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戰蹟の栞(112)

貴州(クイ・チョウ)省

貴州省の概説(1)

〔氣候と地勢〕
 貴州省は廣大なる高原から成り、その平均高度は千三百米で、雲南の地勢から見れば頗る低いが、この高原上にさらに幾多の山嶽が起伏して、全面積約十七萬五千平方キロの約七割は全くの山地である。
 山脈中最大のものは苗嶺であって、雲南の北部から本省の中部を横斷し、漸次低下して湖南、廣西の境界を劃しつゝ東に走ってゐる。そしてその西南部が最も高く、平均二千四百米以上に達する。随って本省は、苗嶺によって南北に二分されてゐる。東部一帶の山地は凹凸の少い低平な高原で、最もよく開墾された地方で、山頂に到るまで開墾されて水田となってゐる。その反對に西方に於ては高原上に幾多の峻峰が屹立して交通の便と水利に乏しく、耕地は殆ど開けず僅かに畑地が點在するばかりである。
 河水は苗嶺によって南北兩面に分水され、烏江、赤水河、長忌江(沅江)等は北流して悉く長江に合し、北磐江(花江)柳江等は南流して西江に合流する。中にも烏江は省内最大の河江で水源より四川省内の揚子江に注ぐ合流點まで、延長千二百キロあり、これは黔江とも云はれてゐる。長忌江は北東に流れて湖南省に入り、沅江となり洞庭湖に注いでゐる。
 氣候は高原の爲、緯度の低い割合に暑氣は激しくなく、また冬季も高峻な山地を除けば寒氣は烈しくない。然し、一般に濕度が甚だしく濃霧が常に立ち込め、細雨が止むことが少い。常に晴雨定まらず、晴れたと思へば一瞬にして灰色の濃霧に閉ざされ、やがて飛沫のやうな細雨となるといふ風で、晴天が三日も續くことは稀である。殊に南方の谿谷地方では十月から二月までの五ヶ月は雲霧が天を蔽って、晝間も黄昏時のやうに鬱陶しい天氣が續くのだ。

〔住民〕
 この地方は土地が峻険、地味が痩せてゐるため、住民の數は頗る尠い。その上比較的文化人である漢民族は極めて少數で、全人口の約四分の三は苗蠻族によって占められてゐる。人口の密度は甚だ稀薄で一平方キロについて約六十人に過ぎない。
 漢族は諸河の谷地に發達した都會に居住し、苗蠻族は苗嶺山地に最も多く居住してゐる。いまは都邑地方には、苗族も漢族と同等に生活する者も多くなってきた。
 苗族はその昔揚子江に三苗國を建設して漢民族に對抗してゐたこともあったが、當時は性剽悍勇猛であったらしいが、現在では全く敗殘の境遇で意氣沈滞して快活敏捷のことは望まれない。衣服や笙、笛などを非常に愛玩する。これは苗民族の消極的生活と性格を表徴するものであらう。
 西南部の廣西省境附近の苗族は、伐木、筏夫等の業に従ってゐる。東部地方民は大概農業に従事して水田に稲を、畑には玉蜀黍を作り、之を常食としてゐるほかに、副業としては水牛、鷄、豚などを飼育してゐる。
 家屋は廣西、雲南方面のものは木造であるが、其の他は附近に木材が少ないため、大抵木材を使用せず石造りが多い。

〔沿革〕
 貴州省は戰國時代には楚に屬じ、黔中の地と偁し一部は夜郎及び且蘭諸國に屬した。秦には黔中郡となり、漢初には南夷と偁せられたが、その元鼑六年將牁郡を設置し一部は武陵郡となった。周は貴州を置き、隨初には庸州、將州、貴州に分屬せしめられた。その後淸朝に及び、明の制に依りこれを貴陽、安順、平越、都匀、鎭遠、思南、石阡、思州、銅仁、黎平の十府に分かった。現在はこの行政區劃を廢し、強ひて三道八十一縣としてある。

