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戰蹟の栞(126)

雲南省(4)

〔蒙自(モン・ツー)〕
 蒙自縣城は三岔河の左岸にあり、海抜四千二百呎にして百餘平方里の蒙自平原の中心に位す。世人の多くは蒙自縣城は滇越鐵道に沿った都市の如く考ふるも實際は然らず、同鐵道測量當時この地を通過しやうとしたが、諸般の事情で、縣城より約十數支里の距離を有する外圍の山腹を通過してゐる。故に河により蒙自に至るには蒙自黑龍潭、また雲南省城よりは蒙自、碧色寨に下車し、これより蒙自に通ずるものである。河口よりは鐵道で十二時間にした達し、昆明よりは五百二十支里の里程である。
 蒙自は一八八九年淸佛通商條約により開放されたところである。縣城は比較的廣大であるが、城内は寂寞として昔日の壯觀はない。西門外の一部分が商業地として稍々蘩榮してゐるに過ぎず、佛國租界地は東門外にある。人口七萬と偁するも實數は三萬内外に過ぎない。この地は阿迷州、隆安、箇舊、蠻耗、昆明に通ずる商路の要衝に當り、今なほ滇南の商業地として知らる。殊に箇舊の如き大消費市場を控ふることは、この地の強みである。
 蒙自は蒙自大平原にあるを以て自然的に交通の中心地をなし、東は開花、西に阿迷、北は隆安、南は箇舊に通じ、阿迷州へは滇越鐵道による外、舊交通路により、他の各都市へは凡そ幅二間の大道がある。市場にある商品の大半は、香港よりの輸入品である。輸入品中、綿糸はその五割乃至六割を占め、殘餘は諸雜貨である。輸出品は錫及び阿片がその大部分を占めてゐる。錫の輸出は莫大なるものがある。

〔騰越(トン・ユエ)〕
 騰越縣城(騰衝縣)は雲南西部にあり、英領緬甸と西部雲南との通商市場である。海抜五千四百呎で、陸路緬甸へ密支那(ミキナ)八莫(バアモ)に通じ、騰越よりは昆明府、大理府等に交通路がある。人口は縣城及び附近を合して一萬人といはれる。
 英國は一八八六年芝罘條約を結び、ついで一八八九年その付属條約として緬甸、支那の境界及び通商に關する約を定め、そのうちに蠻允に領事館を設くるを規定し、越えて一八九九年これを改め、騰越に領事を置き、一九〇二年更に海關を開いた。
 雲南と緬甸の通商は古來から行はれ、緬甸よりは主として棉花を輸入し、また印度の海産物、寶石、檳榔なども入ったが、一八六五年から一八七三年に至る回教徒叛亂のため、この間の通商が衰へた。是より先英國は一八六八年スラーデンの遠征隊を騰越に送ったが、亂未だ平定せず、地方不安のため歸り、ついで一八七五年ブラウンの一隊はマンダレーを發し、雲南を經て四川に入り、四川より更に上海に至る計畫を立てた。このとき前年上海を發したマルガリーは四川、雲南を經て八莫に來り、これと會見した上で共に雲南に入った。然るに國境に入るに及んで雲南人の反對あり、マルガリーは一度經過したる路とて先導して進んだが、一八七五年二月、蠻允に至るに及び遂に支那人の爲に殺害された。こゝに於て英國は淸國政府に對して嚴重なる抗議を提出し、芝罘條約が成立した次第である。
 騰越は陸路通商場で、緬甸の八莫より百四十二哩、八日の行程である。緬甸と騰越地方との交通線は四あり、すなはち
一、密支那より猛卞、盤西を經て騰越に至るもの。
二、八莫より蠻允、干崖を經て騰越に至るもの。
三、南坎より耿陽、猛戞、龍陵を經て永昌府城に至るもの。
四、崑崙渡より孟定、緬寧、順寧を經て永昌府城に至るもの。
 このうち第二路を主要路とす。英國はこれまで屢々緬甸雲南鐵道を計畫したが未だに實現しない。嘗て豫定測量したものは
(一、八莫騰越鐵道)
 一九〇五年ー一九〇七年間に測量し、その間百二十二哩に輕便鐵道を敷設することゝした、經費百十萬磅。
(二、騰越大理鐵道)
 前線と同時に測量した、その間二百六十二哩、經費三百十萬磅。
騰越附近には、米その他の穀類を産するも多からず、この外鋼玉を産し摩砂として用ふ、干崖に石炭あり、また騰越北方緬甸國境には、鐵を産し鐵器を作る。

