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社会経済史及び政治経済史を主としたテーマを研究しています。今後これ等の論文を発信してい…

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社会経済史及び政治経済史を主としたテーマを研究しています。今後これ等の論文を発信していければと思っています。

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戰蹟の栞(あとがき)

投稿おわりにあたって  半年に亙って老病人の繰り言にお付き合い頂いた方々と、掲載拒否されなかったNote編集部様に厚く御礼申し上げます。同時にPhotoを無断で使用させて頂きました皆様、特にtomekantyou1様には心よりお詫び申し上げます。本当に有難うございました。  この『戰蹟の栞』は1938年12月に発刊された陸軍恤兵部発行の『支那事變戰蹟の栞、全3部』の復刻版でありますが、現在使用されていない字や表現が多々あり、筆者の独自解釈で変更いたしました。歴史といえば精々

    • 戰蹟の栞(126)

      雲南省(4) 〔蒙自(モン・ツー)〕  蒙自縣城は三岔河の左岸にあり、海抜四千二百呎にして百餘平方里の蒙自平原の中心に位す。世人の多くは蒙自縣城は滇越鐵道に沿った都市の如く考ふるも實際は然らず、同鐵道測量當時この地を通過しやうとしたが、諸般の事情で、縣城より約十數支里の距離を有する外圍の山腹を通過してゐる。故に河により蒙自に至るには蒙自黑龍潭、また雲南省城よりは蒙自、碧色寨に下車し、これより蒙自に通ずるものである。河口よりは鐵道で十二時間にした達し、昆明よりは五百二十支里の

      • 戰蹟の栞(125)

        雲南省(3) 〔滇越鐵道〕  雲南省に於ける交通の樞軸は滇越鐵道である。雲南省城の昆明から佛領印度支那の海防(ハイフォン)に至る延長八千六百十三キロの狭軌であるが、佛國が本鐵道の敷設權を獲得したのは一八九八年、これが開通したのは一九一〇年四月である。  線路は全線に亙って勾配とカーブが非常に甚だしい。それも安南領内の廣漠たる熱帶林野を走ってゐる間はまだよいが、一度國境の河口から雲南に入るに及んで形勢は全く一變する。河口から北方蒙自までは文字通りの峻峯高嶺の間を縫ってゆくので

        • 戰蹟の栞(124)

          雲南省(2) 〔抗日據點としての昆明〕  前項に於て述べた通り、由來雲南省は極めて親日色濃厚な地であったが、滿洲事變に次ぐ今次事變によって親日空氣は完全に拭ひ去られ、殊に事變直後、北京、天津から一旦長沙に移轉された淸華、南開などの排日大學が本年三月雲南に再び移轉されて以來、此の地の空氣は最も強烈な抗日に轉じ、國民黨特派員で省政府委員を兼ねてゐる張邦管が省政府の實權を握るに至ってこの空氣は益々助長され、相當多數を數へてゐた日本留學生出身の官吏は一人殘らず放逐され、中には長期に

        戰蹟の栞(あとがき)

          戰蹟の栞(123)

          雲南(ユン・ナン)省(1) 〔雲南省概説〕  雲南省は支那の最南端にあり、境を佛領印度支那、緬甸に接し、北は西康省、四川省、東部は廣西省に續ゐてゐる。雲南全省の面積は概算一十四萬六千六百八十平方哩で支那各省中第二位に位する大省で、日本の本州、四國、九州、北海道を合したものよりは稍々小さい。人口は一千萬乃至一千二百萬といはれいづれにしても甚だ稀薄である。 〔住民〕  住民は雜多な種族に分れ、漢民族の外に苗族が住んでゐり。苗族のうち玀々族は高原地帶に、摩些、力些、苦孮、西蕃等

          戰蹟の栞(123)

          戰蹟の栞(122)

