはず。そしてそこに性別や学歴、家庭環境などの複数要素が絡み合って人間を形成しているが、所詮我々は皆元素でできている動物なのだ。そこに優劣はない。
であるはずなのに、何故こうも歪んでいるのか、自分も世の中も。

訳が分からなくなって、ハローワークから出てもふわふわした足取りで帰らずに街を徘徊していた。ハローワークの敷地を示すタイルの少し外で、求職者を狙った某職業の斡旋者が待ち構えている。建物の張り紙には「タイルはハローワークの敷地内です。敷地内で営業活動を行っていることが判明した場合、警察に連絡します」とあったから、これはギリギリアウトじゃないのか。
弱った人に誰彼構わず声を掛けていく。だいたいはスルーしていくが、1人女性が捕まっていた。

職を求めている人が行く場所がハロワなのだから、職業斡旋者に捕まって職を紹介されてもいいという理論なのだろうか。タイルの外だから、違法じゃないという主張なのか。社会的立場が弱い人が食い物にされていく。かれこれ15分は話し込んでいるようだが、帰りたそうにしているそのフラグをばきばきに折ってその場に留めて居るのは正社員という強い立場だから許されるのだろうか。

どうしようもなくて、ハローワークの人に報告だけして電車に乗った。右手に持ったスマホが震える。夫だ。

【病院どうだった?】

[なんともない。お金もかからなかったから返すよ]と打ってすぐに既読が付く。

【返さなくていいよ。使っていいよ】

ひゅっと喉が鳴るような感覚がして、背中が冷えていくような気がした。夫のお金だ。正しく労働して、正しく稼いだお金だ。それを税金で生活している人間が食いつぶすわけにはいかない。

[使えないよ、返すよ。]

【じゃあ、なにか好きなもの食べて。残った分だけ返して】

乗換駅で降りて気になっていた飲食店で定食を頼む。
漆塗りのおぼんにぼたぼたと透明な滴が落ちていく。

意味が分からない。なんなんだと思った。
なんでそんなみんな私に優しいんだよ。
なんで世の中は地獄でなにもいいことがなくて、社会は冷たいなんて思わせて死なせてくれないんだろう。

自分も自分でなんなんだろう。
1人で生きるために借金をして学歴を付けて強者の権利を手に入れたはずなのに、精神疾患を拗らせてそれをごり押しして何者でもなぎ倒せるような強さだけは手に入らなかった。それでも惨めったらしく生きようと決めて税金と障害者という権利を死ぬほど行使しているのに、ささいなことで揺れて傷つく。

なにもかも中途半端だ。
私が思うほどぱっきりと世の中は分かれていない。グラデーションのように皆濃い場所と淡い場所を持ち合わせているのに、あたかも普通ですという仮面をはめて生きている。
私みたいな障害者にも健常者にも、強者にも弱者にもどうとでも生きていける人なんて一番中途半端で、だからこそ普通という仮面を強化しなければカテゴライズする場所を見つけられない程いい加減な存在なんだろう。そんな弱い身体と精神なのに、どうしても他人が踏みつけにされるのだけは見過ごせなかった。そうしても自分にメリットがないことなんて分かっているのに、カモにされて取り入れられかけているその様子を見て「あれは自分だったかもしれない」と思ってしまった。

どうして夫は私を捨てずに優しくしてくれるんだろう。
どうして非正規であろうハロワの女性は私の境遇に同情を示したのだろう。
どうして職業斡旋者はあんな行為ができるのだろう。
どうしてあの女性は食い物にされてしまったのだろう。

どうして自分は自分なのだろう。

ごちゃごちゃの感情が溢れて、みそ汁に自身の滴が落ちて沈む。液体に反映された自分の表情は歪んでとても醜かった。

自分が道端でカモにされていた人に対して行った行動のように、全てに理由なんてないのかもしれない。ただ単純に助けたいと思って、仕事だからと思って、各々言語化が困難な理由を見出して私を助けたのかもしれない。

ぐ、と唇をかみしめて、おにぎりを掴んだ。
具は確か鮭の切り身だ。四口ほどで中身にたどり着く。
食べ物の味なんて全部しょっぱい。みそ汁だろうが塩むずびだろうが全部一緒。せっかく入口で食べたい味を選択して店内へ進んだのになにもかも台無しだ。

私が持つ疑問に答えはない。
下心もあれば、それを疑うことが申し訳なくなるくらい純粋な気持ちで遂行されている事象もあるだろう。

この世の中に私が求めている正解だけ存在する時空は存在しない。生きているだけ素晴らしいとか、死ななかっただけ偉いとか、そんな讃美歌は聞き飽きた。この世に桃源郷はない。私が過剰適応しなくてもいい、ありのまま肯定される場所なんてないことくらい分かっている。
この先、生きていれば私はどちらにせよ苦しむだろう。働いていても働かなくても、自分という存在から人は逃れられない。

