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戰蹟の栞(119)

福建省(2)

〔福州(フー・チョウ)〕
 馬頭から遡江すること約一時間半にして福州に着く。こゝは前淸時代から引續いて福建省の首府で、人口三十萬、南方烏石山、九仙山を擁し北方越王山に跨り、周圍五哩の壯大な城廓によって圍稀鄭る。東、西、南、北、井樓、湯、水部の七門があり、この門から各大街が縦横に走ってゐる。南門大街が最も蘩華で殊に鼓樓、獅子樓附近がビジネスセンターとして官衙、商店を集中してゐる。
 南門外から閩江々岸の一帶、その對岸を合せて南台といふ。南門から滿壽橋までの間、約三里は狭長な市街で、商取引が旺盛である。外人居留地には各國領事館、教會、病院、倶樂部があり、丘陵を背にして白亞靑松が美しい。泛船浦の江岸に碼頭がある。
 福州への定期航路は大阪商船、日淸汽船、三北公司、協商局、大古洋行、怡和洋行の各船が寄航し、殊に上海、基隆とは交通頻蘩であったが、事變勃發と共に日本船は中止し、支那船は我が海軍の航行遮斷によって動かれず、英國系の大古、怡和兩洋行によって貿易の息を繋ひでゐる。

〔附近の名所〕
 福州は茶の名産地として古來外國に名を知られてゐるが、殊に我が國では基隆より百四十四浬の對岸をなし、また倭寇の上陸地として馴染みが深い。
 倭寇が初めて福建を襲ったのは明の洪武年間であるが、爾来二十年間省垣六度兵を受くと云はれる程盛んに襲來した。随って海上で防禦するため沿海の要所や島嶼に屯所、烽火臺を設け、福州府沿海だけでも水塞一、衞所四、巡檢司九、烽火臺五十に及んでゐる。福州樂群樓と大東電報局の小丘に和寇臺と名付けられたるものがあるが、當時の烽火臺の跡であらうと思はれる。海抜七十米の形勝の地點を占め鼓山、古嶺、北嶺の山々をはじめ閩江、市街を一望の下に収めることが出來る。遊覽者は先づこの臺上に立って大觀し、往昔和寇の壯事を偲ぶのも一興である。
 次に眺望の良いのは烏石山(ウーシォーサン)で、唐代に閩山の名が在り、山中の奇勝三十六を數へる。山中所々に種々なる石刻があるが、摩漄の碑「般若臺記」は唐の李陽永の書で福州最古の石刻、四絶の一と偁せられてゐる。凌霄臺(リンシアオタイ)はその山頂に在り、仲秋の夜、重陽節に登山する者が多い。
 鼓山(クーサン)は閩江河畔に屹立し、盛夏山頂の氣溫福州より平均十度低いといふ程度で、好天の日には臺灣の山が微かに見えるといふことである。有名な湧泉禪寺は山頂に近い中腹にあり、巨刹として有名であるが、殊に、我が弘法大師が入唐の際、駐錫した寺として我が佛教徒に親しまれてゐる。登山路は南臺から轎で鼓山麓に出るものと、閩江をモーターボートで下り鼓山角に上陸するものと二路ある。東際橋から寺までは有名な鼓山の磴路で二千二百九段の石段を登らねばならぬ。途中亭が在って茗を啜ることが出來る。
 福州の寺としてはこの外に西禪寺が有名である。西門から洪山橋に至る街道の右側にあり、堂宇は宋代に再建されたもので怡山長慶禪寺と云ふのが本名である。伽藍は湧泉寺より立派で、境内にある茘枝は五代目の高僧慧梭が手づから植ゑたものだといふので有名である。

〔福州料理〕
 福州の料理は北京、南京、廣東、四川と並んで特色あるものとされてゐる。福州料理の特徴は魚介を多く用ひ、味も淡白で日本人の嗜好には適する。臺灣の支那料理は元來福州から傳ったものであるが、今は日本人に迎合して大分變化し、福州料理とは違って來るた。
 宴會料理を大席と云ひ、大抵夕刻催し、常食料理は飯菜と云って晝夜を問はない。大席は十二人まで座る一卓が十三弗から十五弗、飯菜は三弗から五、六弗である。福州料理の最も特色を現してゐるのは蚌の料理であるが、これは蛤に似た貝で非常な珍味とされてゐる。

〔延平(エン・ピン)〕
 福州から閩江を遡る事に百公里の所に延平(南平とも云ふ)があるが、建溪、沙溪、富屯溪の合するところで、水路が四通発達した舟楫の便が良く商業が盛んである。物産は茶、紙、米、豆等である。邵武と共に昔から要害の地として有名で「銅の延平、鐵の邵部と云ふ俗語がある程で、元末の陳友定が此の地に據ったことがある。城内山が多く、居民の家が高く低く重り合って、閩江上の舟から見ると、パノラマの様に美しい眺望である。
 こゝで特に興味の深いことは、延平人の言葉は福建省には珍しく淸晰してゐると云ふことである。元來福建省は南蠻鴃舌の國と云はれ、言葉の全く通ぜない所とされてゐる。それがため福建省内の一人旅は出來かねるわけである。

〔崇安(チォヌ・アン)〕
 崇溪の上流南岸に崇安の街があるが、その南方に茶の名所として有名な武夷山がある。平地の高さ千尺もあり、沙岩、花崗岩、片岩が多く、その崩壊した土壌に栽培した茶を最上として嵓茶と云ってゐる。武夷茶の奇種に烏龍と偁する茶があり、一斤六元位であるが、福州のある茶商は一斤三十六元で天津に賣ったと云ふことであり、奇種中の一等品水金龜の如きは一斤六十四元もする。現在では臺灣に産する烏龍茶によって世界的に有名となった。烏龍といふ奇妙な名は、茶の樹に黑い蛇が巻き付いてゐたため特別な香ひがしたので此の名を付けたのだと傳経られてゐる。
 こゝで福建茶について述べることにするが、福建茶は十九世紀に世界的商品として貿易界に登場してをり、印度、臺灣茶に壓倒された現在でも、なほ福州から年額二千五百萬斤を輸出してゐる。種類は紅茶、綠茶の外、香氣高い茉莉、珠蘭、梔子、桂花の花や蕾を混入した花燻茶、壓し固めて煉瓦形にした磚茶などがある。