          廣西省(3) 〔潯州(シン・チョー)〕  潯州府城(桂平縣)は桂州を距る百十哩、南寧を去る二百五十哩の地點にあり、平南より江を遡る事二十八哩、柳江の一派たる大黄江の來りて西江に合する點、江口より更に遡航すること約十四哩である。此の地は南西一帶に削れる如き連峯を繞らし、就中思陵山の奇峰は海抜二千尺、風景絶佳である。潯州は周の百粤の地で秦に至り、桂林郡となし、漢には鬱林郡を置いた。元に至って潯州路總管府を置き、廣西道に屬せしめ、明の洪武三年これを改めて潯州府とした。人口約二萬五

          戰蹟の栞(122)

          戰蹟の栞(121)

          廣西省(2) 〔龍州(ロン・チョー)〕  龍州は松吉河と高平河の二流會點にある。此の地は安南と廣西の國境貿易の樞要區たるのみならず、軍事上の一大邊防重鎭である。一八八六年コゴルタン條約により支佛陸上通商場となり、ついで雲南蒙自と同時に開放し、陸上貿易場とした。人口約五萬と偁すれど實數三萬餘位か。  龍州は四邊縣崖絶壁の峻嶺に圍まれ、龍州平野はこの間に在って、東西二十五支里、南北三十支里の地を成す、附近人煙稀にして、耕作されたる土地少なく、左江は城側を西より東に走る。山は皆岩

          戰蹟の栞(121)

          戰蹟の栞(120)

          廣西(クワン・シイ)省(1) 廣西省概説 〔沿革〕  廣西省は廣東省と合して兩廣また兩粤と偁してゐる。苗嶺の南に位し、北方各省との交通便ならず、古來から支那中央との關係は密接でない。春秋の際に百粤の地と偁せられ、北方と殆ど關係なく秦の始皇のとき、御史の史録なるもの湖南より桂林地方に入り、海陽山より出ずる湘水に工事を施し、湖南と桂林の間の舟運に利した。始皇三十三年に桂林郡を置き、前漢の元鼎六年に蒼梧、鬱林の二郡を置いた。三國のとき呉に屬し、始安、臨賀、桂林、寧浦の四郡を置き

          戰蹟の栞(120)

          戰蹟の栞(119)

          福建省(2) 〔福州(フー・チョウ)〕  馬頭から遡江すること約一時間半にして福州に着く。こゝは前淸時代から引續いて福建省の首府で、人口三十萬、南方烏石山、九仙山を擁し北方越王山に跨り、周圍五哩の壯大な城廓によって圍稀鄭る。東、西、南、北、井樓、湯、水部の七門があり、この門から各大街が縦横に走ってゐる。南門大街が最も蘩華で殊に鼓樓、獅子樓附近がビジネスセンターとして官衙、商店を集中してゐる。  南門外から閩江々岸の一帶、その對岸を合せて南台といふ。南門から滿壽橋までの間、約

          戰蹟の栞(119)

          戰蹟の栞(118)

          福建(フウ・キェン)省(1) 〔福建省概説〕  福建省は臺灣海峡の一衣帶水を隔てゝ、我が臺灣に對してゐる。同じ支那でありながら南蠻鴃舌の國と見られ、言語が著しく異なり、同じ省内でも福州語、厦門語といふ風に差異の甚しきは驚く可きものがある。支那人は大體海岸傳ひに南方に行くにつれ、性格態度共に激烈になってゐるが、福建人も亦廣東人と略同様の激しさを持ち、その言語の上にもこれが感じられる。而も同省は、殆ど山地で平野は閩江流域を始め、諸河川流域地帶に僅に有るのみで、全省交通極めて不便

          戰蹟の栞(118)

          戰蹟の栞(117)

          四川省(2) 〔三峡の險〕  揚子江の上流、宜昌(湖北省)より、更に四川省に江を遡航して行くと、これより揚子江は次第に兩岸が迫り、江流は激しく、所謂三峡の險に差し掛かるのである。四川の重慶より湖北の宜昌に至る三百五十浬間には凡そ六十餘處の灘があって、宜昌峡、黄牛峡、柿歸峡、巴峡、巫山大峡及び瞿唐峡の六大峡に大別される。而して三峡とはその何れを以て三峡とするかは古來定説なく、今日に於ても諸説があるが、宜昌、巫山、瞿唐の三峡は有名である。  宜昌峡とは宜昌の稍々上流に當る峡門口

