見出し画像

戰蹟の栞(114)

陝西(シエン・シ)省(1)

陝西省概説

 陝西省は面積七萬五千三百平方哩、人口約八百萬を抱擁する。甘粛、山西、兩省の中間に挟まれ、南は四川、湖北、河南の三省に接觸し、北端は外蒙古に隣接し、丁度巨牛の肉片といった地形である。國境は何處を向いても山また山で繞まれ、大體省内は三つの盆地を形成してゐる。
 東には黄河を控へ、所謂渭水が國内を横斷する他、南北に洛水、環江の二大水流は豐であるが、古來民風は保守的で治水灌漑の便が開けず、不思議に三年毎に旱魃があって飢饉で大騒ぎする。ために産物はあまり豐かでは無いが、棉、麻、玉蜀黍、煙草、南京豆、阿片、獸皮、羊毛等の類である。

〔東洋史の一頁〕
 陝西は古の雍州の地であり、省の首都は舊西安の府城で、周、秦、漢、西魏、北周、隨、唐等の七朝は皆、都を此の地またはその附近に置いた。卽ち支那の歷史の開幕とも云ふべき東洋史の曙光は、この地方に認められ、苟も天下に號令をかけるほどの巨人は皆この陝西を中心として活躍してゐる。
 卽ち周は鏑京に都し、秦の始皇は咸陽に自ら帝と偁し、長安は漢の高祖以來隋朝を經て唐の初に至るまで前後數百年間天下の都であった。さらに降って淸朝に至ってからは、北京皇室は古の舊都長安を西安の離宮として、修築保全せしめたのみならず、義和團事變に際しては、聯合軍が天津、北京を占領した時に、光緒帝は西太后と共にこの西安の離宮に蒙塵して安全を期したのであった。
 由來陝西の地は、上代支那統治の頭痛の種であった匈奴の襲撃に對し、最も守るに易き天險の地であった。西北は六盤山脈の連峰によって。西戎、ウイグル、土蕃の侵入を防ぎ、東方には聯枝山脈に添ふて南流する黄河の險あり、南方は秦嶺高峰外方の南に苗族の出現を許さぬ大巴山脈があり、北の外蒙に面しては、横山、梁山の二山系の外邊に長城を築いて匈奴の外寇に備へたのだ。學者の説では萬里の長城は恐らくは此の地點で初めて築造され、これが歷代を經て次第に東西に延長したものだらうと云はれてゐる。長安の中央盆地周圍の連峰の要所には關門を設けて外敵を防禦したので、現今に至るまで、陝西省の中部を關中と呼んでゐる。

〔陝西は漢民族發祥の地〕
 こゝで一言語りたいのは、陝西が漢民族發祥の地であることである。唐の玄宗が長安を見捨てゝ、帝都を河南の洛陽に定めるまで約三千年の間、陝西の地を何故に漢人種が去りがたく守り續けたかと云ふと、單に天險の地たるに依存したのみではなく、寧ろ純血の漢民族の發祥の地であったからだといはれてゐる。
 卽ちまた支那の人材の淵源であるともいへやう。秦の始皇の天下統一を始め、堯が蒲坂に帝位を卽ぎ、舜は壽邱に都し、禹が安邑にて禅位を受けたと云ふのも悉く『關中』内のことである。また周の武王は今日の蘭州街道の岐山に興り、晋の文王、秦の始皇は何れも關中出身である。故に陝西は漢民族發祥の地といはんよりは寧ろ中華文化の發祥地とも云ふ可きであらう。然し、いまや刑徒七十萬の勞力に成る阿房、また富豪十二萬を移して建都した咸陽等、漢民族榮華の跡はその俤を留めず唯感無量である。

〔主要交通機関〕
 陝西は古から沃野千里と云はれ、四塞、(蕭關、武關、函谷關、大散關)の四關で、前述の如くこれから關中の名もある堅固で支那西北地方を統制する重要位置にある。殊に東北失地以來西北を開發せよと云ふ叫びが高くなり、漸くそれは顯著となってゐる。卽ち西北開發の建設的中心をなすものであって、今事變以來中央及び地方の建設工作は殊に著しいものがある。
 交通方面の建設を見ると、先づ民國二十三年の末、遂に隴海線が西安に車を通じ、さらに咸陽、興平等を經て寶鷄に達してゐる。この隴海線を中心として、公路卽ち道路は西安より咸陽、醴泉、乾泉、永壽、邠縣を經て長武に至る西蘭公路をはじめ、西安より咸陽、武功、岐山、寶鷄、鳳縣、褒城を經て南鄭縣に達する西漢公路、西安より潼縣に至る西隴路、西安より紫金關に至る西荊路等大道路網計畫も着々と進んでゐる。
 また湖北を横斷し、漢口で揚子江に合流する漢江上流はこの漢中に源し、漢中には西北地方から四川省に通ずる國道が貫通してゐる。嘗て安禄山の亂に際し、唐の玄宗が楊貴妃の手を携へて巴蜀に蒙塵したのはこの街道であると云はれてゐる。

