見出し画像

戰蹟の栞(124)

雲南省(2)

〔抗日據點としての昆明〕
 前項に於て述べた通り、由來雲南省は極めて親日色濃厚な地であったが、滿洲事變に次ぐ今次事變によって親日空氣は完全に拭ひ去られ、殊に事變直後、北京、天津から一旦長沙に移轉された淸華、南開などの排日大學が本年三月雲南に再び移轉されて以來、此の地の空氣は最も強烈な抗日に轉じ、國民黨特派員で省政府委員を兼ねてゐる張邦管が省政府の實權を握るに至ってこの空氣は益々助長され、相當多數を數へてゐた日本留學生出身の官吏は一人殘らず放逐され、中には長期に渉って監禁された上、多額の賄賂を使ってやっと釋放されたといふ者も少なくない。土着將領は不平滿々であるが、省政府主席龍雲もかゝる周圍の情勢に押し流されて抗日を叫び、只管自己の地位保全に努めてゐたが、中央は事毎に彼の誠意を疑って露骨な壓迫を加へ、今や彼の勢力は孤城落日の運命に置かれてゐる。事態がこのまゝ推移して豫想の如く蔣介石の雲南入りが實現すれば、龍雲が多年培養し來った地盤、地位、軍隊、財産はすっかり蔣介石に奪ひ去られ、自滅の他なき運命に立至るは必定なので、心中憂悶の情を禁じ得ない彼は、目下病氣と偁して西山に引き籠り、僧侶を相手に悶々の情を紛らしてゐるとさへ傳へられてゐる。
 開戰後、蔣介石政權は雲南省に多額の軍費を要求し、且つ出兵を命じたので、龍雲は申譯のため政府委員盧漢をして雜軍二千を率ゐて徐州戰線に參加させたが、忽ち全滅したといふ状態で、國民政府蔣介石が雲南軍を多數前線に出動せしめた如く宣傳してゐるのは全部出鱈目で、雲南軍が戰線に出たのは後にも先にもこれだけである。蔣介石は徐州敗戰後、更に龍雲に對して三萬の出兵を要求したが龍雲麾下の雲南軍は總數五萬に過ぎず、そのうち三萬を前線に送らば、さらでだに影の薄い自らの存在が益々薄くなるので、是非ともこれだけは手元に保有して置かねばならぬと主張して、蔣介石の命令を拒絶したといはれる。蒋介石にしてみれば龍雲の軍隊を出來るだけ多く前線に出して自滅させ、その代わりに自己直系軍を入れたいのはいふまでもないが、この際、ことを荒げて自らの最期の據點と恃む雲南から反蔣介石の聲を擧げられるのは困るので隠忍し、龍雲も自滅に追い込まれてゆく自己に焦慮しながら、何うすることも出來ず。お互いの肚を探り合ひながら、微妙な對時を續けてゐるといふのが眞相である。かくて恐らく龍雲の肚は武漢が陥落するか、或ひは日本軍が廣東を占領して蔣介石政權の統制力が著しく低下すれば、その隙に乘じ、四川、貴州、雲南の防守同盟を結び、三省自治政府を樹立して國民黨の勢力を一擧に驅逐し、自己の地位保全に乘り出さんとする野望を懐いてゐるであらうことは想像にかたくない。
 事變前昆明の人口は十五萬人であったが、現在はその約二倍に膨張し、こゝも家屋拂底に悩んでゐる。人口激增の結果、當然物資は不足し、物價は約三割方騰貴した。今年初め例の中央の西南開發の聲に應じて、各種の工場が新設或ひは長江沿岸から移され、電信、電話も着々整備され、發電廠も強力化された。漢陽の兵工廠もこゝに移されることに決定し、すでに敷地も定ってゐるが、技術者不足のため移轉工事は遅々として進まない。銀行は事變前、省立富滇銀行のみで、新舊二種の滇平(貨幣の一種)が流通してゐたが、昨年中央銀行の昆明銀行が設立されたのを契機として、國幣流通が壓倒的となり、現在は中國、農民、金城各銀行の支店も設けられ、交通、上海銀行の各支店も開設準備中である。
 昆明市内の五華山、西門、南門等の要所には高射砲陣地が設けられ、時折日本機空襲の想定のもとに防空演習が行はれ、市民の空襲に對する神經は非常に尖ってゐる。廣東爆撃が開始されて以來、二回も日本機空襲の空騒ぎを演じたほどだ。
 郊外の昆明飛行場は今春大擴張を行ひ、目下、米、佛、蘇聯の飛行教官が盛んに支那少年航空兵の訓練をなし、連日昆明上空で猛練習を行ってゐた。教官は佛國人が最も多く、いづれも西班牙戰爭に參加した實戰の勇士で、印度支那に於ける佛國の空軍と緊密な連絡の下に佛國製最新機の試験飛行を行ってゐる。更に今回米國の資本及び技術によって、昆明附近に相當大規模な軍用機製作所の建設計畫が進められてゐる消息があり、カーチス・ライト會社の代表兩名が、支那側當局とこれに關する具體的取極めを行ったといはれてゐる。
 昆明が今後に於ける抗日政府所在地として特に有力視さるゝのは、此の地が山また山の邊境で支那中央部から遠ざかってゐることで、。こゝまで來ると日本軍の追撃を受ける心配もなく、空襲の危険も薄らぎ、長期抗戰の戸愚呂を捲くにはもって來いの場所だからだといふのである。それに、もひとつ外交團が四川の交通が不便であるからとの理由から、蔣介石に重慶政府將来昆明に移轉すべく提言したことに起因する。外交團の主張に随へば、重慶地方は支那中央部との交通が頗る不便であり、その運輸は重大なる影響を受ける。それと比べると昆明は佛領印度支那との鐵道及び公路があり、更に航空路が連絡してをり、軍事據點として四川より遙かに便利である、といふのである。この他、昆明の地は高原の大氣稀薄で、地勢、氣象、極めて空襲に困難であり、且つ同市は空中より此の地を發見することが容易でないといはれる點等も、政府移轉説の一つの理由となってゐる。いづれにせよ、此の地が印度支那及び緬甸と界接し、直ちに滇越鐵道乃至は自動車路に依って聯絡し得ることが、同地移轉説の有力な原因となってゐることは疑ひないところである。

