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戰蹟の栞(115)

陝西省(2)

〔咸陽(シェン・ヤン)〕
 西安の西北五十支里隴海線に沿って南は渭水に面し、城壁高く河岸に聳えてゐる海抜二千百四十呎、西安より三百四十呎だけ高地である。城の周圍は約十二支里、土磚の壁が市街を圍み九門を有してゐる。人口約四萬、東門より西門に通ずる十二町の街區にて、縣署、郵政局等の官衙及び商賣が多く市中は割合に蘩華である。
 秦の孝公は商鞅宮廷をこゝに築き、始皇帝もこゝに都して天下に號令し、渭水の對岸渭南の上林苑中に土工を起して、阿房宮を造營した。然し、いまや渭水の水は徒らに悠々たれ共、始皇の雄圖は只一夢に歸し、阿房の宮跡は徒らに遊子をして英傑の歷史をわびしく物語るのみである。

〔臨潼(リン・チョン)〕
 臨潼は西安の東約五十支里渭南縣に至る東八十支里、涇陽縣には西北七十支里の地にある隴海線中の有名な街である。市街は周圍五里、磚製の城壁を繞し、西、南、北に三門がある。城北は開豁なる平原をなし南東は驪山の傾斜により高度をなしてゐる。
 渭水水運の要路に當り、大小のジャンクが頻々として往來してゐる。咸陽以西には大船が上がれないから山西の鄕寧から黄河を降って來る石炭は、此の地で荷役して西安迄馬車で運ぶ。近頃は隴海線が開通したので主として鐵路を利用してゐる。
 渭水の兩岸地帶から産出する年額一億二千萬斤の特産棉花も多くは臨潼積込みで黄河に出される。臨潼附近の渭水は、平時河幅が五百米もあり巨大な船が往復する。渡船の如きも長さ三十尺、幅二十尺もあり、構造頗る堅牢、浮棧橋の如き形をしてゐて、荷物を滿載した馬車五六臺と十數頭の牛馬を同時に搭載することが出來るといふ素晴らしさである。

〔華淸地の溫泉〕
 池は臨潼の南門外にある。驪山の麓に在って、泉は溫く、臭味もなく、唐の時代に行宮をたてヽ明皇に至って、さらに華淸宮と云ひ楊貴妃の浴したところと呼ばれてゐる。當時の宮殿はすでに亡はれてゐるが、いまに華宇磁池は極めて美しい。省立第二民衆教育館もそのなかに付設されてゐる。泉は十池に分かれ、垣根で遮られ、垣内の高閣長廊、風景秋美、優等池は三つ、男湯二つ、女湯一つで、入浴すれには皆切符を買わねばならぬ。驪山の東麓に秦の始皇帝の陵が丘の如く隆起してゐる。陵地は昔九頃十八畝あったと云ふが、現存するのは漸く十分の一、餘は悉く麥畑である。

〔涇陽(キン・ヤン)〕
 渭水流域の平野に位し、西安を距る北五十支里にあり、五峯山の餘勢緩かに迫り、平野中に突出し、咸陽との間を遮ってゐる。渭水平野に於ける主要なる棉花の主産地で、棉花の取引が最も盛んである。牛皮の取引も稍々盛んで、この外甘肅地方との藥材の取引が在る。

〔灞水(パ・シュイ)〕
 臨潼を出てから、西安に向ひ西に進めば渭水まで、附近一帶には古墳群がある。此の天然の高地の如く屹立する小山が秦の始皇陵である。口碑によれば、漢の高祖は始皇陵を盗掘して漢室創設の費に供したとのことであるが、内容の充實空虚如何は知らず、外觀の土饅頭は巍然として空中に聳えて見える。
 西安の東十里の手前、灞水には長さ七十米もある石橋がある。南畫に相応しい光景であり、古の長安の東関で、唐詩選により後世に迄、我々に當時の長安人士の人情美を偲ばしめる祖道の宴は、この石橋の畔で催されたものだ。この橋はまた銷魂橋と云って、長安の人士は地方に赴く人を灞橋まで見送り、こゝで柳の枝を手折って袂を分かつのを習はしとしたので名高く、そのためか、この橋は別離に關する詩句が多い。星移って幾歳、今日柳絮徒に飛ぶを見るのみである。