〔物産の概況〕
 あまり堅苦しい話ばかりが續くが、こゝで一應物産を簡單に紹介しやう。
陝西の物産は、關中、漢中の西區が土地肥沃で、農業、林業の産物が最も多い。陝北區は土地廣く人が少いが、石油、皮毛を産出する處が多い。各縣の穀物としては小麥が最も多く、次は大豆、大麥、稲其の他雜穀で、なかにも南鄭産の香米、黑米、長安の王曲鎭産の熟大米は有名である。棉花は年々産額を增し、棉花九千百萬四千餘擔を収穫し、紡績工場も次第に計畫されてゐる。
 林産は梨、棗、桃、杏、葡萄等の果樹が多く、また松、柏、楡、槲、胡桃等の木材林は秦嶺及び巴山に多く産出する。なかに漆樹の特産もある。桐樹、木耳も有名である。
 陝西省の南部漢江一帶は養蠶が盛んである。
鑛産は先づ石油である。鑛區は延長、膚施、中部、宜君、葭縣、米脂等の縣に分布してゐる。油泉が湧出するもの四、五十ヶ所に達し、多くは岩石から流出し、或ひは溝底、河邊から湧いて水面に浮く、まるで露滴のやうである。漢唐の時代には居民はこれを藥用や燃料としてゐた。二十一年度の産額は七千十三斤であった。國防委員會では頻りに增産計畫中で前途有望だと云はれてゐる。
 鐵は藍田、鎭安、耀縣、鳳城、韓城、寶鷄、安康、留灞等の縣に産し、中でも鎭安の鐵洞溝は最も良く、鑛區は山に随って綿々約十里、鑛石は隕石の如くで、土人も煉爐を使ふ者は毎日千餘斤の精鐵を得ると云はれてゐる。
 その他藍田の玉、洵陽の鉛銅、南鄭の砂金、商縣の石棉、秦嶺の翡翠、略陽の水銀及び嘉魚の石鄜縣、熊耳山の銀鑛、崤山の碧玉水晶等々中々天然資源に惠ぐまれてゐるが未開拓である。
 北部地方は大茘を中心として皮毛はこゝに集り、皮を鞣して毛皮を作り、質輕く毛柔かである。

〔西安(シ・アン)〕
 西安は長安とも云ひ、陝西省首都である。東洋史上に有名な長安は隨唐時代に天下の帝都であった。當時は城下の人は百五十萬を下らず、萬里の旅途を遠しとせず城下に集る西方の白人種は、常に萬を以て數へたと記録されてゐるが、現今はその何分の一にも達しない。
 淸朝時代には、滿洲人町が存在して約四千人の旗人部落があったが、中華民國創立革命の際に全部虐殺されたと云はれてゐる。陝西省には甘粛同様に回教徒が多く、城下には數萬を數へるから漢回兩民族の葛藤は絶ゆる時が無い。
 人口は一時五十萬と云はれたが、第一革命後甚だしく減少し、現今では約三十萬と云はれてゐる。その居住地は城の東北隅に滿洲城あり、全城の凡そ四分の一を占めてゐるが、民軍の放火等により一二の廟を除き滿目荒涼たるもの、城の西北方全城の五分の一の區域は回民の居住地で、彼等は悉く商賣により生活してゐる。
 西安城は東西七里許り、北五里、周圍約三十里で縦横各十里、周圍四十里と傳へられてゐるが、これは誤りである。城の高さは三丈四尺、一番厚いところは三丈、士豪方の厚さはそれ以上で、舊門が四つ、東を長樂、西を安定、南を永寧、北を安遠と云ってゐる。
 馮玉の軍隊が陝西に駐屯した時、北半部に新しく東西の門を開き、東に向ふのを中山門と云ひ、西に向ふのを中正門(前には玉祥門と云ったが現在これを改めた)と云ふ。汽車が通じてからまた城東北隅に北に向って門を開き、俗にこれを隴海門と云ふ。舊四門には各々護城があり、門樓と護城の箭樓は高さ十丈に達し、北京よりも立派に見える。實にその規模に於て北京、南京に次ぐ支那の大城と云はれてゐたが、惟十五年に劉鎭華が城を圍んで八月半、揚虎城等が死守した時、糧食盡きて薪もなく城樓内部の板を焚いたが眞に惜しい。