それでも生きなければ。
せめて夫と、ハロワの女性を悲しませるような行動を選んではいけない。それは自己嫌悪を加速させるだけだ。
死にたくないのならちゃんと生きることを選び続けろ。

泣きながらご飯を食べる。
なにがなんやら分からない世の中だけれども、その行為だけは正解な気がした。

◇ ◇ ◇

そこからさらに一か月経過した。
世の中はすっかり夏めいて、例にも漏れず我が家でもクーラーが解禁された。

この頃には規則的な生活ができるようになり、朝8時に起きて一時間散歩する習慣が身に付き始めていた。昼は危険物取扱者甲種という国家資格を勉強し、疲れたら横になって眠る。夜になったら夕飯を作って、夫が食べているのを眺める。平穏な日常の中、重苦しかった心が少しずつ外向きになっていく感覚が再び私に訪れた。

これは個人的な感想ではあるが、無職には才能が要る。
時間が無限にあり、何事にも縛られない感覚で金銭を使い続けられるような生活は少しずつ人を狂わせていくのだと身をもって学んだからだ。

そのため上記の生活は、自身が狂わないための必死の抵抗でもある。
幸か不幸か、資格の勉強は楽しかった。それにより勉強時間は少しずつ伸び、最終的に5時間は連続で机に向かうことができた。また、近くの市営図書館へ散歩してここぞとばかりに充実した本棚を読み漁るなど、正直かなり自由に過ごさせてもらった。体力も知力も、普通の生活を送るうえでは謙遜ないくらい戻っていた。

夫は働かなくてもいいと言う。自分の扶養に入って、パートで週3日稼ぐような生活でも構わないという。

率直にこの環境は恵まれているとは思った。好きなことを好きなだけできる環境、そして生きるために金を稼ぐようなラッドにならなくていいという配偶者。ひょっとして夫は理解のある彼くんかも?と思わなかった訳ではない。

一方で、本当は仕事をしたいと思っている自分も居た。
人間関係は嫌いだったが、前職の仕事自体はとても楽しかった。障害者で、本当はそれ相応の体力や立場をわきまえるべきなのかもしれないという世間様の声を理解できなくはなかったが、それでも私は一般雇用でばりばり仕事をするような働き方を求めていた。資格の勉強もそのために始めたと言っても過言ではない。私はあの仕事を愛していたのだ。

ただ、そうなると懸念点は単純に人間関係で。
無職になってからは友達誰とも連絡を取れず引きこもってしまった。

せめてリハビリのような期間が欲しい。
模擬労働のような、擬似体験のようななにかが…。それでも、そんなに都合の良いものが存在するのだろうか?

夕飯の食器を洗い終え、ダイニングテーブルの側にある棚へ手を伸ばした。ハローワークへ通うようになって書類が増えたので、書類棚を整理する。確定申告とか大変らしいからきちんと揃えておかなければな、と思って何気なく掴んだ書類には、「職業訓練校」の文字。

そうか、これがあったか。職業訓練校。
すぐに申し込み書類と返信用封筒を用意して、ハロワへ直接提出しにいく。

コースはプログラミング系に絞っていた。何故なら、ずっとプログラミングを学んでみたかったからだ。WindowsとMacBookの違いもわからないような人間だが、なんとなく「コード書けるって羨ましいな」と思っていた。

また、知り合いにIT畑の人間が多く、相談がしやすかったのもある。実際学ぶ言語を選択する際にはどういった言語の歴史があるのか、流行りなのかスタンダードなのか、どのような職業へ繋がるかを具体的に説明してくれた。その上で最終的にJavaを学ぶコースを選択をした。

夏も盛る頃、無事に通所許可を知らせる手紙が届いて3ヶ月通校することが確定した。そして、時間を費やしていた資格の危険物取扱者甲種にも合格した。新しい武器が手に入った。

あとは、前に進むだけだ。
8月、日傘をさして繁華街の先にある職業訓練校に向かった。

全ては生きるために。
自分の人生を再び歩き出すために。
そして、助けれくれた人達のために。

約3ヶ月ぶりに多くの人が存在する場に足を踏み入れた。

◇  ◇  ◇

久々の長編ですが、ようやく書ける心境になったので一本にまとめました。

ここまで読んでくれてありがとうございました。

二度目のモラトリアムは星屑のように消えた。【職業訓練校編】」へ続きます。


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