見出し画像

戰蹟の栞(113)

貴州省の概説(2)

〔貴定(クェイ・チン)〕
 貴定は貴陽の東烏江の上流の濁水河に面し、附近は水田が開けてゐる。戸數約二千、人口一萬。東街、西街、北街、丁字街が最も賑やかである。この町には古來重要な産物であった阿片が、その使用禁止と共に栽培を止め、ために一時經濟上逼迫したが、その後煙草の栽培を始めると共にその蘩榮を回復した。今や貴定煙草の名、大いに上がるり、現在は煙草で町の經濟を維持してゐる。養蠶も盛んに行はれ、北門附近に養蠶學堂があり、養蠶業の研究をしてゐる。またこの附近から無煙炭に近い良質の石炭が産出される。
 氣候は八寨都匀地方に比し寒暑が稍々烈しいが、雨量は頗る多く濕潤がちである。濃霧の時にあっては咫尺を瓣せず到底山路の歩行は困難である。

〔都匀(タ・ユン)岔〕
 都匀は貴陽の東方、岔河の流れに沿って發達した街。戸數千二百、人口約八千。城の西部を流れる岔河の流域に山間を開いて水田を耕作してゐる。東は聯亘する山脈で廻らされ、城の東北隅の丘山に文星閣がある。こゝは市街及び附近を瞰下して眺望が良い。
 産業としては茶、織布、線香、農具等があり、附近には良質の石炭があるので、住民はこれを薪炭の代用としてゐる。
 交通機關としては簡單な轎子がある。これは竹二本で作ったもので、轎夫が客を乘せて擔って歩くといふ原始的なものである。何しろ、貴州の山地には車の通ったことのない道が多い。峨々として峙たつ山には、羊腸たる小徑が延びてゐるだけである為、旅行するには、この轎子に乘るほかはない。

〔鎭遠(チェン・ユァン)〕
 貴陽の東方、湖南省に通ずる街道に通じた都會、府城及び爲街を合して戸數約四千、人口約二萬。四面山に圍まれたなかに沅江に跨って發達し、湖南省との通商上重要な都會である。沅江の北岸にある市街は、東西に亘る大街路を中心として、大商舗が軒を並べ商業が盛んである。地勢上周圍の山岳が天然の城壁をなすから、別に城壁が設けてない。
 沅江の水運はこゝが終點で、省内産物の三分の二はこの市で取引されると云はれ、湖南地方から多くの綿糸、布疋、石油等を移入し、上流地方及び附近に産する木材、米、羊皮、牛皮、茶等の移出口として榮てゐる。
 附近には無水(鎭陽江)、相見坡、偏橋鎭等の古跡があり、苗蠻族が殊に多く居住してゐる。

〔安順(アン・シュン)〕
 安順は遵義に次ぐ本省第三位の大都會で、雲南大道の要衝に當り、人口約四萬、商業の盛んなことは貴陽を凌ぐものがある。然し、貴州西部の中心地としての位置は、最近畢節に奪はれやうとしてゐる。城外を圍む山岳はすべて圓形をなし、まるで中部に鉢巻をしたやうな奇形をなし、奇巖も多く風光も佳く、名勝古跡の多い事は、宛も我が京都を偲ばせるものがある。
 産物は馬皮、牛皮を第一とし、漆器、油類の製造も大いに盛んである。唯、四方が山に圍まれ、雲南大道といへど険岨なところでは道幅が僅かに一間で、車馬を通すことが出來ないところもあり、従って物資の輸送はすべて人力に依らねばならぬことが多い。
 安順から西南行すると、興義に至る中間に雲南大道第一の險路花江玻がある。玻tといふのは嶺のことで、この險所は溪谷を挟んで兩側が屹立した急坂になってゐて、上り下りにも四十五度以上の勾配が在り、この勾配は上下約百キロといふ長距離になってゐる。
 然し、この街道は、雲貴高原を縦走するもので、途上の風光の雄大なるは驚く可きものがあり、峡谷の幽、飛瀑の美は素晴らしい。

〔畢節(ピ・チェ)〕
 畢節は雲南省との境に近い高原に在って、四川、貴州、雲南三省の交通の要衝で、最近急に發展してその勢ひは安順を凌ぐものが有り、人口約二萬、行政、商業上に最も重要な都會である。
 市街は城の内外に發達し、古來阿片の産地として指を第一に屈せられたが、阿片禁止後は開墾事業を起こし、米、麥、玉蜀黍の産が年々增加してゐる。いまや軍事、政治、商業上、貴西第一の重要都市として市況極めて活況を呈してゐる。こゝから安順に至る間の中關索嶺の峻嶮は、北盤江及び烏江の支流の水源地をなし、山谷ともに秀で老樹多く風光明媚である。

