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戰蹟の栞(117)

四川省(2)

〔三峡の險〕
 揚子江の上流、宜昌(湖北省)より、更に四川省に江を遡航して行くと、これより揚子江は次第に兩岸が迫り、江流は激しく、所謂三峡の險に差し掛かるのである。四川の重慶より湖北の宜昌に至る三百五十浬間には凡そ六十餘處の灘があって、宜昌峡、黄牛峡、柿歸峡、巴峡、巫山大峡及び瞿唐峡の六大峡に大別される。而して三峡とはその何れを以て三峡とするかは古來定説なく、今日に於ても諸説があるが、宜昌、巫山、瞿唐の三峡は有名である。
 宜昌峡とは宜昌の稍々上流に當る峡門口に起り、南沱に至る間にして約十二里、この間に斷江山、黄猫峡、神龕子、扇子峡あり、また天桂山、蝦蟇掊の名勝があり、正に三峡の第一關と云はれるところである。
 黄牛峡は南沱より起り小崆玲峡に至る約十三里の間で、この間は兩岸高からず、江岸は粗荒にして民船曳夫の苦しむところで、無義灘、獺洞峡は峡谷中の最も難所であって、黄牛山、黄陵廟等の名所はこの間に在る。
 柿歸峡とは小崆玲峡に始り、歸州(柿歸)の上流牛口灘に至る間約八里で、牛肝馬肺峡、大小崆玲、兵書峡、白狗峡等の劍崖絶壁ありまた新灘、人鮓甕、洩灘等の大險あり、香溪、明妃村(昭君村)、屈原故里、歸州等の名地があって、三峡中その風景といひ由緒といひ最も興趣に富んでゐる。
 巴峡とは牛口灘より四川、湖北の境界たる布袋口に至る約二十里の間で門扇峡、巴峡、鐵棺峡等最も雄峻を極め、靑竹標、將軍灘、金金灘、娘娘灘等の大小の灘がある。
 巫山大峡は布袋口より巫山縣の西界に至る約十八里の間、巫山十二峯は本峡中の主要部分を成し、巫山縣城、神女廟の名地あり、布袋口(プータイカオ)を以て湖北、四川の境界とし、それより以西は四川省に屬する。
 瞿唐峡は三峡最西端の大峡で、黛溪を去る十餘町の峡門口に始り、虁州の下流白帝城下の灔湏灘に至る間で、風箱峡、孟良梯、黑石灘はこの間に在る。
 以上は三峡の概略であるが、宜昌より重慶に至る間には灘と偁されるもの六十餘、遡航の民船は七八十人から三百人に近き曳夫を用ひて、搖々の聲を發し、急灘に至れば銅鑼、太鼓を打ち鳴らし曳夫を鼓舞し、その音聲は山峡に響き、人力と自然の抗爭を思はせ、天下の奇觀を呈するのである。民船は多く十月以降三月に至る減水期に於て遡航し、約一ヶ月を要する。增水期に於ては江水の流れ急激で、諸所に大渦流、大激湍を生じ、且つ曳夫の通路が水に没するために民船の遡航するものは極めて少なく、宜昌、重慶間に約二ヶ月を要する。然し乍ら、今日に於ては四月より十一月の增水期に於て民船で二ヶ月要する處を本航路獨特の汽船に依ると僅か四日乃至七日の行程で達する。本航路に従事する汽船會社五、約十隻の船は常に往來してゐる。
 三峡はその自然の偉觀と歷史上の幾多の故事は古來詩人墨客の好題目となれるところでこれらの大自然や古跡を詠める詩も甚だ多いが、その中著名なるものを拾へば
   早に白帝城を發す     李白
 兩岸の猿聲啼いて佳まらず
 朝に白帝を辭す彩雲の間
 輕舟已に過ぐ萬重の山
 千里の江陵一日に歸る

   昭君村          杜甫
 羣山萬壑、荊門に赴く
 生長の明妃 尚ほ村に有り
 一たび紫臺を去って、胡漢に連なる
 蜀 靑嫁を留め黄昏に向ふ
 畫圖省識す、春風の面
 環珮空しく歸す夜月の魂
 千載琵琶 胡語を作る
 分明す怨恨曲中の論
(註)柿歸峡の盡きるところに香溪あり、附近に昭君村(明妃村)あり、漢宮悲劇のヒロイン王昭君の故里として傳へられる。

〔虁州(クウェイ・チョウ)〕
 白帝城(パイテーチョン)を遡ることさらに一浬餘で虁州に至る。宜昌より百二十浬の上流。人口數萬。峡江中屈指の大縣である。城壁は減水時その最も低きところより一百呎に及ぶが、夏期增水期には江水殆ど城壁に達せんとしてゐる。歷史的にその名も幾變遷を經た古都で、古跡に富み、城外の東南に「孔明八陣之圖」あり、城壁の背後には臥龍山があり、諸葛武侯の屯せし處で、頂上に武侯廟がある。

