戰蹟の栞(116)
四川(スー・ホウ)省(1)
四川省の概説
四川省は揚子江の上流、支那の中央西端に位置して、東は西康、南は雲南、貴州、北は陝西、甘肅に聯なる。東南の一部は湖南に、西北の一部は靑海に接す。面積は四十万三千六百三十四平方キロで、支那本部十八省中の第一、日本内地よりも廣大である。人口は約五千五百萬人と偁せられ、この面積人口とも、優に一獨立國を成すに足る。今次事變の途次、蔣介石が漢口敗退後の一據點として四川を重要な考慮の中に入れ、彼が信任する張を派遣して、四川將領の反中央の空氣緩和に務る傍ら、その豐な資源の開發等に努力しつゝあるのも宜なりと云ふ可きである。
禹貢時代は梁州と偁し、周代には雍州に屬し、秦には巴蜀二郡となる。四川省を巴蜀の地と偁するのは之が爲である。宋代に四路を分ち之を四川路と總偁し、四川の名は之より出たが、明代に四川布政使司を置き、淸代に四川省となった。
境内は山脈蜿蜒とし邱陵起伏、至る處嶺岡岸壁をなし、四周最も高く、西境の大雪山は海抜一萬乃至二萬尺の間に在り、北境大巴山には平均一萬尺以上、東南の武陵山は六千尺に及ぶ。中央部に至るに及び次第に低下し、成都附近は海抜千五百尺で、境内の水は悉く長江に入ってゐる。長江の上流は之を金沙江と偁し、雲南より東流して境内にはいり、左に鴉礱江を合せ、東北に流れて敍州に至り、右に横江、左に岷江を合し、之より以下を揚子江と偁してゐる。揚子江は永寧河、陀江、赤水河、綦江、嘉陵江、烏江等を合せて湖北省に入る。
氣候は西北高山が西北の風を防ぎ、省内の諸流は南方の暑氣を調解し、氣候は大體溫和濕潤で農業に適してゐる。人口は約五千五百萬人と偁せられ、漢民族の外に玀々族、苗族等もある。
四川省は古來天府と偁し、物産豐饒にして、氣候熱帶に近く、農田は年三回の収穫あり、金、銅、鉛、錫等の鑛産も亦富裕で、支那全國經濟上極めて重要の地を占むるが、政局常に不安で、軍閥の相剋、共産軍の蹂躙等の爲、生産建設全からず、軍閥の苛斂誅求は省民を苦しめてゐる。とは云へ地理上の關係より、石炭、鐵、石油、水力等の基本産業頗る豐富で、鹽の産地としては全國に著名である。
最近、新興工業も次第に發達し、苛性曹達、硫酸、洋灰等の工場も設備されてゐるが、原有工業の副産物の程度で、現状を以てすれば單に資源豐富で、其の發展性は寧ろ將来にありと云ふ可きである。
〔鐵道〕
四川省には現在民營輕便鐵道を除き既設鐵道はないが、川漢鐵道、欽渝鐵道の兩鐵道の豫定線は従來支那鐵道建設史上著名であり、殊に支那事變勃發後、揚子江上流地方に逃げ込んだ抗日政權は、長期抗戦戰の目的達成のため、兩鐵道建設に外國資本の誘導狂奔してゐるので、こゝに計畫案と沿革を略述する。
(一)川漢鐵道
漢口を起点點とし、揚子江左岸に沿ひ、宜章、萬縣、重慶を經て成都に至る延長一千九百八十粁の豫定線であるが、借款關係の複雜と支那革命の導火線となったことに於て著名である。四川省が物資の豐富なるにつけこんだ英佛兩國は鐵道計畫に著目し、英國はビルマを、佛國は雲南を根據として各々自國勢力伸張のため、四川に達する鐵道建設を要求し來った。然し、當時の四川總督錫良、湖廣總督張之洞は之に反對し、四川湖北兩省の省瓣を以て漢口、成都間の鐵道敷設案を立てたが資金集らず、ために四川省側は四川鐵路公司を設立してこの計畫より分離した。然し、之も内部の意見分かれてものに成らずと見るや、英米獨佛は熱心に政府を説き、政府も動き國有となし、四國借款六百萬磅を締結するに至ったが、鐵道國有策は地方民の反對を買ひ、四川暴動となり、革命の導火線となったのである。而して此れも歐州大戰の爲ものにならず、大正九年十月紐育にて日英米佛の新四國借款團成立し、英米佛は前記借款を提供することになったが、未着手の儘今日に及び、支那事變前蔣介石は四川省の剿匪のため、豫定線を變更して揚子江右岸に鐵道敷設を企圖し、測量に着手してゐたが、資金難のため實現するに至らず、事變後も建設資金の獲得に狂奔してゐると傳減られてゐる。
(二)欽渝鐵道
本線は廣東省の欽州より南寧百色(以上廣東省)、興義(貴州省)、雲南(雲南省)、敍州、濾州を經て四川省の重慶(渝)に達する延長二千三百粁にして廣東、廣西、貴州、雲南、四川の五省に跨る豫定線で、大正三年佛國の獲得せるところに係る。
然し乍ら此の鐡道も、國内に於ける國權恢復運動、列國の利權獲得競争、世界大戰の勃發、支那國内の内亂等相次ぎその儘となり、今日に於ても實現しなかった。而して支那事變發生後、蔣介石はこの豫定線に沿ひ、自動車道路の建設に着手し、鐵道建設に就いても資金獲得に努めてゐるやうに傳へられてゐる。