〔赤水(チ・シュイ)〕
 赤水は貴州と四川との境界に接し、赤水河の流れが大灣曲を成した地點にある。城の北は赤水河に面し、市内では北街、東街が蘩華の中心である。産物には燐寸、茶、紙などの製造が盛んで四川方面に移出するものには、木材牛皮、茶などがある。この町は高原上の小盆地の底にあるため、夏季は甚だ暑く、熱帯性植物などが蘩茂してゐる。雲南に最も近い關係から、物價はすべてこゝで集散されてゐる。

〔龍里(リュン・リ)〕
 貴陽と貴定縣城との中間に位し、烏江の上流濁水河に沿ってゐる。四方に緩傾斜の山を繞らしてゐるが、南、西、北の三方は城に接して幅二町ばかりの水田がある。
 城壁は周圍二十四丁で、東西九町、南北が八丁あり、別に西門のほか貴陽街道に沿って四丁ばかりの間、市街地を成してゐる。人口は約三千。住民は附近の田畑により自供自足の生活を營み、農暇に僅かの土布を織ることがある。住民は一般に貧困のやうで、湖南より入り貴定を經て龍里に至り貴陽に入る大道が、主要な交通路である。

〔修文(シウ・エン)〕
 貴陽の西北七十支里、黔西の南百三十支里にあり、東北は出野、西及び南は直ちに山麓に接し、烏江の上流大沙溪が城の北部に沿って流れてゐる。
 人口約三千、住民は専ら農業を營んでゐる。貴陽より雲南に行く大道は、此の地を經て黔西に赴くことが出來る。貴陽へ七十支里(約一日行程)、黔西へ百三十支里、また北門から出て暫く谷に沿ふて北東すれば、貴陽より遵義に赴く四川街道に合することが出來る。

〔開州(カイ・チョウ)〕
 開州は民國三年紫江縣と改めた。縣城は一大高原上にあり、附近には山岳相連なる。人口は一時は一萬三千と偁されたが、二、三千の程度。高原地の爲専ら農業を營み、米、高粱、玉蜀黍の産が在る。省城貴陽に近いが、交通不便のためが、教育は發達しない。

〔札佐(チャ・ツオ)〕
 札佐は四川大道に當り、修文縣管下で縣城修文とは西三十支里離れてゐる。人口は城内二千、城外三千、合計五千と偁されてゐる。
 産業としては僅かに米、茶があり、商業は附近に省城があるため振るはない。城壁は周圍三支里、南北西の三門あり、省城に至る要地で旅客は必ずこゝで宿る習慣が在る。

〔玉荓(ユー・ピン)〕
 玉荓縣城は沅江の南三四丁にあり、晃州から西南五十支里、陸路一日の行程。戸數六百、人口三千。城壁は周圍七支里餘り、東西二支里、南北一支里、周圍山を繞らし、盆地を圍んでゐる。湖南晃州より陸路貴州に入る通路に當ってゐるが、貨物の大量なものは、すべて沅江により上下するので、陸路を通過する者は少量の貨物と旅客に限られてゐる。

〔淸溪(チン・キ)〕
 淸溪縣城は、玉屛より四十二支里、一日行程である。鎭遠へは約七十七支里、人口約一千五百。市街は城廓は大きいが、東西一條、長さ三支里のみで、その他は空地になってゐる。沅水を隔てゝ對岸に製鐵所がある。附近より良質の鐵鑛を産す。農産物は豐かで、生活程度が低い。

〔思南(ツェ・ナン)〕
 思南縣城は、烏江の上流左岸に位し、四方山岳をもって圍まれ、東は銅仁(二百數十支里)南鎭遠に至る三百支里である。人口約八千、こゝは古くから發達した都邑で、市街は南北に貫通する興祥街が最も蘩華で、官衙店舗はみなこゝに集まってゐる。市街は秩序整然としてゐるが、何となく活氣に乏しい。

〔安化(アン・ワ)〕
 安化(德江縣)は貴州東北隅に於ける一小縣城で、北沿河を距る百八十支里(三日行程)、東南は百二十支里で思南に至る。人口は約四千。この地方一の盆地をなして、農業に適し、水田多く、産米は之を四川、龔灘地方に移出してゐる。

〔沿河司(エン・ホウ・ス)〕
 沿河縣城は民國三年初めて設置された縣城で、通偁沿河司と言ってゐる。市街は烏江を挟んで西岸にあり、南は二百四十支里で思南、西南は百八十支里で德江縣に至る。人口約八千。古くより商業地として發達し、大商店軒を並べ、商務總會もこゝにある。然し、市街は不潔で道路は狭隘である。産物は桐油をもって大宗とし、漆、五梧子、椿油が之に次ぐ。

〔施秉(シ・ピン)〕
 施秉縣城は鎭遠より陸路約五十支里、沅水の上流に跨ってゐる。人口約二千。沅水には雙鳳橋と偁する大石橋がある。主として農業を營み、附近の平野は農産物に富み、また果実實類も豐かである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?