〔建寧(キエン・ニン)〕(建甌)
 五代閩王延政が帝を偁したところで、建溪、松溪の合流點で、山水の嶮に據って要害の地である。宋の韓世中が范汝爲を討たんとした時、蒙古が水陸から閩の國に攻めよらんとした時、宋が陳友定を討伐した時いづれも先づ建甌を狙ったものである。現在は建溪の水運を利用して商業上の要地となり、人口も南平以上で、茶、食鹽の賣買が盛んである。

〔邵武(シャオ・ウー)〕
 城は樵川上に跨ってゐて、舟の便はあるが、頗る難所が多い。富屯溪から上流七十公里の間に五百餘の難所があると云はれて「一灘(難所の意)の高さ一丈、邵武天上に在り」と云ふ俗語すらある。

〔三都澳(サン・トゥ・アオ)〕
 福建省の北東部にあり、福州から約七十浬の間小汽船が往來してゐる。三都澳ちふのは三沙澳の全部を意味し、三都島を中心に飛鸞、寧德等六つの内港がある。三都島は周圍約二十粁の島で、一八九九年支那政府が自發的に開いた開港場である。錨地に面した沿岸の外人居留地には伊太利領事館、福建海關をはじめ郵政局、銀行、會社が多く中心地帶である。
 港は島の南岸と陸との間に在って、風波を防ぎ、水深く天然の良港である。貿易の主なるものは福建茶の輸出であるが、最近では桐油、煙草等も亦福州、臺灣との間に交易が盛んに行はれてゐる。人口五、六千。

〔厦門〕
 五月十日未明突如我が海軍部隊の敵前上陸によって完全に占領されたる厦門港は、南京條約による五開港場の一であるが、事變後は日支の船は動かず、英國系大古洋行、怡和洋行が獨占的に通航してゐる。
 厦門の街は厦門島及び鼓浪嶼の二島から成り、その中間が自然の良港をなしてゐる。宋末の端宗がこゝに避難したことがあり、廣東福建の海賊の根據ともなった。明末には國姓爺として我が國に知られてゐる鄭成功が、明朝恢復の義軍をこゝに擧げ、又阿片戰爭に際しては英國艦隊によって占領されるなど、歷史的にも國際的にも著名な街である。
 人口は約三十萬、我が臺灣島民は殆ど厦門の出身であるため、未だに縁故が深く、事變前の臺灣籍の居留民は八千人以上に達してゐたが、昨年八月萬一を慮って在留邦人約四百人と共に基隆に引き揚げた。
 厦門島は周圍約三十五哩の小島で、岩石累々たる赭山が南北に連り、その一帶に長柵、砲臺があって、自然の要塞を爲してゐるが、我が海の荒鷲によって幾度か空爆を受けてゐる。
 厦門の市街は西南海岸の一帶を占め、東區は昔のジャンク錨地、西區は商業地である。日英兩國の租界は海岸樞要の地點を占め、臺銀、大阪商船、三井物産、中國銀行の各支店、商業會議所は皆この海岸街に櫛比してゐる。支那街は下水が石疊の路に溢れ出て、黑豚が横行してゐるといふ汚さであったが、近年は市區を改正し、水道を敷設し、衞生思想の宣傳を行ったため次第に近代都市の面目を具へて來た。西區の思明南路の如きは舊式市街が全く改造され市區井然として隆盛を極めてゐる。臺灣籍民の學校旭瀛書院は我が領事館の經營で日本人を校長としてゐる。
 鼓浪嶼(コロンス)は周圍約三哩の小島であるが、「南支の樂土」と云はれる程美しいエキゾチックな島である。山靑く水淸らかであり、氣候も溫和である。共同租界はこゝにあって、我が國はじめ各國の領事館、臺灣富豪家の別莊、成功して老後を樂しむ南洋華僑の家などのために全く洋化されてゐる。なほ厦門が最近貿易の衰退にも拘らず、入超のバランスを保ってゐるのは全く南洋各地に出稼ぎしてゐる華僑(海外在住支那人)の送金によるものであると云はれてゐる。
 輸出上の主なるものは、茶、煙草、煉瓦、麻袋、雨傘等で、殊に厦門の西方龍溪河畔から出る煉瓦、泉州、南安、石碼方面の石材は有名である。
 名所としては、鼓浪嶼の日光巖(チーコンギャン)が有名である。同島の中央に聳える巨巖であって巖上に登れば厦門一帶の風光は一眸の下にあつまり、濤聲鼓を打つの如くである。巖上に「鼓浪洞天」の大文字が劃されてゐるのは、卽ちこのためである。
 鼓浪嶼の南方海上四浬の對岸にある南太武山の上に高さ六十呎の石塔がある。南太武塔であって、その特殊な形状は旅行者の目を樂ませる。
 城東約三哩、五老山麓に厦門第一の名刹南普陀(ナンポウトウ)がある。一九〇八年米國艦隊淸國訪問の際、歡迎場となったところで、宋朝時代の創設である。本尊の觀音菩薩、五百羅漢が有名である。なほ厦門より三浬の對岸嵩嶼(ションスウ)と漳州を繋ぐ漳厦鐵道は本省唯一の鐵道である。
 

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