〔思茅(ス・マオ)〕
 思茅縣城は海抜四千五百尺の高原に位し、縣城附近は長さ六哩、幅二哩半の一盆地をなし、その周圍には山多く、盆地より約一千五百尺乃至二千尺の高さを有す。
 この地は一八八九年の佛支條約にて開市場となり一八九七年には海關を設けた。水路とは全く關係なく、邊境陸路通商場で、海關輸出入税は特別規定の下にこれを減じ、輸出税は海關所定率の十分の六、輸入税は十分の七とす。人口約九千。
 もと雲南々部に於ける棉花市場として商業盛んであったが、その後回教徒叛亂のため衰へ、昔日の俤無し、且つ近時は蒙自が鐵道を以て佛領に通じ、また西江の汽船により廣西の百色に達するを以て、雲南貿易は主として廣西方面及び鐵道によりて行はれ、この地は外國貿易に於てもその地位を失った。開市の當時は英佛領事が駐在したが、その後これを廢した。
 思茅の交通は全く陸路による。東方に把邊江あれど水利なく、黑河は東京の萊州まで舟を上らしむるも萊州、思茅間は陸路二十四日の行程である。メコン河卽ち瀾滄江は市の西方陸路五日程の地點を流るゝも水利なし。一八九八年、佛國砲艦はメコン河を遡り、佛支國境まで來たことがあるが、この國境から思茅まで陸路十五日行程あり、このほか紅河によるも水路の交通は殆ど絶望的である。陸路の交通は主として馬により、貨物の運送は一隊百乃至四百の馬を列ねて往來す。思茅一帶の物産は茶、棉花、鹽及び穀類で、茶は佛領東京、暹羅、緬甸に輸出す。鑛産としては、金、銀、銅、鉛ありといふも開掘するものなし、普河府城附近の銅山は、これを白龍銅廠といひ、往年盛んに開鑛したと傳へられる。

〔河口(ホー・カオ)〕
 河口は雲南省、東南端、佛領東京より滇越鐵道により雲南に入る第一の關門で、紅河及び南溪河の合流點の北部にある。南溪河を隔てゝ佛領の老開と相對す。この地佛領海防より三百八十五キロ、雲南昆明より四百六十八キロ。
 この地の面積は狭小にして、唯、紅河々畔に迫り來れる山麓より河畔に至る猫額大の地を占むるのみ、従って人口も極めて少く、五千と偁するも到底その實數なし。この地には國境警備軍として約五百の雲南軍が駐屯してゐる。

〔老開(ラオ・カイ)〕
 老開は佛支國境を限る紅河とその支流南溪河との會流點に位し、鐵橋を以て北岸河口に通ず。この地海抜二百七十尺、周圍には五百尺の山岳河岸より屹立し平地を見ず、市街は河岸一街を餘すのみで他は皆山腹または岳上にある。河口に副督瓣衙門、兵營、老開政廳、電氣工場等がある。この地は佛支交通上最も重要なる地で、雲南鐵道により佛領印度支那より雲南に入らんと欲せば、必ず老開を通過しなければならない。佛國の對支關門として一日も忘れ得ないところで、軍事上また極めて重要なるところである。紅河の上流南溪河を隔てゝ北東の小丘上に約二個中隊の安南軍駐屯し、これと相對して紅河の南東にある小丘に約三個中隊が駐屯してゐる。これを統率せる將校は佛國人で兵卒は全部土人である。卽ち交通上、軍事上注目す可きところであるが、商業上には何等見る可きものがない。
 佛國人の植民地的精神に乏しきことは此の地を見ても知る事が出來る。この市街を改革し、大都會を建設し、國境貿易の中心地たらしめることは決して難事ではないのであるが、敢へてこれをなさないところに、自ずから英國との相違が窺われる。

〔富民縣(フー・ミン・シェン)〕
 雲南省城を距る八十五支里の西にある。山間の一寒村で人口約一千五百。

〔宜良縣(イー・リアン・シェン)〕
 雲南府城を距る東方百二十五支里、宜良平原の南端にある。城壁は圓形をなし周圍二十餘丁あり、人口七千、縣城は漢時代よりの古縣であり、今日でも鐵道沿線中の大縣である。

〔羅次縣(ラー・ツウ・シェン〕
 富民縣城を距る西北九十哩の地點にある。縣城なるも富民にも劣る寒村で人口一千内外に過ぎない。住民の多くは農業に従事す。

〔祿豐縣(ルー・フォン・シェン)〕
 羅次の西南九十支里、羅次、富民に比し遙かに優れてゐる。

〔大理府(ター・リー・フー)〕
 大理、下關間は僅かに三十支里で半日行程である。大理は佛教の盛んなところで、俗に佛陀の地とは大理平原の別名である。この地にはその昔道臺衙門があったが、今は騰越に移り、政治の中心も去って、空しく五華樓が聳えてゐる外、市街寥々見るべきものは無い。城内また回教の亂に荒廢した儘である。
 大理府の商業は下關にて行はれ、府城は全く官衙所在地たるに止まる。府城の人口三萬内外である。有名なる蒼山より大理石を切出し、大理石また翡翠の産地として知られてゐる。毎年四月には年市あり、西藏、四川、雲南、廣東等の商人集り、その盛んなる事支那でも有數のものである。(完)


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