〔雲陽縣(ユン・ヤン・シェン)〕
 本縣は唐の大詩人杜甫の事蹟を以て知らる。杜甫は蜀都の一長官であったが、永秦元年五月「去蜀詩」一首を殘して、その浣花草堂を辭し、南下の途に就き雲安に入り、悠々自適の生活をなしたが、雲安にゐた頃の作詩は最も豐富とされてゐる。
 帆を収めて急水を下り 幔を巻いて回灘を逐ふ
 江水戎々として暗く 山雲淰々として寒し
 荒林徑ね入る無く 獨鳥人の看るを怪しむ
 已に泊す城樓の底 何會 夜色闌なり
この詩は永秦元年の秋、忠州より雲安に入る時の作である。

〔萬縣(ワン・シェン)〕
 雲安の上流で宜昌よりは百九十五浬の上流に當る。人口約十五萬。商業頗る盛んで、桐油、甘藷、豚毛、牛羊皮、石炭、布、焼酎等を産する。此の地は、宜昌、重慶間の航行船舶の中繼所であり、且つ陸路成都に入り、さらに峨眉山登山を試み或は北蜀雲棧の奇勝を探らんとする者の上陸地である。縣城は江の北岸にあって、市街は丘陵起伏の間に所在してゐる。

〔重慶(チュヌ・キヌ)〕
 萬縣よりさらに上流へ遡り、忠州、鄷都、江州、涪州等を經て重慶に達す。同地は宜昌より三百五十浬、揚子江口の上海より約一千三百七十浬の上流に當り、揚子江と嘉陵江の合流地點で、一名「渝城」とも偁してゐる。
 今回の事變で國民政府の首都南京が我が軍に占領されたため、國民政府は臨時首都を此の地に定め、國民政府の五院を置いてゐる。我が空軍は嘗て長驅、重慶を空襲し、飛行場及び軍事施設に對して爆撃を敢行し、多大の損害を與へた。重慶は揚子江によって水運の衝に當ってゐるが、さらに國民政府の經營する中國航空公司の漢口重慶線、重慶成都線、重慶昆明線の三線の發着地點で、航空の中心地でもある。
 重慶は事變前までは對岸の江北市と併せて人口約三十萬、外人二百餘名であったが、事變後漢口と同じく此の地に避難せる者多く、従って現在の人口は事變前に倍加せるものと思はれる。
 一八九一年の芝罘條約によって開港場となり、揚子江上流の重要商港となり、市街は三方江に圍まれ、一面山坡に沿ふて横ってゐる。城壁は周圍約五浬で高さ百呎、城内を百四十街、二十八巷に分ち、九つの門がある。城内には日、英、佛等各國の領事館、各級行政官廳がある。事變前には、我が國の商館は十餘軒もあった。名勝としては塗山が重慶の南岸にあり、古代支那の聖人禹王が此處に諸侯を會せしめた處と傳へられる。その西側に老君洞があり、眺望絶佳で山上には老子廟がある。此の附近は山水の景頗る佳く、文人墨客の「巴渝十二景」と偁するところで、湖南の「瀟湘八景」と對比し有名である。

〔成都(チョヌ・トゥ)〕
 四川省の省城の所在地で、重慶よりは百六十哩を距る。四川平原の中央部卽ち成都盆地に所在し、往昔蜀漢の帝都で漢の益州、唐の劍南、南京、西川等は卽ち成都の古偁である。人口五十餘萬。城壁は周圍約十哩で城内、城外に分れ城内は大城、滿城内に區劃されてゐる。大城内には蜀、漢皇城の遺廓があり、武侯祠、望江樓、靑羊宮、草堂寺等の遺跡に富んでゐる。
 滿城は別に内城とも偁し、府城の西に在り、淸朝滿洲旗人の佳したとこである。この種の滿洲城は全國數ヶ所にあり、淸が國内統一後、漢族に備ゆるために各要所に造り、その長官を滿洲將軍と號し、皆滿洲人を以て任じ、公式には地方最高の官たる總督の上席に在ったのである。而して滿洲城と大城を隔つる城壁はやがて漢滿兩民族を隔つる城壁で、彼等は決して相婚姻せず、飽迄相對してゐたのである。革命の亂に於て是ら滿人が漢人のために非常なる慘虐な目に遭されたことは記憶に新たなるところである。大城は一名を龜城とも偁し、城壁の上は極めて廣濶にして四顧の眺めも亦偉大である。
 成都は嘗て張儀の城した處、蜀王劉備が都した處、諸葛武侯が籌謀を廻らせし處、公孫述のをりし處、さらに杜甫、李白、蘇東坡、黄庭堅等支那大詩人の佳ったところで、歷史と詩に興趣深い都で、過去幾千年の歷史と詩と遺跡とを通じて偲べば、旅人の胸に感興の油然として湧くものがある。
 然し乍ら、近代支那は國民に排外抗日の教育を施し、抗日の風潮は支那各地に漲ったが、この支那の奥地も例外なく、抗日の都となってゐた。卽ち去る昭和十一年の秋、我が國の新聞記者二名が成都の抗日の暴動のために慘殺された成都事件の發生したことは人々の記憶する處である。然し乍ら、日露戰爭後支那が頻りに教習を日本に求めた際は、成都に於ける日本人の在住者は實に六十餘名に上ったこともあった。また成都には久しく我が領事館分館があったが、是も滿州事變後排日風潮の爲殆ど閉館の憂目にあひ、事變前に我が國は成都に正式に領事館を開設せんとしたが、國民政府の反對で實現するに至らず、却って成都事件の如き不祥事を惹起したのであった。
 此の地は流石舊都だけに、名所舊跡が多く、望江樓、武侯祠堂、靑羊宮、浣花草堂等の古跡、古廟を始め、雲棧路の嶮、或は標高一萬尺、古來普賢の靈場として有名な蛾眉山(オーミーシャン)などがある。