          戰蹟の栞(117)

          戰蹟の栞(116)

          四川(スー・ホウ)省(1) 四川省の概説  四川省は揚子江の上流、支那の中央西端に位置して、東は西康、南は雲南、貴州、北は陝西、甘肅に聯なる。東南の一部は湖南に、西北の一部は靑海に接す。面積は四十万三千六百三十四平方キロで、支那本部十八省中の第一、日本内地よりも廣大である。人口は約五千五百萬人と偁せられ、この面積人口とも、優に一獨立國を成すに足る。今次事變の途次、蔣介石が漢口敗退後の一據點として四川を重要な考慮の中に入れ、彼が信任する張を派遣して、四川將領の反中央の空氣緩

          戰蹟の栞(116)

          戰蹟の栞(115)

          陝西省(2) 〔咸陽(シェン・ヤン)〕  西安の西北五十支里隴海線に沿って南は渭水に面し、城壁高く河岸に聳えてゐる海抜二千百四十呎、西安より三百四十呎だけ高地である。城の周圍は約十二支里、土磚の壁が市街を圍み九門を有してゐる。人口約四萬、東門より西門に通ずる十二町の街區にて、縣署、郵政局等の官衙及び商賣が多く市中は割合に蘩華である。  秦の孝公は商鞅宮廷をこゝに築き、始皇帝もこゝに都して天下に號令し、渭水の對岸渭南の上林苑中に土工を起して、阿房宮を造營した。然し、いまや渭水

          戰蹟の栞(115)

          戰蹟の栞(114)

          陝西(シエン・シ)省(1) 陝西省概説  陝西省は面積七萬五千三百平方哩、人口約八百萬を抱擁する。甘粛、山西、兩省の中間に挟まれ、南は四川、湖北、河南の三省に接觸し、北端は外蒙古に隣接し、丁度巨牛の肉片といった地形である。國境は何處を向いても山また山で繞まれ、大體省内は三つの盆地を形成してゐる。  東には黄河を控へ、所謂渭水が國内を横斷する他、南北に洛水、環江の二大水流は豐であるが、古來民風は保守的で治水灌漑の便が開けず、不思議に三年毎に旱魃があって飢饉で大騒ぎする。ため

          戰蹟の栞(114)

          戰蹟の栞(113)

          貴州省の概説(2) 〔貴定(クェイ・チン)〕  貴定は貴陽の東烏江の上流の濁水河に面し、附近は水田が開けてゐる。戸數約二千、人口一萬。東街、西街、北街、丁字街が最も賑やかである。この町には古來重要な産物であった阿片が、その使用禁止と共に栽培を止め、ために一時經濟上逼迫したが、その後煙草の栽培を始めると共にその蘩榮を回復した。今や貴定煙草の名、大いに上がるり、現在は煙草で町の經濟を維持してゐる。養蠶も盛んに行はれ、北門附近に養蠶學堂があり、養蠶業の研究をしてゐる。またこの附近

          戰蹟の栞(113)

          戰蹟の栞(112)

          貴州(クイ・チョウ)省 貴州省の概説(1) 〔氣候と地勢〕  貴州省は廣大なる高原から成り、その平均高度は千三百米で、雲南の地勢から見れば頗る低いが、この高原上にさらに幾多の山嶽が起伏して、全面積約十七萬五千平方キロの約七割は全くの山地である。  山脈中最大のものは苗嶺であって、雲南の北部から本省の中部を横斷し、漸次低下して湖南、廣西の境界を劃しつゝ東に走ってゐる。そしてその西南部が最も高く、平均二千四百米以上に達する。随って本省は、苗嶺によって南北に二分されてゐる。東部

          戰蹟の栞(112)