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戰蹟の栞(123)

雲南(ユン・ナン)省(1)

〔雲南省概説〕
 雲南省は支那の最南端にあり、境を佛領印度支那、緬甸に接し、北は西康省、四川省、東部は廣西省に續ゐてゐる。雲南全省の面積は概算一十四萬六千六百八十平方哩で支那各省中第二位に位する大省で、日本の本州、四國、九州、北海道を合したものよりは稍々小さい。人口は一千萬乃至一千二百萬といはれいづれにしても甚だ稀薄である。

〔住民〕
 住民は雜多な種族に分れ、漢民族の外に苗族が住んでゐり。苗族のうち玀々族は高原地帶に、摩些、力些、苦孮、西蕃等は西北部に、白夷、倭泥等は西南部に住んでゐる。いづれもこの地の原住民であるが、漢民族に壓迫されて僻地に追ひ込まれ、各々その固有の生活を營んでゐる。漢民族は新漢と舊漢に分れてをり、多く商業を營んでゐるが、舊漢は苗族と結婚したりした爲、素質は非常に低下し愚鈍で兇悍、残忍であると云はれてゐる。

〔産業〕
 交通の不便と地勢高峻のため開發が遅れてゐるので雲南の經濟的地位は低い。唯一の有望視されてゐるのは鑛産で、これは錫、銅、岩鹽、金、銀、亜鉛、タングステン、アンチモニー等凡そないものは無いといって云ひくらゐだ。石炭も良質では無いが到る處に産出し、土人は手掘りで家庭用の石炭を採掘してゐる。石油も産出するらしいとのことである。この外、翡翠、琥珀、ルビーなどの寶石を多量に産し、蒼山からは大理石が出る。これ等豐富な鑛産のうち銅と錫は雲南に於ける最大の富源で、銅は東川を中心として雲銅といって古來有名であり、錫山としては南方蒙自の近くにある個舊が有名である。現に十萬人に餘る工夫が採掘に従事し、年額三千萬元を揚げつゝあって世界でも有數の錫山である。
 産金地としては金沙江、大雪山、怒山脈、十二欄干山等、西部緬甸國境近くのものが上げられてゐる。尤もこれが埋藏量については未知數で正確な調査はない。
 雲南の土着工業としては小規模の燐寸、石鹸、製粉くらゐのもので工業製品は全部外國から輸入してゐる。随って、あらゆる工業製品、特に機械類は高價である。日用雜貨類は事変變前までは殆んど全部が日本品で、直接日本人からも取引されてゐたが、排日貨のため日本品でない如く偽装されて、廣東商人の手によって輸入されたものが多く、運賃が高いため、大抵原價の二倍乃至三倍の値段で賣られてゐた。併し、事變後はこれ等の日本品は一切入らなくなった。

〔交通〕
 省内の交通は印度支那に通ずる滇越鐵道(雲南省城昆明ー佛領印度支那海防間)が唯一の動脈であるが、この外、自動車路はこゝ一兩年間に急速に發達した。昆明、貴陽間は事変變前から長途バス(二日行程)が開通してをり、また昆明から緬甸の八莫への軍用自動車道路が開通したと報ぜられてゐる。
 昆明と英領緬甸の八莫(バアモ)との自動車路は軍隊の監督下に晝夜兼行で工事を急ぎ、最短期間内に完成する豫定だといはれ、英本國當局及び緬甸政廳も極力工事の完成に協力してゐる。と報ぜられてゐるが、一方には、雲南緬甸自動車路は、雲南、昆明を基點とし楚雄、下關、保山を經由、騰衝から國境を越えて緬甸の八莫に至るもので、全長一千九百六十支里、卽ち日本里にして八百七十里弱、下關間は一九三六年に竣工し、下關、保山、騰衝間も略々出來上がってゐたので、事變を契機として急速に工事を進めたのは最後の騰衝、八莫間二百七十支里のみであるが、全線を通じ、約三間幅の砂を敷き詰めた道路で、本年三月初旬に全線開通、すでに第一軍が昆明に着いたと傳へられてゐる。

〔英國と雲南〕
 緬甸と雲南は多年國境紛争を繰り返し、英國側の武力による國境侵犯、國境線推進は久しく雲南を刺激し續けて來たが、昨年四月片馬に於て協定成立し、蔣介石は係争地域の五分の二を英國に割譲して、國境劃定調書を作成調印を了し、雲南側は極めて不利な立場となったが、蔣介石は本年に入り英國が國境劃定に不滿を有するを知り、次の如き英國の對支援助を條件として、更にメコン河以西の地域を緬甸に割譲する國境改定取極めを、英國政府との間に新に締結した。 
一、英國は雲南、緬甸國境經由、軍需品輸入に便宜を與ふること。
一、雲南側道路及び飛行場の施設に對し資金の一部を補助すること。
一、緬甸、印度及び馬來半島方面に於ける支那側の反日宣傳を黙認すること。
 なほ當該割譲地帶は砂金その他の鑛物埋藏量頗る大なりと偁せられ、英國側に於ては、早速「バーマ・コーポレーション」をして鑛山實地調査を開始したが、一方蔣政軒權も六月ラングーンに土木技師を派遣し、緬甸雲南聯絡自動車道路工事に着手したと云はれてゐる。