〔住民・地勢〕
 雲南省は西藏高原の東南に連なり、地勢高峻その高き所は海抜一萬千呎に及び、低き所また三、四千呎を下らない。斯くの如く地勢峻嶮で他省との交通不便のため古來長く支那の版圖に入らず、元明以來支那の派遣せる官吏、この地に駐して淸に至った。
 雲南は歷史的には永く支那漢民族と關係なく、其の人種も西甸、緬甸、暹羅系統に屬し、漢人とは文物言語風習を異にしてゐる。唯、元以來漢人にして四川、湖南、廣東などから漸次この省に移住する者あり。現今では全省人口の半數以上は漢人と同一習俗をなし、元漢人でなかった者もこれに同化してしまってゐる。然し、その西部、西南部一帶に於ては各偁の苗族が居住し、西藏或は後印度系の習俗をなしてゐる。また雲南には唐代より土耳古族の移住し來った者あり、殊に元以來は稍々多數の土耳古系統の者入り込み、回教徒と漢人との爭ひが屢々起こった事實がある。
 雲南省は北境に揚子江の上流である金沙江があり、西部には西藏より來る瀾滄江及び怒江(一名潞江といふ)がある。前者はメーコン河に、後者はサルウィン河となり、共に緬甸に入る。省内に發源する河流の大なるものには南盤江と北盤江の二江がある。唯、これ等の河流はすべて山峡を流れ、全く水利の用をなさない。

〔交通〕
 雲南省の交通路は雲南省城を中心として主なるもの六路ある。
一、雲南省城より東川、昭通、大關を經て横江に沿ひ四川の叙州府に至る。
二、省城より東川に出て貴州に入り威寧、畢節を經て、四川の叙永に至り赤水に沿ひ盧州に至る。
三、省城より曲靖及び霑益を經て貴州に入り、興義府より廣西の泗城府百色に至る。
四、省城より東南に下り廣南を經て省界に近き剥隘に至り、これより廣西百色に至る。
五、省城より楚雄、大理を經て騰越に至り緬甸に入る。
六、省城より南下し蒙自、河口、老開を經て佛領印度支那東京に至る。
 このうち第六路は、滇越鐵道の開通により専らこの鐵道による。佛國が滇越鐵道を延長して省城に至った爲、英國は緬甸より騰越を經て省城に至る線を計畫し、省城より北四川に出る線は英佛の共に志すところ、省城より興義、百色、南寧、欽州の線は佛の計畫するところであるが、なほいづれも豫定線たるに過ぎない。
 佛國が自ら建設したる滇越鐵道(雲南、海防間)は延長五百二十八哩、一九一〇年に開通し、その老開雲南間の敷設權は、一八九八年の廣州灣九十九年租借條約と共に獲得し、支那政府は鐵道所要の用地を提供して、鐵道は全く佛の資本によりて敷設し、これを佛國の所有鐵道とした。
 この外欽州より廣西を經て雲南に出づる線路は、一九一四年佛の中法實業銀行が支那政府と敷設契約を結んだものであるが、豫定に止まり未だに敷設されない。その延長六百七十哩。また雲南省城より四川の成都、或は重慶に出でんとする鐵道予定線は、早く英佛の計畫せんとするところであるが、この間の地勢は遽かに鐵道を敷設し得可きものではない。
 緬甸の八莫寄り騰越に入り大理に至る間は、一九〇五年より一九〇七年の間に英國政府の測量したるもので、八莫、騰越間百二十二哩、騰越、。大理間二百六十二哩、建設費合計四千二百萬磅と計上されてゐる。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?