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戰蹟の栞(120)

廣西(クワン・シイ)省(1)

廣西省概説

〔沿革〕
 廣西省は廣東省と合して兩廣また兩粤と偁してゐる。苗嶺の南に位し、北方各省との交通便ならず、古來から支那中央との關係は密接でない。春秋の際に百粤の地と偁せられ、北方と殆ど關係なく秦の始皇のとき、御史の史録なるもの湖南より桂林地方に入り、海陽山より出ずる湘水に工事を施し、湖南と桂林の間の舟運に利した。始皇三十三年に桂林郡を置き、前漢の元鼎六年に蒼梧、鬱林の二郡を置いた。三國のとき呉に屬し、始安、臨賀、桂林、寧浦の四郡を置き、宋代には廣西路と偁し、廣東の西部をこれに屬せしめて二十六州としたが、明の洪武元年に廣西省とし、淸これに因り今日に至った。
 廣西省の首府は古來桂林とさだめられたが、同地は北部に偏在し、湖南或は廣東との交通不便なるため、民國革命を機として南寧に移された。南寧は西江の上流である鬱江に臨み、南は佛領に近く、東は汽船で直に廣東に出で、省の首府として好適の地である。

〔面積及び住民〕
 廣西省の面積は、七萬八千二百五十平方哩と云はれ、朝鮮より稍々小さい。人口五百四十二萬五千人といふも正確なる數は知り難く、先づ概算五、六百萬人と見て良い。本省には漢人の外に多數の苗族がゐる。本省から貴州へかけての苗族の數一百萬と算せらる。
 廣西の懐遠以北、貴州の貴陽以南の山野に住する蠻族を、支那人は苗同族と偁してゐる。懐遠より古州に至る山林の間に住居するものは、主として林業に従事し、其の他舟夫、農民となれるものもある。林業者は資産に富み、中には五、六萬の資財を有する者もある。これらの部族は性質強悍で、酋長を戴いて群居してゐる。彼等の支那人部落に近く住する者は、漢人化して溫和であるが、山に近く住する者は往々にして人に危害を加へる。衣服は藍色を用ふ、左袵である。食物は生物を喰ひ、極めて原始的な生活をしてゐる。

〔地勢〕
 東は廣東に據り、南は安南を控へ、西は雲南に接し、北は苗嶺を越え貴州、湖南に連る。河流は桂江、潯江(西江)、鬱江、左江、右江、繡江(容江ともいふ)、柳江あり、各河流域は平野少なく農耕地大ならず。この他の地帶は高山峻嶺なしと雖も、山連互す。五嶺の一として數へられる越城嶺は桂林府興安縣の北方に在り、湖南廣西の唯一の交通なので有名である。

〔交通〕
 廣西の交通は専ら水路に因る。鐵道は屢々計畫されたが、省内未だ一哩の敷設なし。水運の要路は、一、廣東省より西江により梧州に至り、潯州府を經て南寧府に至る。二、潯州府より柳江に入り、柳州府に至る。三、南寧府より左江により龍州に至る。四、南寧より右江により百色に至る。(以上全てモーターボートを通す。)五、梧州より桂江により桂林府に至るの五にして柳州府からは更に民船により貴州省にはいる可く、龍州からは民船又は陸路により佛領東京に入る可く、百色からは陸路南雲の剥隘に出で、又百色より泗城府を經て、貴州興義府に至る。桂林府よりは陸路又は湘水により湖南に至る。

〔對外關係〕
 廣西鐵道の計畫は、佛國が東京を領有し、海防、鎭南關の鐵道を敷設してから、これを延長して龍州に至るものを築造せんと試みたに始まる。卽ち一八九七年佛國は、支那と合同して鎭南關、龍州鐵道の敷設のため費務林公司なるものを組織したが、その間の工事難エなる上、利益少なきを見、その契約を破棄した。これがため現在でも佛の鐵道は國境鎭南關で止まってゐる。また一九一四年、佛の中法實業銀行は支那政府と約し、廣東の欽州より廣西の南寧に至り、百色を經て貴州の興義府に至る鐵道を豫定し、これが借款草約を定めたが、今に至るも實現しない。一九一六年米國のシームス・カレー資本團は、支那に一千一百哩の鐵道を敷設する契約をなし、その豫定線の中に南寧より桂林を經て湖南衡州に至る線路を列記したが、未だ確定せず。一八八五年、佛國は廣西、雲南に開港場を設くることを支那と約し龍州を開放した。南寧は一九〇七年支那自ら開いた市場である。また佛國は一八九八年、佛領東京と接壤する廣東、廣西、雲南は他國に割譲又は租借せしめないことを約した。

〔南寧(ナン・ニン)〕
 廣西省の首府である。此の地は前漢時代に於ては鬱林郡と偁せられ、唐宋に至って邕州と偁し、明に至って始めて南寧府を置き今日に至った。一九〇七年一月開市場となったが、それは他の開市場の如く外國との條約によって開いたものでなく、淸國政府が外國貿易のため自ら進んで開放した、いはゆる自開商埠である。此の地は雲南百色を經て來れる右江と、龍州方面より來れる左江とにより舟楫の便あり、廣西省南部及び雲南、貴州の東南部一帶に於ける貨物の集散地となり、廣西省に於ては梧州に次ぐ大商業地である。
 民國元年省城が桂林より此の地にに移されてからは、政治、軍事上の重要地點となり、久しく陸榮廷の地盤となってゐたが、一九二七年、李宗仁、白崇禧がこゝに據って大廣西主義を唱へてからあらゆる近代設備が施され、政治、軍事共に劃期的發展を遂げた。
 南寧は梧州より西江を遡ること三百六十哩、龍州に至る水路百九十五哩、百色に至る水路約二百六十哩で廣西南部水運の中心點に位してゐる。