〔嘗ての親日都市昆明〕
 古來、雲南の地は、屢々革命蜂起の根據地となってゐるのは、その住民の激しい性格と尚武の氣風によるといはれるけれども、それよりも雲南省東境一帶の山岳地帶が、東方からの攻略を非常に困難ならしめ、兵を擧げる地理的條件に惠まれてゐるためと見るのが至當で、軍事専門家は雲南の兵一を以て十の攻撃軍を支へることが出來ると云ってゐる。昆明へゆくには佛領印度支那から入るのが一番便利だ。河内から昆明までは毎週一回(木曜日)歐亞航空の旅客機が往復してゐる。午前七時に昆明を發して九時四十分には河内につき、十一時に引返して午後一時半に昆明に着く。片道大體二時間半だ。このほか、河内から昆明迄一週一回滇越鐵道の輕快なガソリン・カーが往復してゐる。雲南高原は平均海抜五千呎なので、經度の割合に氣候は溫暖で、四季草花の絶ゆるときなき常春の國である。沿線の山地はよく開拓され、土地は肥沃で穀物は良く稔り、南部山岳地帶を除けば、大體食糧の自給自足が出來る。米、麥、煙草、玉蜀黍、阿片等、日本にあるほどのものは何でもあり、最近は南部の熱帶地方では、棉、北部の四川境では、漆の栽培が省政府當局によって、熱心に奬勵されてゐる。
 滇越鐵道の終點昆明は省城の所在地で人口十五萬(最近では二十五萬に激增したといはれる)。街の中央の五華山の頂上に省政府がある。五華山を繞って城壁があり、城内は廣き三平方キロ、南門城外の金馬坊、碧溪坊は蘩華な商業區域で廣東商人が密集してゐる。在留外人は約百名で地理的關係から佛蘭西人が最も多く、一番優勢でもある。今回の事變で昆明の在留邦人が全部引揚げた後、今後いつこの地へ日本人が入り得るかは、豫想する事すら許されない状態である。併し、この秘境に、嘗て日本人でなければならぬといふ、徹底的な親日時代があったといへば驚く人も多からう。
 淸朝の末葉、その威令漸く地を拂はんとするとき、滅滿興漢の旗幟が、全支到る處に擧げられたが、その最も活溌な行動の中心は雲南であった。そしてその原動力となったものはいづれも日本士官學校を卒業した、いはゆる支那の靑年將校だった。當時雲南にはこれら靑年將校によって率いられる講武堂といふのがあり、その豫備教育を行ふ「體育學校」が創設され、その主任をしてゐたのが日本人加藤信夫氏であった。加藤氏は日本の陸軍歩兵大尉だったが、陸大在學中に、孫文、黄興らの支那革命の志士とあまり深く交際し過ぎた ため、陸大を退學させられた上、剥官となったが、本人は却ってこれを機會とし、李烈鈞の弟と偁して廣西省の武備學堂に教鞭をとり、その後李氏が雲南に轉じたので、氏もまた雲南に赴き革命志士の教育に盡瘁し、雲南に於ける革命の成功は、氏の功績に負ふところ少なくなかった。その後雲南は、これまた日本士官學校出身である唐繼堯の治政下にあったが、唐は非常な親日家で、何から何まで範を日本にとり、山縣初男氏以下多數の日本人顧問を招いて、財政、軍事を委ねた。
 當時昆明の日本人は百名にも達し、態々
日本から大工や左官を呼んで日本流の座敷を作り、大官の邸内には日本から櫻を移植し、今もその櫻だけは昔ながらの美しい花を咲かせてゐるさうだ。陸相板垣中將も大尉時代を駐在武官としてこの昆明に過ごしたことがある。また昆明湖には日本人からモーター・ボートを取り寄せて浮かべたりし、日本人の黄金時代を現出したものである。それは唐繼堯華やかなりし頃で、大正五年頃から大正末期にかけてのことであった。
 ところがその後、國民政府の勢力が次第に浸潤し、續いて共産黨の勢力も潜行的に入り込んで來るて、日本勢力の昔日の俤は惨めに一掃されてしまった。そこへ、かの滿洲事變が勃発したのである。當時昆明にゐた二十數名の在留邦人は印度支那の河内に避難し、そこで三年間、只管對日空氣の恢復を待った。そして昭和十年の夏ころ戸根領事代理の雲南入りに随って、やっと復歸して行った。然し、三年ぶりに帰ってみた雲南は、決して以前のやうに日本人の世界ではなかった。それどころか、日本人に對する支那側の態度は掌を返す如く冷淡になり、日本人に家を貸す者や日本人に雇はれる者は漢奸として迫害された。しかし、この險惡な空氣も一年ほどで緩和し、漸く落ち着いて暮らせるやうになったとき、今回の事變が起こったのである。
 雲南にはかうした唐繼堯時代の親日家がまだたくさん殘ってゐる。彼等はいづれもその昔、二、三十代の壯年時代、馬に乘って昆明を發し、山を越え、谷を渉って東京へ留學した昔の靑年將校で、今でも日本語を上手に話し、日本の新聞雜誌を讀み、よく日本を理解してゐるけれども皆もう六十、七十の老人で殘念ながら實勢力はない。


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