〔望江樓(ワヌ・キアヌ・ロー)〕
 成都東門一里半のところ錦江に臨み、その三層樓は綠陰濃か成る處にある。こゝは成都人行樂の地で、また送客惜別の餞場である。構内に薛濤井、浣牋亭、淸婉室等ありて頗る風情に富む。

〔武侯祠堂(ウー・ホー・スー・タヌ)〕
 成都南門を出で萬里橋を渡り、西に一里強にして丹壁を繞せる一大祠堂を見る。これ蜀中第一の名跡丞相堂である。同所は諸葛孔明を祀るところ、別に丞相祠堂の名がある。第一、第二の門を通って石道を上り、丞相祠堂に入れば、正面に諸葛武侯の像あり、その右には詩人杜甫の丞相祠堂の詩其の他が附勒してある。武侯祠堂の附近に惠陵(ホイリヌ)あり、昭烈帝劉備の陵で、帝妃甘夫人と合葬されたるところ。その由緒をたづぬれば、古代支那の君臣の道も偲ばれ、興味津々たるものがある。

〔靑羊宮(チヌ・ヤヌ・クヌ)〕
 武侯祠より望仙橋を渡りて靑羊宮に至る。四川道教の本山の一で老子(ラオツー)を祠る。規模壯大で、境内の森嚴は武侯祠と共に成都郊外の大觀である。その正面には「問靑牛何人騎去。有黄鶴自天飛來。」の對聯を掲げ、中に老子騎牛の像を安置してある。

〔浣花草堂(イン・ホウ・ツアオ・タヌ)〕
 これは詩聖杜甫の遺跡である。杜甫の成都に於ける生活は浣花溪寺に祀る。浣花溪寺は卽ち今の草堂寺で、古への梵安寺或は桃花寺である。杜甫が草堂に卜居せし頃の作を紹介すれば
 浣水溪水水西の頭 主人卜を爲し林塘幽なり
 己に知る郭を出でて塵事の少きを
 更に澄江の客愁を銷すあり
 無數の蜻蜒齊しく上下し 一隻の鷄鶒沈浮に對す
 東行萬里興に乘ずるに堪へたり 須らく山陰に向って小舟を上すべし

〔成都に至る通路〕
 成都に至る通路としては大體次の三路がある。尤も今日では支那の要人等は多く航空路により飛行機によるが、水路又は陸路について云へば次のごとし。
 第一は揚子江の萬縣より梁山、大竹、渠縣、順慶、蓬溪、大和鎭を經て陸路約四百三十哩を駕籠に乘って十三、四日を要して成都に至る。第二路は重慶より永川、隆昌、資州、資陽を經て陸路三百四十哩で以前は駕籠で十日を要したが、今日では立派な道路が建設され、成都・重慶はバスが通じてゐる。第三路は重慶より水路により濾州・叙州を經て嘉定までは小汽艇(三百浬)、上流成都まで約百二十浬を民船によるもので、最も日數を要する。

〔雲棧路(ユン・ツアン・ルー)〕
 成都より陝西省に通ずる嶬峨たる山道を偁して雲棧路といふ。三峡と共に蜀道(四川)奇勝の一つである。「雲棧の險」は成都の東北八十哩に在る梓潼を距る更に三哩の送險亭より始って陝西省の寧羗に近い七盤嶺を以て終ってゐる。梓潼、寧羗間約百七十七哩、七日六泊の行程である。この間に宿驛として武聯、劍州、大木樹、廣元、朝天、轉頭舗が數へられ、何れも奇勝史蹟に富んでゐる。

〔蛾眉山(オー・ミー・シャン)〕
 峨眉山は成都を距る西南約百七十哩、峨眉縣下に在って、大峨、二峨(エルオー)、三峨の三基より成り、大峨は最も高く、標高約一萬尺である。此の山は古來普賢の靈境として名あるのみならず、山頂山腹に幾多の巨刹大伽藍があって、溪山の奇勝は實に驚嘆に値するものがある。殊に山頂に於ける佛光、佛燈の出現は蛾眉山の靈象として人口に膾炙するところ、こゝに拜賽する支那人は無慮數萬で、最近は外人の探勝を試みるものも次第に多くなって來てゐる。
 


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