〔未開の寶庫〕
 貴州の山地には虎、豹その他の猛獣や狐、狸、狼、栗鼠等の動物が多く、其の毛皮は年々相當の金額に上ってゐる。
 また廣西との境界地方からは、松、杉等の木材を産し、之が苗族の手で伐採され、筏に組んで沅江を下し、湖南省に出してゐる。苗嶺の山地にも大森林はあるが、交通に不便なるので、沅江、銅仁江その他の河水を利用し得る附近以外では、大概苗族の住居を作るため以外にはあまり産出しない。
 一體に交通の便が惡いため、鑛産方面にも大いに支障を與へゐる。雲貴炭田は雲南、貴州兩省に跨る廣大な面積を占め、その埋藏量は無限と云はれ、その露出區域で小規模な採掘を行ってゐるが、そのうち興義、貴陽、大定、會理、大姚の炭田が在る。
 貴州の茶はその産額は頗る多く、貴陽、思州、安順、興義、都匀、平越、石屯、遵義等から産出し、綠茶、紅茶とも他に移出する。
 この他桐油、葯材、牛皮、木脂が主要な産物として、烏江、銅仁江、沅江等により他に移出されてゐる。
 要するに、貴州の地は農産、鑛産等に惠まれながらも交通機關の不備の爲、産業が不振である。また貴州の特産としては阿片がある。阿片禁止令が布かれてからは、その産額は次第に減じたが、今でも州内殆ど到る處に自家用の阿片が栽培されてゐる。貴州の内部を旅する時には、どんなに小さな部落でも、その町外れには必ず一軒か二軒位『煙』と書いた軒行燈の吊るした家が發見される。これは日本の燒芋屋の看板のやうに四角な紙を貼った行燈である。これが阿片を賣る家で、なかを覗いて見ると、二、三人の靑白く透き通るやうな顔色をした人が暗がりの中に蠢いてゐる。これは阿片で生命を保ってゐる中毒患者である。

〔交通〕
 昔時黔といった地方で、現在、貴陽附近の黔中道、鎭遠を中心とする鎭遠道、畢節を首都とする貴西道の二道に分れ、全州八十一縣に區分されてゐる。省内には未だ一條の鐵道も通じないため、河川による舟運の便が唯一の交通機關ともいふ可きであるが、それも多くは急湍で、四川、湖南方面への出入口としては、烏江、銅仁江(辰江)、沅江、赤水河等があるが、危険の少ないのは銅仁江、赤水河のみである。他は皆季節、水量によっては用を成さない場合が少なくない。
 陸上の交通も、道路の開鑿が困難な爲、車馬の使用も制限される状態である。殊に西部地方は、車と名の付くもので長途の運搬の出來るものがなく、雲南大道(雲貴街道)と偁する主要道路でさへも、山間に至れば幅一米の處もあり、全く駄載以外には望まれない。
 こんな状態の爲、貴州では飢饉の場合は餓死する者が多く、土匪なども頻りに横行する。土匪といっても追剥の大仕掛けなもので、ピストル、小銃、靑龍刀等を携へ、鋭い呼子の笛と共に出現して、旅人の所持金を奪ひ去るが、この一團は二、三人から時に數十人の場合もある。團長は絶對的な權限があり、部下は命令に絶對に服従する習慣で、彼等は旅人から金を捲き上げると、一應勘定した後、その金高に拘らず、一元(一圓)位の涙金は必ず殘して行く。これが土匪仲間の道德になってゐるさうだ。
 この土匪があまりに出現すると、軍隊が出動して征伐するが、この軍隊たるや頗る怪しいもので、時々土匪の眞似をして旅人を襲ふと云ふから貴州省内の旅行は實に危険といはねばなるまい。
 然し乍ら、いまや敗殘の蔣政權は武漢を追はれた後の敗走路として、雲南、貴州、四川、陝西方面を選び、貴州省の首都貴陽も軍事的に非常に重要視され、産業施設に對しても着々建設の計畫も進められてゐるので、今後貴州省は昔日の桃源郷を脱して、種々の近代的施設に面目を一新されるだらうと見られてゐる。例の沙興鐵路も開通すれば、湖北省の沙市から、湖南省に入り沅江に沿ふて思州、鎭遠から貴陽に入り、さらに安順を過ぎて興義に至るもので、さらに雲南より咸寧、大定を經て四川省の成都に接續する欽渝鐵路の二豫定線が完成すれば、貴州の開発こそ見るべきものがある。