〔廣西人の氣質〕
 城は西江を離れて北方にあり、市民は多く外坊に住す。人口十萬と偁せられ、省としてのすべての機關を此の地に集めてゐる。郊外の丘陵の頂上に砲臺あり、その麓を繞る自動車によって城内に入る。南寧自動車停車場の附近には高さ約一間方位の打抜き大文字で眞赤に塗った『建設廣西、復興中國、救亂、救貧、救愚、救弱是廣西建設的總目標』なる大標語が掲げられ民衆の注意を集めてゐる。都城に入る者は誰しも是を見ずしては通過出來ず、これを見、これを知らぬものは廣西省民たる資格を有せないことを深く民衆の脳裡に刻み込むやうにしてある。この外、市内到る處の壁面には「改進行政組織、增加行政効率、勤勉、誠樸是廣西公務人員的鐵則」等の標語が在り、農工商の改善、民國軍組織に對する激勵の文句など數多見られる。市内には人力車もなく自動車もない。自動車に乘ってゐるのは政府要人が緊急な用務を帶た時に走るのである。バスもあるが乘客は少ない。軍人、官公吏、市民はつとめて徒歩によることを奬勵されてゐるからだ。
 街上に出會ふ人々は男女老若の別なく又階級の如何を問はず、すべて木綿の中山服か支那服を着てゐる。その價は何れも三圓乃至四圓見當のものである。娘、子供はじめ女學生の服装は餘にも地味すぎると思はれるほど女性ノカラーが奪はれてゐる。女學生たちは一様に黑木綿の短いスカートに上着は男子と同様の詰襟服で、靑天白日のマークのついた男子同様の帽子を被ってゐる。白粉や香水、口紅などは絶對に使用を許されない。普通の婦女子も絹の衣服を着けない。もし稀にあれば重要な儀式に出席するとか然らざれば廣西主義を奉ぜぬ婦人たちである。數年前までは南寧の街にも到る處絹物を賣った呉服屋があったが、今日では買手が無いために立ち行かず、どの店も軍服店に看板を塗り替へてしまってゐる。
 軍人の服装は、將校に至るまで襟章の外は匀一的に三圓か四圓の木綿服である。中學生は軍人と同様の服装で、起居、食事、行動、訓練すべて軍隊式で外泊を許さず、悉く寄宿舎に入れられ純然たる軍隊生活をやらされている。女學生も小學生も各勤務時間を割當られ、その時間は如何なる場合でも童子軍の服を着ける。幼稚園の子どもたちも一律に木綿服で、南寧の街では色物の衣服を着けた人間を探しても得られない。それ程廣西主義は徹底されてゐる。殊に支那事變が始まってからは、それが益々徹底し、全く非常時下の戰時態勢を見せてゐる。
 南寧は南寧平野の中央に位し、山岳地帯を遠く離れてゐるが、その附近の平野には丘陵多く起伏して、耕地少なく充分の發達を遂げ得ず、米、玉蜀黍、煙草、落花生等多少の産出がある位なものである。但し此の地は原料豐富で、且つ水運の中心地なるがため、工業地としては極めて主要なる要素を具備してゐる。現在では爆竹、線香の製造、鞣皮、牛油等を輸出し、石油、棉布、綿糸、燐寸、煙草、蓆類を輸入してゐる。此の地の外商としては、大和洋行、仁和洋行、恰和洋行の英國汽船會社代理店竝に亞細亞石油、スタンダード石油會社の出張店がある。

〔梧州(ウー・チョウ)〕
 梧州は往昔の地で、一八九七年二月緬甸條約により廣東省の三水と共に開放され、開市場となったものである。廣東、廣西兩省の境界に近く、西江桂江の合流點にあり、廣東を去る約二百哩、香港を距る二百二十哩、廣西雲貴と廣東香港との交通關門に當る。城は大雲山麓にあり、東北は山に跨り、西は桂江に臨み、南は大江を繞らし、城壁高さ二丈二尺、周圍四支里、城門五あり、東を陽明と云ひ、南を南薰と云ひ、西南を德政と云ひ、西を西北、北を大雲と云ふ。東西南三面皆濠を繞らし、北門は山に因りて險をなす。西江は此の地に於て幅員七百乃至八百碼、桂江は百五十碼あり。
 史に舜帝南巡して蒼梧の野に没すといへるは今の蒼梧の地で、城の東三哩の大雲山にその墳墓があるといふ。明には西廣總督をこゝに任じ、淸朝の初、一六六五年兩廣總督を廣東に、巡撫を桂林に移し、梧州は地方の一府城となった。長髪賊の亂には一百日の包圍を受けて遂に城の陥るところとなり、その後一八九四年の大火に市街樞要の區を焼拂ったが、直に税關員及び少數の外國人はいづれも市の西端西江の下流に沿った場所にその居を構へ髢る。
 梧州に於ける對外貿易は西江流域諸港の首位にをり、その貿易額二千萬兩に達す。主なる輸出品は、家畜、獸皮、樹脂、砂糖。藍靛及び木材、米、薪木、各種油類で、輸入品のおもなるものは、綿布、綿絲、燐寸、石油等である。輸入綿布綿糸の大部分を占むるのは英國品で、石油はスマトラ産及び米國産である。燐寸雜貨品は日本品が首位を占めてゐたが、抗日と共にその取引は拒絶された。此の地に在る英國商店は大和、仁和、怡和洋行(以上汽船會社)、威建藥房、屈臣洋行(賣藥業)である。

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