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戰蹟の栞(125)

雲南省(3)

〔滇越鐵道〕
 雲南省に於ける交通の樞軸は滇越鐵道である。雲南省城の昆明から佛領印度支那の海防(ハイフォン)に至る延長八千六百十三キロの狭軌であるが、佛國が本鐵道の敷設權を獲得したのは一八九八年、これが開通したのは一九一〇年四月である。
 線路は全線に亙って勾配とカーブが非常に甚だしい。それも安南領内の廣漠たる熱帶林野を走ってゐる間はまだよいが、一度國境の河口から雲南に入るに及んで形勢は全く一變する。河口から北方蒙自までは文字通りの峻峯高嶺の間を縫ってゆくので、世界の奇勝といはれるロッキー鐵道もかくやと思はれるものがある。
 汽車は河口から南溪河に沿ひ、刻一刻急勾配の山路を上ってゆく、芷村に至っては海抜實に五千七百呎、水塘に至っては三千五百尺、雲南附近高原に至っては實に六千四百尺に達する。それを以ても勾配が如何に急であるかを知ることが出來やう、更に河口から蒙自に至る間は至るところトンネンルばかりで、その數二百五十箇處あるといふから大したものである。而もこのトンネルは岩山をくりぬいたまゝで、舗装されたものは殆どない。殊に蒙自、碧色塞以南、才姑、臘哈、底間は峻嶺重層して幾千仭の溪谷がこの間を環流し、無數のトンネンルと鐵橋が相次ぎ、而もトンネルは長くて曲折が多いため、列車はトンネル内に停車して前後を警戒するといふ有様である。とにかくこの附近、そゝり立つ岩山の今にも崩れ落ちさうな斷崖の緣を通る時は、壯觀といふよりは全く膽を冷される。かくて小一時間も走って下を覗いて見ると、遙かに千仭の谷底に今しがた通過して來た線路の驛が小さく見える。さうかと思ふと、溪谷の岩の上を幾百となき山猿の群れが渡り歩いてゐるのも、この沿線でなければ見られぬ景觀である。
 汽車は朝、河口を發して夕方蒙自に着くのであるが、河口がまだ熱帶の蒸し暑い風が吹いてゐたのに反し、蒙自まで來ると一日にして炎熱の夏を遠く離れ、秋のやうな冷たい風が吹く。河口は海抜二百七十尺であるが、蒙自は海抜五千三百尺の高原都市で一日の内に五千尺も上がるのだから、氣候に於て數ヶ月の差があるのも、無理はないのである。
 かうした鐵道であるから機関車のけん引力は非常に減殺され、客車は普通四輛連結に過ぎない。貨車また連結が少ないため賃率が高く、海防、雲南間八百六十二キロの貨物一頓の運賃百三十五弗といふのをみて、一驚を噄せざるを得ない。なほ本鐵道工事の困難を極めた例證としてトンエル及び橋梁の一班を示すと、
  本鐵道の最急勾配        四十分の一
  最大カーウ”半徑         百米
  隧道(トンネル)最長のもの   六百五十米
  二十米以上の橋梁        四十七個
  石造で最長のもの        七十米

〔昆明(クン・ミン)〕
 雲南省城昆明は海抜六千二百呎、北方の東門府城は七千三百呎、西方の思茅は四千五百呎、騰越は五千四百呎で、其の他各地の低いところでも四千呎を下らない。省城は滇越鐵道の開通と共に一八八七年の淸佛條約に基き、一九〇八年解放され、本省政治の中心であるのみならず、鐵道開通後は佛支貿易の中心地となった。この地は秦の滇國の地で、晋、宋、齊に普寧郡とし、梁に南寧州と改め、隨唐に至り昆州と偁し、明に至って初めて雲南府と呼んだ。マルコポーロの日記に哈拉章の押赤と偁するのは、或はこの地であらうといはれる。
 市街は城門内外に分れてをり、邊境の都市にしては頗る殷盛を極めてゐる。城内には火藥店、造幣局、機器局、馬樻局、製革廠など多數の施設があり、陸軍士官學校たる講歩堂はじめ、師範學堂、法政學堂、農業學堂、軍醫學堂など、教育の中心地である。

〔對外勢力の消長〕
 雲南はその昔、唐繼堯が雲南モンロー主義を唱へて専ら省内政治の改良、産業開發に志してから著しい發達を遂げた。唐繼堯時代は彼が日本留學生出身であった關係から、この地の親日熱は極めて盛んであったが、彼が亡くなり、苗族出身の龍雲が主席となってからは、滿洲事變が起きて排日熱が盛んになり、安田洋行(雜貨商)村上洋行(雜貨商)その他の日本商店も學生に破壊され、戸根木領事代理はじめ雲南在住の日本人二十餘名は、唯一人希臘人の妻である者を殘し、全部引揚げたが、昭和九年六月に至り、戸根木領事等の決死的努力により、漸く領事館の復活再建をみ、一旦引揚げた日本人も漸次復歸するに至ったが、今回事變勃潑と共に、再びまた、引揚げる悲運に遭遇したのであった。
 省城に於ける仏蘭西の勢力は素晴らしいものだ。省城の人口は十五萬と云はれ、省内の外人は五百人ほどで、米國人が約五百人(これは大部分宣教師である)その他はすべて佛人である。雲南に於ける仏蘭西の權益は滇越鐵道會社によって代表されてゐるが、この外にも有力な輸出入商があって勢力を張ってゐる。
 一九三二年雲南を旅行した米國のチャイナ・ウイークリイ・レウ”ュウ誌に「雲南は滿洲と同じ道を辿るか」と題して、その雲南視察記を掲載したが、その中に「佛國が意を決して、崩れかけた雲南府の城壁に三色旗を掲げると否とに拘はらず、佛國はいまや雲南省の咽喉を扼し、年々その勢力を加へ髢る」と、述べてゐる。


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