〔西安の史蹟〕
 西安は中國古代文化の發祥地であり、さらに周、秦、漢、唐各朝の首都であったから名所古跡は枚挙に遑がない。
 長安山脈は秦嶺より分かれて随所に峯をつくり、靑華山、觀音山、山王臺、翠華山、南王臺は最も勝地として知られ、自動車が通じてゐる。
 省立圖書館は宋時代に張載、程頣、程灝の講學した處、後に建て直して藏書以外に、周の大鼎、秦、漢の古器、唐の大鐘、昭陵の石刻馬をはじめ珍奇な古物など大小二百七十餘點もある。
 碑林が南門の東の府學の中に在り、唐の國子監の古址で、その内に顔、柳、褚、歐の各書家の碑が多いため碑林と名付けられてゐる。總計四百七十二種大小四百餘石ある。
 鐘樓は明の洪武十七年に城の西隅に建立、萬曆十年に城の中心に移したが、樓三層、高さ十丈餘、以前には天文館、及び民衆講演所を設けてあったが、今は軍隊が駐屯してゐる由である。その東南部、省政府の前の鼓樓は九柱四層、高さ八丈六尺、その階を歩くと東西六十八歩、南北三十八歩、登って見れば全城内が見渡される。高樓の高さ千尺、まさに仰いで星雲を摘むの槪がある。
 大雁塔は城の東南八里の慈恩寺の中にある。七層で塔の基礎四面各々十四尺、高さ約十八丈、螺旋梯子があって屋根に上る事が出來るし、前面には名碑が多く、雁塔の名が生まれたのである。
 慶佛寺は隋の煬帝の舊宅、後舎は寺となり中に高塔がある。十五層で大雁塔と對峙してゐるので小雁塔とも云はれてゐる。明の嘉靖の地震で、塔は二つに裂け、後にまた地震で裂け目が稍々合した。その幅一尺ばかり、屋根から下へ一直線をなして奇觀である。羊塔寺は隋の寶慶寺である。また唐の楊貴妃の姉妹族人が建立したと云はれてゐる。
 文廟は殿宇宏壯で、古柏が天を摩してゐるが、唐の貞觀年間の建立である。蓮湖公園、宋家花園、淸眞寺、牛頭寺、杜公(甫)祠、董子(仲舒)祠、曲江池等は、皆名勝地で遊覽に價する。
 要するに長安の都は、四季悉く山を以て繞らされた全くの盆地である。全都に亘って井水は鹹味強烈で飲料に適せず、茶水は遠方から運んで來る。陸羽が茶經を説いて、水を喧しく云ったのは尤もである。西安を一歩出でて西方に進めば、秦の始皇が天下に號令した咸陽城に出る。史に名高き阿房宮は北門外五六里の地點に遺跡を留めている。

〔西安事件〕
 今回の支那事變を契機として、國民政府は日本に當るため、中國共産黨と完全に握手し、いはゆる國共合作を行った。この國共合作なるものは、事變後急速に進展實現したとは云ふものゝ、その因って來るところは、昭和十一年も押し迫って起こった、西安事件にその端を發してゐるのであって、西安の項に入った機會を利用して些か説明してみやう。
 昭和十一年(一九三六年)十二月十二日、國民政府の最高權力者である蔣介石は突如として張學良によってこゝ西安の地に監禁されたのだ。これが一世を驚愕せしめた西安事件である。
 この事件に於て蔣が西安に監禁されてから第三日目、張學良から蔣に手交した八ヶ條から成る要求こそコミンテルン乃至は中國共産黨の要求であったのだ。かくて張學良が八ヶ條の要求を出すや幾何もなく中國共産黨の大立者である周恩來は十二月十七日西安に來って、大いに赤色宣傳を行ったものである。その後周は張學良の紹介によって、單身蔣介石と會見した時にこの國共合作の端緒は開かれたのであった。その際周恩來は蔣を南京に歸還せしめるために努力を約したその代償として、次の如き交換條件を提出したのだ。
一、今後中央軍が共産軍討伐を中止すれば共産軍は國民政府軍の下に驅せ參じて、中國刻下の急務である抗日戰線に全力を傾ける。
二、中國共産黨は反南京政府的行動を全く中止して、國民黨と共に對日共同戰線を結成するために努力する。
三、中國共産黨は従來建設したソビエット區に於ける土地政策を放棄する。
四、國民政府を改組して人民戰線の代表を加入せしめられたい。
 これに對して、蔣介石は九分通り周恩來の要求を認めたのであった。それは事變後の事實がこれを證明してゐる。
 卽ち支那事變起こって以來、周恩來は南京に乘り込んで、國民政府の全國國防會議に列席したし、共産軍を夫々國民政府軍に編入して抗日共同戰線を張った事、そしてさらに南京政府は監禁中であった人民戰線派の沈釣儒、章乃器など數名を釋放した事實がある。これ等はまさしく蒋介石が周恩來乃至張學良の要求を殆ど容認した結果だといひ得られる譯である。

〔西安人氣質〕
 西安の人心は一般に剽悍で氣慨に富んでゐる。そのため正直である。南支那方面の如く優柔不斷の徒ではなく、その言語は明晰で、行動は概して敏活、勇猛果斷、事に臨んで躊躇しないのが秦人の特徴である。しかし、これがため往々にして、その言行が常軌を逸して殺伐に流れる。故に戰爭には強いが、商業取引にはあまり眞面目過ぎて怒りっぽいため往々にして失敗しやすい。一寸我が國の江戸っ子氣質に相通ずるものがある。
 彼等はかく氣慨に富んでゐるが、一面に於て惜しむらくは忍耐心に乏しく、卽ち意志剛にして毅にあらざる點が短所で、一氣呵成的の戰ひには強いが持久戰には弱い缺點がある。
 また理財の念が薄いため、隣省の山西人あたりにすっかり目ぼしい利權を隴斷されて、西安に於ける豪商富貴はその大部分が渡り者の他省人に占められてゐる有様である。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?