〔水運〕
本省は揚子江の上流に位し、岷江、沱江、嘉陵江等の諸江縦横に省内を貫通し、頗る水利に富むが、揚子江の重慶下流及び敍州、嘉定間に小蒸気船の運航あるのみで、それも全省の小蒸気船河航範圍の四分の一に過ぎず、其の他は概ね幼稚なる民船による。
(イ)重慶下流
河身の屈折多く、江岸、江底に岩礁が多いので随所に激流急灘を生じ、いはゆる「三峡の嶮」もこの間に在って航行最も困難である。而して重慶、虁州間二百四十浬は虁州、宜昌間百十浬に比して灘少く、河幅も比較的廣く、航行稍々容易である。殊に重慶、萬縣間の七十浬は良水路である。然し萬縣下流には大舟溪灘、新龍灘等の灘があり、虁州、宜昌間は所謂三峡で航行頗る危険である。航路が上の如くであるから航行には時を選ぶ必要がある。元來揚子江の水量は毎年三月下旬より增水し始め、七、八、九の三ヶ月間最も高く、十月下旬より減水し、十二月下旬より一二月の交が最低水期である。故に一般的には增水乃至減水を開始する頃上航に適す。従來軍艦の遡航には四、五月或は十、十一月を選ぶを常とし、吃水稍々深き船は減水期の航行は不能である。宜昌、重慶間の航路は、重慶、萬縣間は四季小蒸気船を通ずるも、萬縣下流は毎年四月中旬より十二月中旬に至る八ヶ月に限られ、一、二、三月には汽船は小型のものでも、海關に於て絶對航行を許可せぬを例としてゐる。使用汽船は大體積載噸數四百五十噸、吃水八呎、長さ二百呎のものを最大としてゐる。これらの汽船の數も極めて少なきため運賃高く、従って農産物等は總て民船による。
(ロ)敍州、重慶間
敍州下流、重慶に至る間は河端比較的廣く急流が少ない。水速は冬季平均二節乃至二節半、夏季增水時は六節を普通とし、汽船は吃水六呎、速力十二節のものは普通增水時に於て、遡航可能なるも最低水時は不可能である。
〔四川の農村〕
本省は従来支那全國一の富裕省と偁されてゐたが、現在その農村は殆ど破壊されてゐる。その原因は複雜であるが、第一革命以來絶間ない軍閥、政客の抗争が重大原因とされてゐる。
民國元年(大正元年)には四川に於ける軍隊は、僅かに一萬二、三千だったが、五年には三萬、十年には十餘萬、十五年には二十萬に增加し、同廿年には五十萬に達してゐる。この間戰爭を惹起すること四百回以上で、如何に富裕省と雖も此れでは窮乏に陥らざるを得ないのである。然も、近年は賀龍、徐向善等の共産軍が蟠踞し、それに江西省を追はれた朱德、毛澤東の共匪も侵入したので、赤禍の被害も甚大なるものがあった。四川省軍閥、政客の省民を苛斂誅求せる一例(中國銀行週報より)を示せば次の如くである。
「四川各軍の軍費總額は九千萬元で、その最大収入は糧税、附加税及びその前徴である。その徴収状況は民國二十一年(昭和七年)内亂未發の時に第二十軍(掦森)は一年六徴、第二十一軍(田頌堯)は四徴である。民國二十三年第二次内亂には更に甚だしく、第二十軍及び第二十三軍(羅澤洲)の聯合軍は民國四十七年度(昭和三十三年)まで前徴し、第二十一軍は一年二徴に改めたが、駐在地で勝手に公債を發行し、第二十四軍は一年八徴と改めたが、此れは民國四十六、七年度分までの前徴に相當、二十八軍は民國六十三年度までを前徴・・・」といふやうに各軍その苛斂誅求振りは言語に絶してゐる。
〔石油と鹽〕
支那に於ける石油は陝西省を第一とし、四川を第二としてゐる。四川盆地に於ける油田は頗る廣く、江北、成都、重慶、嘉定、邛峡、富順、保寧、射洪等各縣に埋藏量豐富と云はれ、その量は不明である。而して、最も著名な産油區域は卽ち自流井で約十ヶ所に散在し、原油發見は民國初年であるが、その頃は油井數は約四十で、土民は土法により原油を汲取し、一日一井約二噸の産出を見た。次いで民國十八年頃より外人技師を招聘して採掘を試みてより、今日は一年平均産油量は三萬八千八百四十餘斤に及んでゐる。而して四川の石油は、更に科學的に新鑛の探査をなし、設備の改善、輸送路の完成等を圖れば、その將來は見る可きものがあると思はれてゐる。
次に鹽、卽ち巖鹽及び鹽泉が頗る豐富で、鹽産地は全省を通じて二十七ヶ所を算し、大體北部産地は嘉陵江流域及び涪江、沱江の貫流地區にある。南部産地は金沙江、岷江の合流地點附近に多い。四川鹽はその品質の良好なること全國第一である。
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