〔貴陽(クイ・ヤン)〕
 首都貴陽は、省の中央部、雲貴高原の擂鉢形をした小盆地にあり、沅江の水源に當ってゐる。海抜約千五百米の高所にあるため、夏冬ともに寒暑の差が少なく、氣候は割合に溫暖であるが、晴天の日が少ない。霖雨が終日天を蔽って、黄昏れ時のやうな日が續くことが缺點である。
 城郭の南側に南明河が東方に流れ、淸水江と合して烏江に注いでゐる。市街は新舊の兩城下に分れ、合して戸數十萬の大都會である。舊城は市街の南方に在って圓形をなし、新城はその北に接續して楕圓形の城郭を廻らしてゐる。南明河の一支流はこの兩城を貫流して、舊城外を流れる他の支流と共に、南門外で本流と合してゐる。
 城内は新舊兩城共に人家櫛比してゐるが、城外には人家少なく、苗族は大部分城外に居住し、今では漢人と同等に交際してゐるが、一般に貧困者が多く、勞働に従事する者が多い。
 舊城の南、南明橋を渡って南門に入れば、本城最大の街路が北に走り、大廈櫛比して頗る蘩榮を極めてゐる。大南門から北門に通ずる大道と大東門と大西門とを結ぶ大路との交叉點を大十字路といひ、商業の中心地で市内第一のメーンストリートである。
 貴陽は貴州省の行政中心地で、數多ある各種の官衙の組織は悉くその範を日本に採り、軍事、警察、教育等皆日本式である。省の最高學府である法政學校のほか教育機關も完備してゐる。
 舊城の大西門附近にある貴陽公園は規模宏大、亭池の設備、花壇の構成など數奇をこらし、大東門數丁のところには王陽明を祀る古刹扶凡寺があり、こゝに王陽明の拓本が數種ある。扶凡寺に相對する丘陵の上に東山寺がある。附近一帶の眺望の良い所で有名である。この他、南方の山上には仙人洞、英人の經營する教會福音堂、關帝廟、文廟(孔子廟)等の名所が多い。
 産物の主なるものは、石炭、牛肉、茶、麻、煙草、漆、米、水銀、麥等であるが、交通不便の爲他地方への移出が振るはず、石炭などは空しく地下に埋藏されてゐる。
 貴陽府城の建設されたのは、明の洪武十五年で當時の城壁は周圍九里七分、高さ二丈二尺、城門五つあって、東を照文門、南を迎恩門、西南を廣濟門、西を振武門、北門は布德門といった。その後天啓六年總督張鶴鳴、巡撫王碱、北門外に今日の外城を增築し、城壁六百餘尺を延長した。淸の順治丁亥の年苗族が外城を毀ったので、同十六年總督趙廷臣が更にこれを修理して城壁の高さ三尺を增したものである。

〔貴州は日本贔屓〕
 一體に貴州は日本贔屓の地で、前述の如く軍事、教育等日本に範をとったものが多いが、なかにも貴陽にある省内の最高學府法政學校(専門學校程度)には明治大學出身の校長もあり、早稲田大學出身の教授も數名ある。
 また農業學校長も我が農大の卒業者で、随意科として日本語を教へてゐたが、これも最近は蔣介石の抗日教育のため親日色は次第に薄らいできた。
 製紙の工業化、醬油醸造法も我が國から移植されたもので、我が國に留學する者、また日本から教師に派遣された者などが相當多いため、貴陽城の知識階級には日本語を解する者が相當ある。
 城内の四圍の山は比較的樹木が多く、空気が澄み、稍々濕潤の嫌いひはあるが、一般に衞生的で、市街も淸潔で傳染病としては時に赤痢、天然痘、コレラ、等の流行することはあるが、甚だしいものではない。飲料水は悉く井戸水をも用ひ、水質も良好とは云ひ難いが、飲用出來る。

〔遵義(ツン・イー)〕
 遵義は貴陽の北に當る本省第二の大都會である。人口は約四萬五千、商業が盛んなる事貴陽、安順を凌ぎ、省内第一の市場である。赤水河による四川省方面との通商は此の地が物賣の集散地で、その蘩榮振りは素晴らしい。物産には米穀及び漆が在り、養蠶も盛んである。この市の附近は本省内でも早くから開發された關係から内外に數多くの名勝古跡がある。

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