〔漢中(ハン・チュン)〕
 漢中は漢楚軍談で人口に膾炙されてゐる。漢の高祖が未だ劉邦のころの都である。現在の城市は當時の遺跡ではあるまいが、揚子江上流蜀の大巴山々嶺上の都市として相當立派な城壁を殘してゐる。築城法は他に類のない造營式で、長安の都を模倣して東北四分の一を未完成のまゝ終った姿である。
 その昔、劉邦が參謀長張良の策をいれ、一擧にして咸陽を陥れ、始皇帝が統一した天下を横領した後、忽ち項羽の襲撃を受けた時、奇策を用ひて項羽に會見し巧みにごまかして、燓噲と共に遁げ出しと云ふ史跡の鴻門は、咸陽の東方とのことであるが、もはや今日では尋ね可くもない。

〔三原(サン・ユアン)〕
 いはゆる陝西の北山は耀河において山勢盡き、耀河以南はその餘勢で裾野の如き形をなし臺地をつくってゐる。その臺地が三原、渭水の流域中の都會である。
 阿片禁止令が行はれてから、昔時阿片の栽培地だったこの地方は一變にして棉花の産地となった。商業は
中々盛んで、金融機關の如きも中國銀行、秦豐銀行をはじめ多數の錢舗がある。

〔渭南(ウェイ・ナン)〕
 渭南は黄州の西五十支里、西は八十支里にして臨潼縣に至る。城北には溢水が流れてゐる。市街は周圍四支里の土磚の城壁を繞らし、東西南北に門が在る。人口は約四千、縣署、郵政局、關帝廟などがある。

〔醴泉(リ・チュアン)〕
 西安を去る百二十支里、東南七十支里にて咸陽に至る。人口約三千。周圍六支里の土磚の城壁に繞らされ、主なる官署は縣署、縣議會、儒學所、郵政代瓣所、關帝廟、觀音閣、城隍廟、文昌廟などがある。

〔同官(トン・クワン)〕
 宜君を距る北九十支里、耀州は南に七十支里、四面山に圍れ地勢が高い。人家約八百、縣署、警察署、高等小學校、文廟、福音堂、七練兵兵舎等がある。

〔耀州(ヤオ・チョウ)〕
 縣城は西安を距る北へ約百六十支里、渭水の一支流沮水が郊外を繞り白柳樹の綠に包まれた美しい街で、縣署、巡警總局(戒煙局)、郵政代瓣所、高等小學校、初等小學校(三つ)、縣農會、商務分會、孝廟、式廟、文廟、城隍廟、山寺禪林等がある。人口約一萬三千、地方貨物の集散地、商業は一般に蘩昌してゐる。

〔龍駒塞(リュン・チュー・チャイ)〕
 西安を距る東南四百五十支里、漢水の支流丹江が市街の南を洗ひ、西岸には山が高く聳えてゐる。市街は河に沿ふ一條街で衙門、警察署、益民鹽局、税關徴収局、郵政局、兵營等あり、相當蘩華である。

〔商州(シャン・チョウ)〕
 商州は雒南を距る九十支里、百二十支里で龍駒塞に通じ、漢口に至る水利の便がある。卽ち漢水の支流丹江により西安より藍田を經て河南省に通ずる。この道は韓愈が貶せられて潮州に行くとき通ったところと云はれ、韓愈の詩により有名な藍關がある。
 市街は長方形で、東西約五千、南北の城壁があり、人口一萬を超ゆ。主なる官衙學校は、縣署、巡警局、初等師範學校、郵政局、縣會議事堂、旅團司令部、自治公所、初等小學校等がある。

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